10.第二の反復 虐殺兵器⑨
「水晶というのは皇女殿下の御名だよ。まさか知らなかったとはな」
「煩えよ。こちとら世間一般の常識を必要としない職種なものでな。それに今迄誰も教えてくれなかったからな。これでまたひとつ賢くなったぜ」
「無知を誇るな。新聞くらいには目を通すべきではないかね」
「無知を自覚している奴の方が偉いって古代希臘の偏屈なおっさんも言っていたぜ。それに新聞なんか見たところで、分かるのは新聞社の記者に首輪が繋がれているか、政府の方針に忖度した腑抜けた態度ばっかじゃねえか。信憑性のある数値なぞ汲み取れねえよ。お前だって最前、事実をねじ曲げた側だと白状しただろうが」
「そう言われては返す言葉もないが――貴公の場合、読み方が悪いのではないかね」
「うん? どういう意味だよ」
「貴公は、私が思うに、印刷された文字しか追ってないのだろう?」
「そりゃ当然だろうが。文字が書かれてあるから速読して処理するんだろうが。情報に価値があれば記憶、そうでないなら即刻削除だ。もっと言えば、今日の配達は半々刻遅かったとか、洋墨の発色が悪いが安い印刷屋に変えたのかとか、詰まらぬ記事を書く者は馘首にしてしまえとか、そんな些細なことまで考えるぜ。他に方法があるのかよ」
「成る程。書いて字の如く文字を観ているのだな。それでは足りんぞ。いいか、情報を取り締まる側として一日の長がある先達として助言させてもらうが、新聞とは大衆心理を導く――謂わば民意の前触れでもあるのだ」
「前触れ?」
未来予知みたいなもんか、と黒曜が訊けば、そのようなところだ、と裏辻が答える。
「我が国の識字率はまず十割といってもいい。乞食や孤児だって文字は読める。教育改革の甲斐あってか、凝り性な日本人の気質ゆえかは知らんが――新聞というのは、多くの臣民が目にする情報媒体且つ娯楽でもある。新聞を取らぬのは世捨て人か、寮住まいの苦学生くらいだろう。現代において新聞を書いている記者も新聞を読んで育った世代だ。卵が先か、鶏が先かという話ではないが――新聞が民衆に、民衆が新聞に作用しあって、跫音もなく、徐々に、しかし遍く、強固かと思えば吹いて消えるように――世論というものが形成されていく。米騒動や労働争議の広まりと収束が良い例だ。ここまでは良いな」
「ああ。熱しやすく冷めやすい――煽動者とは頗る相性の悪い、思慮の浅い国民性だな」
「懐が深く、柔軟性に富んでいると表現すべきだと私は思うがね。兎に角、今や国民生活と新聞というものは切っても切り離せぬ関係にあるのだ。それは紙面にお見合い相手の募集条件を載せたり、人生相談と銘打って悩める者を説き諭したりなど――容易に想像できるだろう。詰まるところ、世情を知るにはうってつけの手段――失敬、この言い方では貴公に伝わらないな。世俗に溶け込む間諜に相応しい中庸な人間には、新聞の観察が必要不可欠であると私は考えている。ゆえに正確な情報源、数値や物証だけを捉える貴公の読み方は勿体ないと思う」
「けっ。ご高説ありがとうよ。お前が言うことなら間違いはないんだろうが、ならご教示願おうか。数値や物証に頼らない読み方ってやつを。俺にゃ、中身が低俗なら汚い洋墨のシミにしか見えないんだよ。まさか空白から記者の思想を汲み取れと言うんじゃないだろうな」
この間帝大でやった超能力の透視実験じゃねえんだよ、と黒曜が言えば、当たらずとも遠からずだな、と裏辻は意外な返答を寄越す。
「流石に空白からは何も読めない。空白だからな。注目すべきは文脈と傾向だ」
「続けてくれ」
