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高夜とひなぎく・五編

 _____五日目。


 小李シャオリーの宣言通り、夕刻頃にはひなぎくの熱もすっかり下がって、いつもの穏やかな笑顔を高夜に披露した。そうして、すぐさま布団を片付けて夕食の準備を始めようとするひなぎくに、さしもの高夜も目を丸くして慌てて彼女を制した。今日一日は布団の上でゆっくりしろと思わず命令してしまった事は、きっと誰も咎められる事ではないだろう。


「若さま、一ヶいちがせさまがいらっしゃっておりますよ」


 千代が高夜の部屋に一ヶ瀬と呼ばれた男を案内してきたのは、病み上がりのひなぎくに夕飯を食べさせ、再び布団に寝かせて人心地ついたように自室に戻った頃だった。


 高夜の返答を待たず千代が促すまま部屋に入ってきた男は、一度千代に軽く会釈して襖が完全に閉じるのを確認してから、文机ふづくえの前に座る高夜に深々とこうべを垂れた。


「高夜さま、お調べの件についてご報告に参りました」

「…座ってくれ、一ヶ瀬」


 首肯を返して、一ヶ瀬はその場に腰を下ろす。


 この男がここをおとなう時は、必ず夜だと決まっていた。今日のように玄関を通り、千代に案内されて部屋に訪れるという正規の手順で姿を見せる事はかなり珍しい。それはそのほとんどが深夜の訪問だからだった。


 彼の訪問は、いつも突然で心臓に悪い。寝静まった頃に突然部屋の窓を小さく叩くのが、彼の訪いの合図だった。闇夜に紛れるように全身黒づくめの洋装に身を包んだ男が窓から現れるその異様な光景は、正直何度見てもおぞましいものがある、と高夜は思う。できれば毎回玄関を通って来てほしい、というのが本音だが、彼が人目をはばかるのは彼の生業によるものだろう、と諦観を抱いている。


 彼、一ヶ瀬 征士狼せいしろうは、久遠寺家お抱えの諜報員だからだ。


「…こちらがご依頼の鷺森さぎもり伯爵家ご令嬢の資料です」


 言って、大きな茶封筒を差し出す。

 高夜はそれを無言のまま受け取り、中の資料を手に取って目を通した。


「鷺森伯爵には三人のご令嬢がおられますが、くだんのご令嬢は一番上のご息女に当たります。お名前は『鷺森 静子しずこ』。鷺森伯爵が外の女性を孕ませて生まれた私生児で、ご幼少の頃母親が病で逝去した事で鷺森家に引き取られたそうです」


(……名前が違うのか……)


 一ヶ瀬の説明を聞きながら、心中でぽつりと呟いて資料に添付されていた写真に目を落とす。

 モノクロの写真に写る、あまりにみずぼらしいその姿____。


 ひどく痩せ細り、肌は荒れ、髪はまったく整えていないのかぼさぼさの長い黒髪が顔を半分隠して、その容姿は判然としない。着せられた着物も女中奉公をする女性よりも粗末で、令嬢とは名ばかりのその外見に高夜は思わず眉根を寄せた。


「……これがその静子か?」

「はい。鷺森家ではぞんざいな扱いを受けております。朝早くから誰よりも早く起きて働かされ、夜は誰よりも遅くまで仕事をさせる割に、与える食事は腐りかけの残飯のみ。病に伏したとしても医者に診せる事もせず、病弱な体に鞭を打つように働かせるそうです」

「……何てむごい事を…!」


 聞いているだけも胸糞が悪いその内容に、高夜は眉間にしわを寄せて怒りを露わにする。

 これが爵位を賜った者が行う行為だろうか。品位も威厳もあったものではない。

 高夜は資料を握る手に自然と力を込めた。


「……彼女が嫁ぐ先は?」

「公表されてはおりません。調べましたが嫁ぎ先を知る者は誰も」

「……ずいぶんおかしな話だな?厄介払いできると鷺森伯爵は喜んでいたのだろう?嫁ぎ先を隠す必要があるのか?」

「聞いた話によりますと、その嫁ぎ先として打診している家門から未だ是非の回答が得られていないのだとか。それ故に公表を差し控えているのだと亅

「何だ、それは。話にもならないな」


 憤慨するように、あるいは呆れたように言葉を落として高夜は一蹴する。よくもこれで厄介払いできるなどとうそぶいたものだと、眉根を寄せて渋面を取った。あまりの愚行に、呆れてものも言えない。


