高夜とひなぎく・九編
_____最終日。
「おはようございます、高夜さま。お加減はいかがですか?」
最後の一日は、開いた襖からひょっこりと顔を覗かせながら声を掛けてきた、ひなぎくの鈴を鳴らしたような可憐な声で始まった。
「……ああ…悪くない……」
体調はお世辞にもいいとは言えなかったが、愛しいひなぎくの顔と声から一日が始まるのは気分がいい。
高夜は額に脂汗を浮かべつつ、穏やかな笑顔をひなぎくに向ける。それを悟ってひなぎくは、慌ててその汗を手拭いで優しく拭った。
「…高夜さま、どうか無理はなさらないでください」
「……大丈夫だ……無理はしていない……。……だから頼むから……私から、お前と過ごす最後の日を奪わないでくれ……」
「…!」
懇願するように寂しさを多分に含ませて笑う高夜の様子に、ひなぎくは目を見開く。これほど自分との時間を大切に思ってくれることが嬉しく、その高夜を置いて今日の夕刻には眠りにつかなければならない事実が悔しい。
(……もっと、お傍に____)
___いたい。
言いたい気持ちを抑えるように、ひなぎくは握った手拭いを小さく握った。
きっと高夜も同じ気持ちでいてくれているのだろう。だからこそ、それを言葉にしてしまえばお互いにその気持ちを抑えられなくなる。間違いを起こせば十中八九傷つくのは高夜で、傷つけるのは他でもない自分なのだ。
____それだけは決して、してはならない。
ひなぎくは己の想いを心の奥底に隠して、いつもの穏やかな笑みを高夜に返す。
「…朝食を召し上がりますか?高夜さま」
朝食を摂り終えた後、ひなぎくは高夜の望み通りずっと傍に寄り添った。時折、高夜の汗を拭いながら他愛のない会話を交わし、共に外の景色を眺めて穏やかに笑う。いつもと変わらない、いつもと同じ日常。だけれども二人にとっては、特別な日____。
高夜は、この日だけはと一つだけ我儘を言った。
____この日だけは、眠りたくない。
体が本調子でない事も、眠る事が体を癒す事になる事も、重々承知してはいた。だがきっと体が求めるままに眠ってしまえば、必ず後悔するだろう。きっと一生、眠ってしまった自分を許せなくなる。だから眠ってしまいそうになった時は、必ず起こしてほしいと懇願した。無茶をしてはいけない、とひなぎくが断れば、彼女に命令をしてでも無茶を通すつもりだったが、思いのほかひなぎくは二つ返事で承諾してくれた。
その望み通り何とか眠らずに午前を過ごしたが、昼食を摂った後、胃が満腹になったからか強い眠気が高夜を襲った。うつらうつらと瞼を開けては閉じてを繰り返す高夜を、申し訳ないと思いつつもひなぎくは起こし続けた。
「……体を起こしてくれないか……?」
「…え?」
「……体を起こしていた方が…痛みで目が覚める……」
ひなぎくは頷き返して、すぐさまリオグラードと小李に相談した。結果、縁側に座椅子を用意して背もたれに洋式座布団を置き、高夜をそこに座らせてくれた。
「高夜さま、辛くはございませんか?」
「……大丈夫だ……おかげで目が覚めた……」
額に脂汗を浮かべながら穏やかに笑う高夜に、ひなぎくも笑顔を見せる。
そうやって最後の日を、穏やかに過ごした。
縁側に座った二人を、春陽が優しく撫でる。嬉しい事に天気は晴天。春を謳歌する雀たちの鳴き声に交じって、時折遠くから聞こえる鶯の鳴き声が耳に心地いい。
季節は、多くの命が芽生える春。もうすぐ、夏に向かおうとしている。
「……暖かくなってきたな……」
ふわりと吹き込んだ風に交じって、花々の甘い香りと共に初夏の爽やかな空気が鼻をくすぐる。
そうですね、と静かに返すひなぎくを、高夜は視界の端で捉えた。