「端的に述べるぞ。行間を読むのだ。述べられていること、敢えて語られずにいたことを把握して、記者および新聞社が真に言いたいことを類推するのだ。ブン屋というのは、飯の種を求めて全国津々浦々を放浪する姿は、憐れな野良犬の如し姿だが、それでも言葉を繰る職業であり、その果てにあるひとつの境地でもある。記者達は、紙面という文字数が限られた中で、検閲しているこちらが厭になるくらいに、これでもかというほどに思想をねじ込んでくるのだ。表記されているのなら我々も理由を付けて処分できるのだが、奴等もそこまで馬鹿ではない。核心部には触れられていないのだが、その癖、貴公のような文盲を除き、誰もがそうと分かるように書いてあるのだから性質が悪い」
「誰が文盲だこら。それなら発禁にでもすりゃいいじゃねえか」
「それではやり過ぎで却って反発を招く。できるのはせいぜい警告だが、相手も海千山千の編集長だ。しかも世論をある程度まで操作できる立場にある。成る程、確かにそのような受け取り方もできますね、担当には私から釘を刺しておきますので、ここはひとつ穏便に――といった具合にやり込められる。最近では取締を諦めて互いの落としどころを探り合うばかりだな。だがそれはまだ良い。無駄に手を汚すこともない。問題は傾向の方だ」
裏辻は、黒曜を一瞬だけ見遣った後、自身の腕時計を見る。
「ここから先は忠告になるが――我々の努力と譲歩の甲斐あって、東京の新聞社とは一応の協力関係を敷くことができた。少なくとも現場の水準ではな。だが貴公の言うような、数値と物証だけを淡々と述べた報告書擬きを書かせたとて、それでは記事として失格らしいのだ」
「つまり、どういうことだ?」
黒曜には、裏辻が言わんとしていることが理解できない。世間や治安を乱しそうな新聞社に対して、それ相応の措置を執らねばならぬことは特高の役目である。対等な協力関係を築くなど、あまりにも悠長かつ寛大な対応であるとすら思う。
「購読者の方々から苦情が寄せられたのではありませんか?」
答えたのは様子を窺っていた新人であった。
「その通りだ。社名までは言うことはできないが、編集長並びに下働きの記者曰く、近頃とみに、新聞記事の内容に関する苦情や要求が増えているんだそうだ」
「記事の内容に関する苦情、ねえ」
新人の発言に、裏辻が機嫌を損ねていないことを確認してから黒曜は考えるが、やはり黒曜には理解できない。
「貴公には、きっと理解できんだろうよ」
「ああ。悔しいがてんで分からねえ。別に大した問題でもないようだし、放置しておきゃいいだろ。そりゃまあ特高にとっては新聞社なんてお得意様、持ちつ持たれつの関係なんだろうがお前が全部面倒を見てやる義理なんてないだろ。斬り捨ててしまえよ面倒事なんか」
「貴公の場合、本当に斬り捨ててしまいそうだから笑うに笑えんよ」
「俺はそのつもりで言ったんだがな。朝刊の良いネタになると思うぜ」
「私には、貴公のことが本当に同じ人間なのか疑わしくなるよ。却説、こんな人皮を被りながら人間社会に潜む悪玉のことは置いておくとしてだ。君には話の筋が理解できただろうか。新聞社が一体何に嘆いているのかを」
尋ねられた新人は、概ねのところは、と肯定く。
「では、君の考えを、この鈍い男にも分かるように言ってくれないかな」
「承知しました。僭越ながら申し上げます。私の推察ではありますが、新聞社で働く方々は俸給労働者であり、新聞を書いて売るのが仕事です。ゆえに、顧客であり、お金を払ってくれる側の意見は、どのようなものでも無碍にはできないのではありませんか。もしかしたら、既に購読者の減少による売り上げの低下に――特高の皆様と購読者の板挟みに――苦しんでいるのではないでしょうか」
「うむ、当たりだ。新人とは思えぬほどに聡明じゃないか。ではもうひとつ。苦情の具体的な内容については予測できるかね」