 その呆れをふんだんに含んだため息を落として、高夜はもう一度資料に目線を落とした。


「他のご息女の名は何という?」

「次女が『楓』、三女が『紅葉』と言う名だと」

「………やはり名が違うか……」

「……?」


 ぽつりと呟いた高夜の言葉に、一ヶ瀬は怪訝そうに小首を傾げる。


「…いや、こっちの話だ」


 何やらバツが悪そうに顔を背けて咳払いを落とすので、触れてはいけないのだと判断して一ヶ瀬は話を続けた。


「それと、どうやら鷺森伯爵と雅貴まさたかさまは旧知の仲だったようです。ですがある時を境に袂を分かったと」

「…!……叔父上と鷺森伯爵が……?」

「それがここ最近になって、雅貴さまは再び鷺森邸に頻繁に通っておいでです」


 言って一ヶ瀬は、懐から三枚の写真を取り出し畳の上に差し出すように並べた。そこに映っていたのは、紛れもなく高夜の叔父・雅貴が鷺森邸に出入りする姿だった。


「…これは私見ですが、鷺森伯爵がご息女である静子の嫁ぎ先として打診しているのは、久遠寺家ではないでしょうか?」

「…私の婚約者に……という事か……」

「はい。鷺森家は事業を広げ過ぎて、今やその経営は逼迫しております。今は袂を分かったとは言え、元々は知己の間柄。地位も財産もある久遠寺家と縁組が出来れば、鷺森家は安泰となりましょう」

「…………」


 一ヶ瀬の話を聞きながら、高夜はもう一度、静子の写真を手に取った。

 そこに映る、やはり不憫であまりに痛々しい姿____。


 哀れだとは、思う。

 救ってやりたい、とも思う。

 彼女は何一つ悪いわけではない。ぞんざいに扱われる謂れも、これほどむごい人生を送るとがもないはずだ。


(……ここに嫁げば、彼女は少なくともこの奴隷のような生活から逃れることが出来る……)


 そう思うのに、どうしても首を縦に振ることが出来ない自分がいた。


 少し前なら躊躇うことなく承諾していただろう。そもそも、それほど結婚に対して執着する気持ちがあるわけでもないし、思いを寄せる相手がいるわけでもない。この婚姻で彼女が平穏な日々を手に入れられるのなら構わない、と二つ返事で承諾しただろう。彼女と夫婦生活を送るかどうかは別にして、彼女を嫁に貰えばこれ以上口やかましい叔父に結婚をしろと小言を言われなくて済むだろうし、少なくとも今までやって来た婚約者候補と比べれば、まだ幾分かましだろう、という打算ももちろんある。


 なのに、今実際に叔父がこの話を持ってきたら、きっと自分は返答に困るのだろう。

 悩んだ挙句、やはり首を横に振るのだ。


 それはおそらく、こうやって考えている間も脳裏にひなぎくの顔が浮かんでは消えるからだろうか___。


 高夜は胸の内に広がる罪悪感にも似た感情を隠すように、手に持った静子の写真を茶封筒の中に戻し入れた。

 そうして、冷たく言い放つ。


「……久遠寺家には何一つ利はない。この縁談を受ける利がない以上、例え叔父上がこの話を持ってきたとしても、私は承諾しない」


 そう、言い訳をしたのだ。


**


「高夜さま、朝食です」


 罪悪感と共に茶封筒を仕舞しまった文机の引き出しを、何とはなしに見つめる高夜の耳に鈴を鳴らしたような軽やかな声が届く。目線を移したのと同時に、襖を開けて膳を持つひなぎくの姿があって、なぜだか妙に心が安らいだ。