ひなぎくと共に、夏を過ごす事は決してないのだろう。
夏だけではない。秋も冬も、そしてまた春を迎えても、その隣にひなぎくがいる事はもう決してないのだ。
そうやって幾度となくめぐってくる季節を、これから先一人で過ごす事になる。ひなぎくと出会う前は、それが当たり前だったし当然だった。なのにその当たり前が、今では恐ろしいほどに寂しい。
高夜は一度俯かせた視線を、空に向ける。
「……夏の空を、一緒に見よう……ひなぎく」
「……え?」
「……夏にはこうやって二人並んで空を仰いで…秋には赤く染まった紅葉を見上げながら、茜色に染まった街を二人で歩こう……冬には雪がしんしんと降り注ぐ様子を二人で眺めて…また春になったら、桜と菜の花が咲き誇るあの場所に二人で帰ろう……ひなぎく」
決して訪れる事のない、未来。
そんな未来を語る自分を、ひなぎくは訝しげに小首を傾げて見つめている。
こんな詮無い事を口にする自分は、おそらく約束が欲しいのだ。
たとえ一生守られる事のない約束であってもいい。ただこれからの人生に、生きる意味が欲しかった。この約束を守るために自分は生き続けるのだと、自らを騙す言い訳が欲しかった。そうすれば、この約束がわずかでも、自分とひなぎくを繋げてくれるのだと信じていられるから。
だからどうか、判ったと頷いてくれ。
約束をすると、誓ってほしい。
そんな切実な高夜の視線に、ひなぎくはいつもの穏やかで優しい微笑みを見せる。
「…はい…!必ず…!必ずお約束いたします…!夏も、秋も、冬も、そして春も、私はずっと、高夜さまのお傍におりますよ」
そう言って高夜の手を握るひなぎくの白い手に、視線を落とす。
自分の嘘に付き合ってくれる、ひなぎくの心遣いが嬉しい。
高夜はそのひなぎくの手の上に、もう一つの手をそっと添えて小さく力を込めた。
「……ありがとう、ひなぎく」
**
陽が大きく傾き始めた頃、高夜の前にひなぎくが作った最後の食事が置かれた。
味噌汁に野菜の煮物、だし巻き卵に焼き魚、そして艶やかに炊かれた白いご飯____取り立てて変わりのない、ごくごくありふれた食事。
高夜はひなぎくに何が食べたいかと尋ねられて、迷わず初めて食べたひなぎくの料理を所望した。高夜にとってこれが、何よりのご馳走だったからだ。
高夜はそれを味わうように、ゆっくりと最後の食事を摂った。ひなぎくの作る料理の味を忘れないように、あるいは最後の食事に時間をかける事で、ひなぎくが眠りにつく時間を遅らせようという意図があったのかもしれない。
一分でも、一秒でも、ひなぎくと同じ時間を過ごしたい。
そう願っても、時間の歩みは遅くなることも、ましてや止まる事もない。高夜の願いなど意に介さず、時間は常に一定の速度で一定の時を刻む。
高夜はおもむろに、外へと視線を向けた。
夕日は次第に傾きを増し、影を伸ばしている。この夕日が完全に姿を隠すその前に、ひなぎくは永遠の眠りにつくのだ。茜色に染まった部屋が次第に薄暗くなるにつれ、別れの時間が刻一刻と近づいているのが否応なく突き付けられて、胸に痛い。
何か話さなければ。
もうこれで最後なのだ。
ひなぎくと食事を共にする事も、他愛のない会話を交わす事も____。
そう思うのに、思えば思うほど言葉が出なくなる。
思わず胸がいっぱいになって、たまらず箸を置いたところで、最初に口火を切ったのはひなぎくの方だった。
「…高夜さま」
名を呼んで、膳から少し体を横にずらしてから、ひなぎくはおもむろに居住まいを正す。そうして初めて出会った時と同じように、イグサの香りが強い畳に深々と額を当てて叩頭した。