「国家体制に反対するような記事を求められている程度しか分かりません。少なくとも、裏辻副隊長が調整介入した後の変化を受け容れてはくれなかったと思います。そしてその聲が中々に多かったことが、事態の本質なのではないかと思います」
「宜しい。及第点といったところだ」
裏辻が賞賛すれば、恐縮です、と新人がペコリと頭を下げる。
「黒曜。前々から思っていたのだが、どうしてこう八咫烏には、出来の良い者ほど入りたがるのだ。言っては何だが、私のところも貴公のところも、そう変わりはないだろうに」
「俺が知るかよそんなこと。愚痴を零したくなるほど不作だったのかよ」
「身内の恥を晒したくはないのだが、能力の方向に差異があり過ぎるのだよ」
「何だよ方向の差異って」
「皆、特務課に入るべくして入った優秀な人材なのだがな。私は事務仕事も肉体労働も、間諜工作もある程度は可能な、適度な凡人を求めているのだ。だが入隊してくるのは並外れた生え抜きなのだ。帝大で有名な論文を量産した飛び級の秀才、剣術体術を修めた武人、頭は良いものの血を見ると失神する御令嬢、果ては策略知謀に長けた御老体――」
「贅沢な悩みじゃねえか。まあ、こっちじゃ人員の入れ替わりが激しいから、結果的に優秀な奴しか残らないように見えんだろ多分。隣の芝生は青いって言葉知っているか」
前任は配属後一ヶ月と保たずに死んだ。滑空中に、強風に煽られて均衡を崩したがゆえの落下死であった。前々任は任務中に射殺された。更にその前は精神を病んだがゆえの服毒自殺。それ以前は覚えていない。面子が固まりつつあるのは久方振りのことであった。
「というかそんなことはどうでもいいだろうが」
黒曜は逸れた話題を修正しにかかる。
「及第点と言ったが、満点じゃねえんだな」
「そうだ。話の本題は確かに間違えていない。新聞社とて当然商売だから、顧客が求める記事を書く必要がある。迎合と言われようが、我々特高に睨まれようがね。改めて訊くが、どのような要望が多かったか分かるかい?」
「申しわけありません。分かりません」
「責めているわけではないから謝る必要などないよ。思考を放棄している黒曜よりはましだからな。しかし、それは本当かね? 私の密告を警戒しているわけでは――ないようだな」
裏辻は、新人の爪先から頭の天辺までを点検するかのように眺めてから。
「水晶殿下についてだよ」
と言った。
真黒な瞳は爬虫類の如し。
予告もなく始まった特高式の密偵調査は済んだらしい。
「皇女様、ですか?」
「ああ、そうとも。我が国の臣民は、愚かにも皇女殿下の醜聞をご所望というわけだ。正確には憂慮二割興味八割といった具合だろうか。玄武殿の前では口が裂けても言えぬことだが」
「それはまあ、何とも厄介な香りしかしない案件だな。それにしても高貴な御方の失態を望むとは、この街の人間は、底意地が悪い連中しかいねえみたいだな」
この俺が言うんだ間違いねえ、と黒曜が言えば、貴公も機知に富んだことを、と裏辻も笑う。
「しかしまあ、水晶殿下が、やんごとなき血筋をひいているかというと、それも違うのだ」
「うん? なら何故殿下と呼んでいるんだ。皇室典範に依れば、陛下と呼ばれるのは天皇、皇后、太皇、太后、皇太后だ。それ以外の皇族が殿下と呼ばれるんだろう」
黒曜は不意に懐かしさを覚えた。
同時に右腕が疼いた。
「それは確かにそうさ。だが水晶殿下は、一度は皇后の候補に挙がった人物でな。まあ、その後に色々と物議を醸して、その話はなくなってしまったわけだが――ほら、語感が良いだろう。だから今でも水晶殿下という名前だけが定着してしまったのだ」
説明を聞いた黒曜は、分かったような分からないような、形容し難い不安に襲われる。
郷愁と後悔を煮詰めて残った澱を無理矢理嚥下したかのような。それでいて、旧友や許嫁と思いがけず街で出会ったかのような、仄かな熱と甘さ、少々の安堵も確かに存在して。