「…相変わらずお前は働き者だな、ひなぎく」

「…どうも私は、じっとしている事が苦手なようです」


 困ったように眉を八の字に寄せて笑うひなぎくに、高夜も穏やかな笑顔を返す。


 朝の清々しい風と共に、雀が鳴く声が部屋に届いた。

 朝と晴天を告げる、彼らの声。朝の空気はまだ少し肌寒いものの、見れば外は春らしい穏やかな日差しが、燦燦と降り注いでいる。


 いつもと変わらない、同じ朝。

 そしてひなぎくが家に来てからお馴染みの光景となった、彼女との食事。

 何も特別なことはない、ごくごく当たり前の日常が、高夜に味わった事のない幸福感と、えも言われぬ心地よさを与えた。


「もう体はいいのか?」

「はい、十二分にお休みをいただきましたので、もうすっかり」


 その返答に、高夜は吹き出すように笑う。


「…!な…何か変な事を申しましたでしょうか…!?」

「…いや、すまない…!……病み上がり翌日にこうやって働いているのに、十二分に休んだと言うものだからつい」


 焦ったように慌てるひなぎくが、また面白い。

 くすくすと笑いながら告げた高夜に小さく目を丸くして、ひなぎくも同じように笑い返した。それが今度は怪訝に思って、高夜は小首を傾げる。


「…?どうした?」

「…いえ、こちらにいらした時よりも高夜さまは笑顔をよく見せてくださるようになりましたので、嬉しく思っておりました」

「…!………私はそんなに恐ろしい顔をしていたか?」

「…!め、滅相もございません…!寡黙な方だとはお見受けいたしましたが、決して恐ろしいなどとは…!」


 目を丸くして、全身全霊で否定するように強くかぶりを振るひなぎくの姿に、やはり笑いがこみ上げて高夜は二度目の吹き出し笑いを見せる。そのままお腹を抱えて大きく笑うので、そこでようやく揶揄われた事にひなぎくは気付いた。


「…こんなに笑ったのは、いつぶりだったか……!」


 目に溜まった涙を指で軽く拭いながら言うので、ひなぎくは小さく頬を膨らます。


「……まあ、高夜さまは時折意地悪なのですね」


 言って、少し頬を紅潮させて穏やかに微笑むひなぎくの姿を、高夜は『愛おしい』と思った。

 それは高夜が生まれて初めて、誰かに対して抱いた感情だった。


**


「少し散歩に付き合ってくれるか?」


 朝食を終えて、いつも通り割烹着を身に纏おうとしたひなぎくに、高夜は声を掛ける。


 せっかく彼女を誘って行った花見は、正直なところ散々だった。

 途中までは楽しい時間だったはずが、突然現れた彼らの所為でとことん台無しにされた。その上、ひなぎくと鷺森家の繋がりも、調べてみたものの判然としていない。何もかもが有耶無耶に終わっているようで、もやがかかったようなすっきりとしない気分を晴らしたいのと、花見の埋め合わせをしたかった____というのは建前なのだと高夜は自覚がありつつ、それを心の奥に押し隠す。


 その下心にも似た高夜の誘いに、ひなぎくは恍惚な瞳を向けて二つ返事で快諾した。


「どちらに?」

「色鮮やかなところだ」

「…?」

「楽しみにしていてくれ」


 小首を傾げながらも、ひなぎくはふわりと微笑んで首肯する。この笑顔が、高夜はとにかく好きだった。どんな自分でも無条件で受け入れてくれる、そんな安心感がある。今まで否定されることの多かった高夜には、得難いものだ。そしてきっと、彼女を失えばもう二度と得られないものだろう。


 そう思うと手放し難く、失った時の事を考えると、胸がひどく疼いて耐え難い。


 そんな事を考えていたからか自然と渋面を取る高夜を怪訝に思って、ひなぎくは不安そうに高夜の顔を覗き込んだ。


「……高夜さま……?……何かご心配事でも……?」

「…!……ああ、いや。何でもない」


 初めの頃の彼女なら、自分が不興を買ったのだと不安と怯えを見せるところだ。だがそれよりもまず、高夜の心中をおもんばかってくれたひなぎくの言葉が、何よりも嬉しい。


(……ひなぎくにとって、私は怯えの対象ではなくなったのか)