「この十日間、本当にお世話になりました。短い間でございましたが、高夜さまのおかげでひなぎくは本当に……本当に幸せな十日間を過ごす事ができました」
「…!違う…!顔を上げてくれ、ひなぎく…!礼を言うのも、幸せを貰ったのも、私の方だ…!」
「いいえ、私は果報者です。…機巧人形を物と同じく扱う方が多い中で、高夜さまは本当に私を慈しみ、大事にしてくださいました。どれほど感謝を述べても、それでは足りないくらいの愛情を注いでくださいました。きっとこれほどの幸福を頂いた機巧人形は、世界中探しても私だけでしょう」
「…っ!」
いつもの穏やかな、だがこれ以上にないほどの幸せそうな顔で、ひなぎくは微笑む。その笑顔がなおさら別れを告げているようで胸が苦しい。泣かれてしまっては別れが辛いと思っていたが、実際にはこうやっていつもと変わらない笑顔を見せられる方が、なぜだかひどく胸が詰まって仕方がない。それはおそらく、いつもと変わらないひなぎくがいる日常が、あたかも続くような錯覚に陥ってしまうからだろうか。
思って高夜は、心中で小さく頭を振った。
勘違いをしてはいけない。
今日を最後に、自分は永遠にひなぎくを失うのだ。
その寂寞感を呑み込むように一度固く瞳を閉じて、高夜はゆっくりと瞼を開く。そうして未だに自由の利かない体に鞭を打って、高夜はひなぎくの前に体を寄せ、その細く白い手を取った。
「………温かいな……」
「……高夜さまの手も」
ずっと、人など冷たいものだと思っていた。
誰も自分に触れようなどとは思わないし、自分もまた触れたいとさえ思わない。それが当たり前だったし、人と触れ合う事を知りたいとさえ思わなかった。
なのに、なぜだろう。
ひなぎくの温もりを知ってからというもの、それをもっと欲しいと思った。
この温もりが与えてくれる得難い感情が、一体何なのかを知りたいと願った。
(……今なら判る……これは安心と、そしてえも言えぬ幸福感だ……)
ずっと孤独だった凍えた心に、ひなぎくの手の温もりはまるで太陽のようだった。
その太陽の温もりを湛えた手に、高夜は小さく口づけを贈る。
「…私はひなぎくからたくさんの物を貰い、そして教えてもらった……たとえここでお前を失ったとしても、ひなぎくと出会えたことはきっと私にとって、この先も意味のある事になるだろう……」
そうして、ひなぎくの温もりを忘れないように、あるいは祈りを捧げるように、高夜は彼女の手を額に当てた。
「本当に感謝している……私と出会ってくれてありがとう…ひなぎく…!」
自分の気持ちを言葉にして伝える事が何より苦手な高夜は、だがそれでも伝えられるだけの感謝を必死に言葉にした。
不器用なりに、一所懸命に、そして、今から眠りにつくひなぎくへの贐となるように____。
そんな高夜の耳に、穏やかで静かな声が届いた。
「…以前、私に仰ってくださった言葉を覚えておいででしょうか?」
「…?」
「…お花見に向かう道すがら、『何か欲しいものがあるのなら遠慮なく言ってくれていい』と仰ってくださいました」
「…!…ああ、覚えている」
「それはまだ、有効でしょうか?」
「当然だ…!何でも言ってくれていい…!!」
「…では、私にも約束を頂けないでしょうか?高夜さまが欲したお約束を、私も欲しいのです」
思わぬ返答に、高夜は小首を傾げる。
物が欲しいか、あるいは思い出を欲するのだと思っていた。予想に反して思いがけないものを要求されて、高夜は怪訝に思いつつ、それでもひなぎくが欲しいというものは何でもしてやりたいと大きく首肯を返した。
「…何だ?どんな約束が欲しい?」
問われたひなぎくは、一拍置いてから口を開く。