この時、黒曜は自身の中でけたたましく鳴動する警報を聞いたが、一体それが何に起因するものかまでは考えが至らなかった。
「何だよ、物議を醸したって。皇女サマは素行が悪かったのか?」
「いや、そんなことはない。我々特高も調査に駆り出されたが、年頃の娘にあって然るべきの浮いた話など一切なかった。美人薄命というのか清廉潔白とでも言うのか――私の足りぬ頭では言いようのないほど、外側も内側も美しい少女だった。ゆえに当時の皇太子も一度はその気になったようだが」
「だが何だよ。別に勿体振る必要もねえだろ。答えが分かっている話なんだから」
この話は既に終わった話なのである。
皇太子である裕仁親王の妃は、久邇宮家の良子女王に決定したと、今年大正十年二月十日に政府が正式に発表したのだ。
尚、妃の選定において、久邇宮家側に、色覚異常の遺伝子があることが発覚して、元老院のひとりである山縣有朋や内閣総理大臣の原敬をはじめ、反藩閥派や右翼の人間まで巻き込んだ政変にまでなったが――結局決定は覆ることはなく、宮内省は事を進めた次第である。
宮内省が朝令暮改を繰り返すようでは、肺病及び髄膜炎の療養の為、現在京都にいる大正天皇にも悪影響が出ると考えたのだろう。
今でこそ、東京は名残で帝都などと呼ばれ、帝国議会や各省庁の本部が置かれているが、向こう十年で首都機能を京都に移すことに相成ったのだ。
当然これには強い反発があった。
だが、生まれた時から病弱であった天皇が東京では生きていけないこと、あの大災害の結果、人間と蒸気機関との共存は無理だという世論が形成され――遷都の話が持ち上がったのだ。
それは機関に使われることに飽いた人間や日本という国を神聖視する者にとってはとても魅力的に映ったことであろう。
可哀想なのは東京に残された人間であるが、そう問題にはならぬ。
人間は集い、協調して、発明することに長けた化物のような生物である。きっとどうにか協働して、最善とまではいかなくとも次善の未来をどこかの誰かが掴み取る筈である。
「水晶殿下は、全身が真っ白だったのさ」
裏辻はやや聲を潜めながら言った。
「真っ白というと、あれか。外つ国の遺伝子が悪さでもしたのか」
「違う。その可能性は零だ。あの御方は、歴とした日本人だよ」
「ならどうして――ああ、成る程。先天性色素欠乏症というやつか」
「そういうことだ。いくら血筋と教養、そして容姿に秀でていたとしても、それではな。皇太子がそうと仰ったことはないが――きっと御心は水晶殿下に傾いていただろう。だが、それは先帝を始めとする重臣達が認めなかった」
「待て、それはおかしいだろう」
黒曜は堪らずに遮る。
「先天性色素欠乏症は、確かに外見上は奇異だ。当人の紫外線への耐性が皆無で、羞光や弱視、日焼けで皮膚癌の発症率も高いと聞く。だが所詮は劣性遺伝だ。皇太子側に同じ遺伝子なければ発現しない。次代の男子に影響などまずないだろう」
「貴公、やけに詳しいな。やはり、貴公は」
「何だよ。言っておくが、これでも医学書は読み漁っているんだよ。何せ病院に担ぎ込まれる回数が人より多いものでな。ついでに言えば、この後も、義手の保守点検やら怪我の治療やらで寄るつもりだよ。そうだよ。俺は病院に行かなきゃならねえんだ。肺まで切られたせいで、さっきから呼気が漏れて喋りにくくて仕方ねえ」
肺も煙草と硫黄で汚染されているから交換してもらうとしようかね、と黒曜が言えば、それを冗談と思ったのか、新人はクスリと笑った。
「というか、なんでこんな話になったんだ。そうだ、元はといえば、新聞の読み方がなっちゃいねえという話になって、それから姫サマの醜聞を狙う不届き者が多いという話になったんだったな。でもよ、妙じゃねえか。御偉方の思惑で婚約が流れたっていうんなら、市民から同情こそされるかもしれないが、醜聞を望まれるってのは言い過ぎだと思うんだが――ああ、やっぱりいいわ。頼んでおいてなんだが、そこまで姫サマのこと興味ないわ」