 特別何かをしたわけではない。それでも冷たい人間だと言われる自分をひなぎくが受け入れてくれたような気になって、ひどく感慨深い。


 高夜はまだ不安そうな表情を取るひなぎくにもう一度穏やかな笑みを見せて、彼女の手を取った。


「…さあ、ここから目を閉じて」

「……え?」

「いいから早く目を閉じなさい。私がいいと言うまで目を開いてはいけない。…いいね?」


 やはり小首を傾げながら首肯したひなぎくは、言われるがまま瞳を閉じる。そのひなぎくの手を取り、ゆっくりと先導して角を曲がったところで、歩みをピタリと止めた。


「ひなぎく、目を開けて」

「…!!!わあ……!!」


 瞳を開いたひなぎくの眼前に現れたのは、空の青と草木の緑のちょうど間に広がる、薄桃色と黄色の世界____。


「…桜と菜の花の共演だ」


 まるで絨毯のように咲き乱れる菜の花畑の中に、一本の大きな枝垂桜しだれざくらがその存在を主張するように、大きく手を広げている。風が吹くたび垂れた枝垂桜の枝が菜の花を撫でるその姿が、まるで我が子を慈しんでいるようで微笑ましい。


 悠然で温かなその光景に、ひなぎくは目を輝かせて感嘆の声を上げた。


「…まあ…っ!何て素敵なの……!」

「おいで、ひなぎく」


 恍惚な瞳を鮮やかな景色に向けるひなぎくに、高夜は手を差し出す。ひなぎくは促されるままその手を取り、そのまま菜の花畑の中に足を踏み入れた。


「……まるで黄色い絨毯の上を歩いているみたい……!」

「…ここは久遠寺家の所有地だ。私たち以外誰も入ってこないから、気兼ねすることはない」

「久遠寺家の…?」

「私のお気に入りの場所だ。…昔ここを更地にして建物を建てる計画があったのだが、私が我儘を言って計画を取り止めさせた。以来、私だけの場所だったが……」


 そこで言葉を途切らせるので、ひなぎくは怪訝そうに高夜を振り返る。その視界に、こちらをいつも以上に穏やかな瞳で見つめてくる高夜の姿があって、ひなぎくは一瞬どきりとした。


「ひなぎく、ここをお前にやろう」

「………え?」

「いつでもここに来て構わない。ここはもう、お前の場所だ」

「………私の………場所………?」


 口の中で小さく反芻して、ひなぎくはもう一度その景色を視界に入れる。


 生まれて初めて貰った、自分の居場所____。

 自分の居場所はないと思っていた。

 どこに行っても蔑まれ、疎まれ、ぞんざいに扱われる。

 自分の一生は、どこまで行っても居場所がないまま、生を終えるのだと思っていた。


 それは、自分ではない自分の記憶だ。


 それでも居場所を作ってもらってこれほど嬉しいと思うのは、この記憶があるからだろうか。それとも、その居場所を作ってくれたのが、他ならぬ高夜だからだろうか____。


(……高夜さまの傍にいると、ここがとても温かい………)


 心が揺れ動くたびに、胸の辺りがほんのりと熱を帯びたように温かくなる。それがいかなるものなのか、ひなぎくはようやく漠然と判ったような気がした。それを確かめるように胸に手を当てるひなぎくを、高夜は怪訝そうに視界に入れた。


「…前もそこに手を当てていたな?痛いわけではないのだな?」


 不思議そうに、そしてそれ以上に心配を大いに表した表情で、高夜はたずねる。ひなぎくは一度手を当てている自身の胸の辺りに視線を落としてから、高夜を振り返って穏やかに笑って見せた。


「…高夜さまは、心がどこにあるかご存じでしょうか?」

「…!……それは……ずいぶんと難しい質問をするな」


 返答に困る高夜に、ひなぎくは小さくくすりと笑みを返す。


「…私はいつも心が揺れ動く時、必ずこの辺りが疼くのです。悲しいと思った時はこの辺りが小さく痛み、怯えた時は鼓動が早くなって苦しくなり、そして高夜さまと一緒にいる時は、この辺りがほんのりと温かい____」