「…私がいなくなっても高夜さまには今と同じく、柔らかいお心をお隠しにはならないで欲しいのです」
「…!」
目を見開いた高夜の脳裏に、菜の花畑で聞いたひなぎくの話がよぎる。
____『お優しい方の心はとても柔らかく、それゆえに傷つきやすい』
自分とは無縁の話だと突っぱねたにも関わらず、ひなぎくはそれでも自分の心を『優しい』と評してくれた。それを嬉しいと思いつつ、やはり今でも自分に心はないのだと思っている。
そう、そもそも前提となるものがないのだ。そんな自分が一体どうやってこの約束を果たせるのかが判らず、高夜は途方に暮れたように返答に窮した。嘘を吐くと判っていても承諾をすればいいのか、それとも正直に無理だと伝えるべきか。その答えが出ないまま、それでも答えを待っているひなぎくに、高夜はしどろもどろと言葉を落とす。
「……だが……私には……そもそも人を慮るという事ができない……隠すなと言われても……そもそも隠すものがないのだ……」
「いいえ、そのような事はございません。…だって、高夜さまのお心はこんなにも温かいではございませんか」
「…!」
そう言って、ひなぎくは高夜の胸に手を当てる。それはひなぎくが、自分の心がある場所だと言って普段からよく触れる場所と寸分違わぬ場所だった。高夜は思わず、目を瞬く。
ないと思っていた自分の心も、ひなぎくと同じ場所にひっそりと存在しているのだろうか____?
そう思うと、何やら胸の辺りがほんわかと温かい。
その温かさを確かめるように、胸に当てているひなぎくの手を高夜は優しく握る。
「…覚えていてくださいませ、高夜さま。この温かさは、他の方の傷ついた心を癒してくださいます。そしてこの温かさを、決して絶やさないでくださいませ。きっとこの温かさが、誰かの希望の光になるはずですから」
「……なれるだろうか……?」
「はい、きっと…!」
いつかひなぎくが自分にしてくれたように、自分も誰かをこんなにも温かな気持ちにさせることが出来るのだろうか___?
そう問うた高夜の言葉に、ひなぎくは一片の曇りもない瞳で肯定を返す。
わずかの疑いもない、澄んだ瞳。
その瞳に高夜は目を細めた。
そうして、誓う。
「…判った、約束しよう。…決してこの約束を違えないと……私は誓う」
ひなぎくはただ、満足そうに微笑みを返した。
**
「…時間だ」
終わりを告げたのは、雛の凛とした声だった。
本来なら決して誰にも見せないものだと前置きをして、雛は高夜の立ち合いを許す。それはひなぎくが眠りにつく場への立ち合いの許可だった。
その雛に支えられてひなぎく共々連れて行かれたのは、屋敷の一番奥にある何の変哲もない和室。その部屋の中央にある畳を開くと、下に向かう階段がひっそりとした佇まいで姿を現した。
「…………地下…?」
「音が漏れると厄介だからな」
「……音…?」
怪訝そうに訊き返した高夜に雛は不敵な笑みだけを返して、里生が先導する地下へと足を踏み入れる。ここにリオグラードと小李の姿はない。いつも二人はここには立ち入らないのだと教えてくれたのは雛だった。
「…本当は機巧人形の私も、普段は立ち合わないのだがな」
その言葉に怪訝そうな顔を送りつつ、おそらく訊いても答えてくれないのだろうと予想して、高夜は小首を傾げるに留める。
「ここです」
言って里生が足を止めたのは、階段を降り切った先にある扉の前。純然たる日本家屋の地下には似つかわしくない洋風の扉の取っ手に手を添えて、里生は後ろを振り返る。
「……ここで、ひなぎくは眠りにつくのか……?」
「ええ、ひなぎくさんを目覚めさせたのもこの部屋ですよ」