「貴公が、それを言うのか」
裏辻は咎めるかのように言った。きっと、己の過去に関して、障りのある態度だったのだろうと黒曜は察したつもりになる。察したからこそ、黒曜は何も言わなかった。この手の据わりの悪さは幾度となく体験してきたが、未だに慣れることはなかった。
「貴公に忠告をひとつ。蒸気機関ならびに水晶殿下に対する悪口は、どこであろうと控えることだ。壁に耳あり障子に目ありとはよく言ったものでな。この壊れかけた帝都だった場所において、秘密などあってないようなものだ。最前も言った通り、この私ですら、どこの誰が間諜なのかが掴めずにいるのだからな。努々(ゆめゆめ)、油断だけはするなよ」
「忠告、覚えておくぜ。それじゃあ、大分話し込んでしまったし俺達は行くぜ。残党がいないとも限らねえ。用心しておけよ。依頼の件、頼んだぜ」
「分かっているとも。では、私はこれで」
「おう、生きていたらまた会おうぜ」
「貴公は死なないだろう。仮令死んでも蘇るだろうに」
裏辻は歩き出すが、何かに気付いたように振り返る。
「お嬢さん。またお目にかかりましょう」
柔らかな微笑みを一瞬だけ浮かべると、今度こそ歩き出して三菱A型に乗り込む。
自動車はすぐに発進していった。
「相変わらず気障な奴だぜ。おい、いつまで呆けているんだよ。早く戻れよ」
「――あ、すみません!」
新人は赤い顔をして大袈裟に頭を下げる。
そのせいで、朱い飾紐で結わえた髪が跳ねるように動いた。
――お嬢さんねえ。
こいつが女だってこと、嘘も誇張も抜きに初めて知ったぞ俺は。
「お前、ああいう奴が好みなの?」
「いや違いますよ。とても怖い方だと思いました。相手が何を考えているのか分からないのに、こちらの考えていることは全て見透かされているようで恥ずかしくなってしまいます」
「成る程。観察眼は確かなようだな。よく見てやがる」
「え?」
「いいや、なんでもねえよ」
人間誰しも、己の裡を暴かれるのは本能的に忌避してしまうものである。痛くもない腹を探られるのは不快であろう。しかも性質の悪いことに、年齢を重ねるごとに、秘匿すべき過去は増えていく一方である。卑怯い思い出、慚愧しい思い出、凄惨な創ばかりが増えていく。
黒曜が知る限り、人間は己が思うほど高潔には生きられない。下手に知性をもち良心がある分、悪賢く立ち回り、芽生えた罪悪感を宥め賺して――自分はまだ大丈夫だ。人間でいられると信じて懲りずに悪事に走る――どこまでも学習しない不可思議な生き物である。裏辻はそういう人種の嘘を見抜く術を身に着けているのだろう。
「あの、隊長。あの御方とどのような関係なのですか」
「特別語ることもねえぞ。ただの顔見知りに毛が生えた程度だ。だから奴の交友関係やら許婚がいるかすらも知らねえぞ。紹介はしてやれねえ」
「だから違いますってば。私が気になったのは、隊長とあの人が親し気だったことです」
「お前からはそう見えたのかよ」
「はい。あの人と、目を合わせて対等に喋ることができるだけでも凄いと思います」
「そりゃ、お前の中に疚しいことがあるからじゃねえの?」
「それはないとは言いませんが、隊長にはないのですか、そのようなものが。あれだけ人を殺して、どうしてそのように平然としていられるのですか」
詰られたような気がして黒曜は新人を見るが、新人は自動車が去って行った方向を眺めるだけであった。その横顔が憂いを帯びていることは分かるが、それ以上のことはまるで解析できない。
ゆえに。
「ねえよ、そんなものは」
新人を慮ることもせず、黒曜は淡々と述べる。