「…!」

「きっと私の心は、ここにあるのでしょう」


 そう言って胸を抑えながら微笑むひなぎくの姿が、より一層綺麗で、耐え難いほど愛おしく映った。

 長い黒髪が風でたなびき、その髪を彩るように桜と菜の花の花びらが、たなびく髪を撫でていく。その筆舌に尽くし難い光景に言葉を失った高夜に、ひなぎくは訊ねる。


「高夜さまの心は、どちらにございますか?」

「…!」


 その問いかけに高夜は思わず目を瞠って、しばらく黙した後バツが悪そうに視線を逸らした。


「……私は心がないと、よく言われる」

「………え?」

「心がないから冷たいのだと、皆口を揃えて言うな。……きっと、それは間違いではないのだろう」


 自覚はある。

 口を開けば出てくるのは冷たい言葉ばかりだ。人をおもんばかった言葉は出てこないし、そもそも人間に対してそんな言葉を掛けようとも思わない。自分は根っからの人間嫌いなのだ。ひなぎくのように、誰かを穏やかな気分にさせる事は決してないのだろう。


 そう思った途端、自分の心がいかに矮小で醜いかを高夜は悟った。心根の綺麗なひなぎくに悟られれば、きっと彼女は失望して、自分から離れて行くのだろうか。そう思うとなおさらひなぎくの顔が直視できず、醜い心を彼女から覆い隠すように、口元を手で覆う。


 そんな高夜の様子に、ひなぎくは怪訝そうな表情を浮かべた後、静かに声を掛けた。


「……私に心をくださった機巧人形師さまが、教えてくださいました。お優しい方の心はとても柔らかく、それゆえに傷つきやすいのだと」

「…!………私には無縁の話だな」


 自嘲するように落としたその言葉に、ひなぎくはやはり静かにかぶりを振った。


「…傷ついたお心には、瘡蓋かさぶたが出来るのだそうです。そしてそれが治りきる前に、また傷ついて瘡蓋かさぶたが出来る。そうやって何度も繰り返していくうちに、柔らかかったお心は硬い殻に覆われ、他の誰にも柔らかいお心が見えなくなるのだと、教えてくださいました」


 ひなぎくは高夜に歩み寄り、その手をそっと、高夜の胸に優しく添える。


「…高夜さまは、私をただの物ではなく、人として扱ってくださいました。私のために怒り、悲しみ、お心を砕いてくださった……。それが出来る方に、お心がないなどとは決してございません。…私には、その硬い殻に覆われた柔らかい高夜さまのお心が、見える気がいたします」

「……!」


 高夜は目を見開く。

 慈しむような微笑みを向けて、心に寄り添おうとしてくれるひなぎくから目が離せなかった。


 この二十八年間、ただの一人も自分を心優しい人間だと言ってくれたことはない。侯爵邸で働く使用人ですら、自分を『冷たい』『人間味のない』と評する。唯一、自分を優しいと言ってくれたのは、家族と千代だけ。その家族ももういない。今や千代だけが、変わらず優しいと言うのだ。


 そんな自分を、ひなぎくもまた優しいと言ってくれた。それはきっと、彼女が人間ではなく機巧人形だからだと思う。


(……だが、そんなことはどうでもいい)


 それを言ってくれたのが、ひなぎくであった事が重要なのだ。他の誰でもない、ひなぎくの言葉だから意味がある。彼女の言葉だけが、自分の心の奥底まで響いて、決して離れないのだ。


 そう思ってしまうのはきっと、自分がひなぎくに紛れもなく恋をしているからだろう_____。


 高夜は、胸に手を当てるひなぎくをそっと抱き寄せ、思いのほか薄いその肩を優しく包み込む。


「…!?た、高夜さま……っ!?あ、あの…っ!?」


 突然のことに周章狼狽して、頰を赤らめながら面映そうにするひなぎくにも構わず、高夜はなおさら強く抱きしめた。


 大切なものを守るように。

 慈しむように。

 そして、決して手放さないと訴えるように____。


「ひなぎく、ずっと私の傍にいてくれ」

「…!」

「どこかへ行ったりしないでくれ。……頼む、ひなぎく…!」


 離れたくない。

 失いたくない。

 そう思っても、彼女の時は有限だ。

 今日が終われば、一緒にいられるのはもうたったの五日。それが判っていても、願わずにはいられない。


 嘘でもいいからどうかせめて、彼女の口から「傍にいる」と言ってはくれないだろうか。


 そんな淡い期待を込めるように懇願した高夜の言葉にひなぎくは、やはりただ困惑だけを返したのだった。


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