言いながら扉を開いた先に見えたのは、まるで子供部屋を彷彿する一室だった。
一番に目を引いたのは、ソファや棚に所狭しと並べられた玩具やぬいぐるみ。本棚には挿絵が愛らしい絵本に、赤ん坊をあやすような道具まで揃い踏みだ。その部屋の中央には装飾の凝った洋風のベッドが、高窓から差し込む茜色の夕日に染められて、ひと際存在感を放っている。
その想像とかけ離れた部屋の無邪気な雰囲気に、高夜は唖然とした。
「…想像と違ったか?」
「……もっと…厳かなものかと……」
「最初はもっと殺風景だったんだがな。そのうち里生があれやこれやと運び入れて、最終的にこうなった」
「だって、あんな殺風景な部屋で目覚めたら怯えるじゃないですか。生まれて初めて見る物はやっぱり心躍る物じゃないと」
どうやら里生にとって心躍る物とは、玩具やぬいぐるみといった類らしい。
(……どうりで子供と言われるわけだ……)
心中で呟いて苦笑を落とす高夜の視界に、わずかに不安を含んだ表情でこちらに視線を寄越すひなぎくの姿が入って来て、高夜は軽く目を見開いた。そうして、そんなひなぎくの不安を拭おうと、できるだけ穏やかな微笑みを返す。その笑顔にほっと胸を撫で下ろすひなぎくを確認してから、里生はベッドに横になるよう促した。
「……やはり機巧人形でも、死ぬのは怖いものなのか……?」
ベッドに腰を下ろして眠る準備を始めるひなぎくを寂寞感と共に眺めながら、高夜は隣にいる雛にぽつりと訊ねる。
「…いや、眠りにつくことは怖くない。機巧人形が怖いのはただ一つ___志半ばにして主と離れる事、それだけだ」
「…!」
「そういう意味では、ひなぎくは後ろ髪を引かれる思いだろうな。…彼女の目的は、まだ完遂できてはいない」
「………それが何かは、教えてくれるつもりはないのだろうな……?」
それには明言を避けて、ただにやりと笑う。
雛たちの徹底した秘密主義に高夜はうんざりしたような顔を返して、再び視線をひなぎくと里生に戻した。もう準備は整ったのか、ひなぎくはすでにベッドに横たわり胸の辺りで指を組んで瞳を閉じている。
(……まるで棺に横たわっているようだ……)
嫌な光景だ、と思う。
雛は『眠りにつく』と表現したが、ひなぎくの存在自体がこの世から消えるのだから結局死ぬことと同義だろう。それをまさに体現しているかのような目の前の光景に、高夜は一瞬目を背けそうになる。
それを押し留めたのは、雛の一言だった。
「ひなぎくの最後をきちんと目に焼き付けておけ」
「…!」
そうでないと、立ち合う許可を出した意味がない。
そう言いたげな雛の視線を受けて高夜はわずかに視線を落とした後、意を決したように三度視線を戻す。ちょうど、里生が懐から何やら取り出す仕草を見せた時だった。
「………篠笛……?」
里生の手にある篠笛に、高夜は覚えがあった。
彼と初めて出会った時、自分の首に押し当てられたあの篠笛だ。里生はその篠笛をゆっくりと口に当てがって、静かに息を吐く。地下にいる所為か耳に痛いほどの静寂の世界に、心地いい優しく柔らかな篠笛の音色が響き始めた。
「……?……これは……子守歌…か?」
「子守歌か。なかなか的確な表現だな」
「……里生が奏でる笛の音で、機巧人形は眠りにつくのか…?」
だとすれば、なおさら御伽話のようだと高夜は思う。
あの篠笛に何らかの仕掛けが施されて、その音色で機巧人形たちが目覚めたり眠ったりするのだと言われた方が、まだ信じられただろう。
そう言いたげに目を見開く高夜を小さく一瞥して、雛はくすりと笑う。
「残念ながら、篠笛に限った話ではない」
「……え?」