「お前に言ったかは覚えてねえが、俺は三年前にやらかしたらしくてな。記憶と右腕をどっかに落っことしたらしいんだわ。多分良心というものも一緒にな。だからまあ、何と言うのか。人として喪くしてはならない大切なものが欠落したガラクタか、出涸らしみたいな存在なんだよ俺は。だから伊達男に睨まれようが平気なんだわ。お前も期待すんなよ。自分にも他人にも、この国にもな。ここは人間と蒸気機関が逆転した青息吐息の連中が蔓延る帝都だった街だ。家康公が築いた江戸三百年の歴史だとか、文明開化と富国強兵を看板に、明治天皇が立てた大日本帝国憲法とか、そういう人間くさいものはどこにもなくなったんだよ。少なくとも俺は、他人を殺しても何とも思わねえ。否、違うな。殺すことでしか報われない――償えない何かがあるのかもしれねえ」
「償い、ですか」
「くだらんことを喋ったな。お前が何を思ってこんな部隊に入ろうと思ったのかは知らねえし興味もないが、お前がまだ人間を辞めたくないと――人を殺してまで、人間であることに拘りたくないと思うなら精神が壊れる前にちゃんと言うことだ。俺から上に話を通して違う部署に異動させるし、それか事務仕事だけやってくれるだけでも大助かりだよ」
「それは、きっと大丈夫だと思います」
先刻よりも強い口調で新人は言った。
新人は黒曜を上目遣いで見詰めている。
その視線は誇らしげであった。
「馬鹿かよ、お前。頭のネジを落としちゃいねえだろうな」
そんな目で見られるくらいなら軽蔑された方が良かったと黒曜は思う。
街ゆく者達が遠巻きに投げかける視線などがまさにそれである。駄菓子屋の前にいる三人の子供など、誰が石を投げつけて追い払うかを決めるために言い合っており、それに気付いた母親が血相を変えて止めに入り、子供達を抱えて屋内に連れて行く。
――嗚呼、それで良い。悪者には相応しい待遇があるというものだ。
それが自然の帰結というものである。
「隊長。あの親子に何かするつもりですか」
「まさか。ああいう手合いを相手にしていたらキリがねえ。おら、無駄話は終いだ。車に戻れ。分かっているとは思うが、これまれの会話は誰にも言うなよ。当然、隊員にもだ」
「隊長は、この隊に内通者がいると疑っておいでですか」
「いや。それができるほど器用な奴はいない。だが無用な疑いを掛けないために。仲間を信用するために守らなければならない規律ってもんがあんだよ」
「分かりました。誰にも言いません」
「ああ、待て。行き先だが、官舎に戻る前に帝大の病院に寄ってくれ」
「病院ですか?」
「先刻も言っただろ。肺まで切られて喋り悪いって。義手の点検もあるしな」
右脇腹を撫でるも、仕込んだ装甲のせいで外見からではまず分からない。案の定、冗談か何かだと思ったであろう新人は、了解しました、と薄く笑いながら運転席に戻っていく。
車内を見れば、目を開けて周囲を警戒しているのは玄武だけで、後部座席の二人は、ひとりは美味そうに煙草を吸っているし、もう一人はコクリコクリと船を漕いでいる。任務は終えているようなものだから玄武も注意しないのだろう。
――まさか、日頃の厳しすぎる訓練の影響がこんなところに出るとはな。
休める時に休んだ方が良いのは確かである。いつ出撃の命が下るとも分からぬ身の上であるためである。だらしない姿であり、上が見たら怒鳴られるだろうが、成果は出しているのだ。文句は言わせない。言われたところで気にするほど、殊勝な心がけの奴はいないだろうが。
黒曜は目を瞑り、喪失した過去はどこに在るのかと己の裡に問い掛ける。
だが浮かび上がってくるのは有象無象の骸ばかりであり、疑問だけが深閑とした胸中を木霊するだけであった。
喪くした筈の右腕がズキリと痛み出した。