「楽器なら何でもいいんだ。笛でも、口風琴でも、何なら歌声でもいい。里生が奏でる音楽が、機巧人形に命を吹き込み、そして眠りにつかせるんだ」
高夜は一度、雛を一瞥してから、その信じがたい光景をもう一度視界に入れる。
ただの篠笛の音色が、里生が奏でると不思議なほどに心を揺さぶった。鈴の音のように耳に心地よく、澄んだ音色が有無を言わさず心を包み込む。もしこの音色が視覚化されたのなら、きっとこの一室すべてを金を帯びた光が包み込んでいる事だろう。そう思えるほど、この奏でられた音楽は奇跡というに値する音色だった。
里生の奏でる音色に聞き入っている高夜に、雛は言葉を添える。
「…里生は機巧人形の王だ。この音色に逆らえる機巧人形はいない。…私は先ほど歌声も、と言ったが、歌う事は今はもう禁止にしている」
「…禁止?」
「あれの歌声は二つとないほど綺麗で澄み渡った歌声なんだが、あまりに力が強すぎてこの周辺一帯の機巧人形に影響を及ぼす。まだその認識が甘かった当時、里生の歌声で帝都の機巧人形が一斉に眠りについた。以来、歌う事は禁止にしている」
「……それで地下なのか…」
「普通の機巧人形は、この笛の音でさえ影響を受ける者がいるからな」
含みを持たせたその言い方に、高夜は得心する。
その音色を今もこうやって平然と聴いている辺り、雛は『普通の機巧人形ではない』という事だろう。
「里生は機巧人形の絶対的君主なんだ。私でさえ逆らえないし、人間の命令よりも里生が優先される。…ゆえに我々、機巧人形は、里生の奏でる音楽を『小君主の聖譚曲』と呼んでいる」
「……小君主の聖譚曲……」
言いえて妙だ、と思う。
機巧人形の中で唯一、神より奇跡を与えられた機巧人形。
そして機巧人形に奇跡を与えることを許された、唯一無二の存在。
そんな存在を言葉で言い表すのなら確かに、『機巧人形の絶対的君主』という表現は正鵠を得ているだろうか。
(…そこに子供を意味する『小』をつける辺り、親しみと愛嬌があっていい)
思ってくすりと笑った後、高夜はもう一度『小君主の聖譚曲』に耳を傾ける。やはり温かな金色を帯びた光が音色に乗ってひなぎくを優しく包み込んでいるように感じるのは、おそらくただの思い違いではないのだろう。
まるでそれを肯定するように、雛は呟く。
「……綺麗だろう?」
「………ああ、綺麗だ……」
ベッドに横たわるひなぎくが、まるで湖面で太陽の光を反射しているように金に輝いて見える。これは確かに『死』と表現するよりも、雛が言うように『眠りにつく』という表現の方が正しい。
高夜はそのひなぎくの姿を、目に焼き付けるように視界に留めた。
篠笛の音色が響くにつれ、ひなぎくの眠りが深くなるのが判った。胸に置かれたひなぎくの手が呼吸に合わせて上下に動く。その間隔が次第に長くゆっくりになるのが見て取れた。そうして呼吸に合わせて上下に揺れていた胸の動きは、最後に一度大きく息を吸った後、ふ…っと緩やかにその動きを止めたのだ。
それが、ひなぎくが動く姿を見た、最後だった。
里生の奏でる篠笛の音色が終わって、高夜は自身を支えている雛の手からおもむろに離れた。
そして、たどたどしい足取りで、ベッドに横たわるひなぎくに近寄る。
「……ひなぎく……」
名を呼んで触れたひなぎくの頬は、もう冷たい。
肌の柔らかさも、絹のように流れる黒髪も、そして濡れた唇までもそのままなのに、そのどこからももう温かさはなかった。
それが、ひなぎくがもうこの世に存在しない事を強く物語っているようで、胸が苦しい。
その現実を受け入れるように高夜は一度瞼を閉じて、ベッドで眠るひなぎくをもう一度瞼に焼き付ける。
そうして、ひなぎくの耳元で小さく呟いた。
「……おやすみ、ひなぎく」