高夜とひなぎく・終編
_____ひと月後。
「若さまもご一緒できればよろしかったのに」
女中の一人が玄関先で残念そうに言葉を落とすと、他の女中や下男たちからも同調するように残念そうな嘆息の声がそこかしこから漏れて、彼女たちを見送りに来た高夜はたまらず苦笑を返した。
「…私も行きたいのはやまやまだが、今日は怪我の診察がある。私は次の機会にでもまた誘ってくれればいいから、今回はお前たちだけで楽しんできなさい」
いつも久遠寺家のために働いてくれる彼らに、高夜は感謝の意を込めて慰安旅行を贈った。
この広い屋敷を人間嫌いな自分の所為で少ない人員で切り盛りしているため、一人一人にかかる負担が大きい。その労いも込めて高夜が自分で考え企画したものだったが、伝えた途端、我も我もと『若さまもご一緒に』としきりに誘われて、高夜は目を丸くした。嫌われ者の自分がいない方がのびのびとできていいだろう、と踏んでいただけに、この反応は予想していなかった。彼らの誘いを断るのに骨が折れたほどだと、高夜は心中でため息を落とす。
「この次は、絶対に若さまもご一緒に!」
「判った、判った」
念を押す彼らに再び苦笑を落としつつ、彼らを見送って玄関を閉じたところで、くすくすと忍び笑いを向ける千代の姿に高夜は不快気な顔を作った。
「………何か言いたげだな、千代」
「いいえ、若さまがようやくご自分の優しさをお隠しにならなくなったので、千代は感慨深く拝見していただけでございますよ」
その返答に、やはり渋面を返す。彼女の態度が、喜んでいるのか揶揄っているのか判ったものではない。
高夜は小さく鼻を鳴らして踵を返した。
「…ひなぎくと約束を交わしたからな」
言いながら自室に戻ろうとする高夜の背に、千代もまた微笑みを送る。
「…よき約束を、交わされましたね」
午後になって高夜は、怪我の診察のためにリオグラード邸へと足を向けた。
ひなぎくが眠りについた後もそのまま彼の家で療養し、ようやく家に帰れたのはそれから十日後の事。その後もこうやって定期的にリオグラードの診察を受けに家まで通い、今日がその最後の日だった。
「…もうすぐ夏だな」
リオグラード邸に向かう道中、空を仰いで高夜は誰にともなく呟く。
桜はすっかり散って、代わりに青々とした葉が生い茂っている。見上げる空もずいぶんと高くなった。空気に交じった冷たさは鳴りを潜めて、こうやって歩いていると軽く汗ばむほどだ。
かつて、ひなぎくと共に歩いた道。
だがその街並みはすっかり様相を変え、当時の面影を残してはいない。
こうやって季節が移ろうように、記憶や想いも移ろってしまうのだろうか。
記憶を一生留めておく事は出来ないと頭では判っていても、やはりひなぎくとの思い出が時と共に色褪せていくことが、何よりも怖い。何年か後に、ひなぎくとの別れを辛いと思わなくなる自分の姿を想像する事が、何よりも恐ろしかった。
こうやって時折、恐怖に襲われると、高夜の脳裏に決まって雛の言葉が蘇った。
____『もし、ひなぎくの元となった人間がお前の前に現れたら、まったく同じことが言えるのか?』
その質問に間髪入れず『偽物はいらない』と豪語した自分は、すでにいない。心のどこかで、いつか会える日が来るのではないかと期待する自分がいる事を、高夜は自覚していた。
(…浅ましい事だな)
自嘲気味な笑みを人知れず落として、高夜はリオグラード邸の数寄屋門をくぐる。『高夜なら勝手に屋敷に入っても構わない』とリオグラードからお墨付きをもらったので、今ではもう高夜は声を掛ける事もなく玄関を開けるようになった。それでも玄関の扉を開けば真っ先に里生か、あるいは少し遅れて小李が顔を出してくるのだが、今日はそのどちらもなく屋敷の中が静まり返っている事に、高夜は眉根を寄せた。
(…出かけているのか?)
思いながら、高夜はそのまま屋敷の中に足を踏み入れて、リオグラードの部屋へと向かう。勝手知ったる、とはよく言ったものだと心中でこぼして、高夜はリオグラードの部屋の襖を開いた。
「…珍しいな。博士を一人屋敷に残すのは」
「つい今しがた、里生くんを伴って買い物に出かけたんだよ。高夜が来ると判っていたからね」
「…つまり、私は貴方のお守りを任せられたというわけか?」
「せめて話し相手と言ってほしいね」
困ったように眉を八の字に寄せて苦笑を落とすリオグラードに、高夜もまた笑みを返す。
ひなぎくが眠りについてからこの屋敷に滞在した十日間、高夜はリオグラードに請われて彼の話し相手になった。共通の話題など特にないだろうと思いつつ、暇を持て余した者同士、暇つぶし程度にと軽い気持ちで了承したが、話してみると意外に彼とは馬が合った。
頭の回転が速いのか察しが良く、言葉足らずの高夜の言いたい事を瞬時に理解して返答してくれるし、時には言わなくても気持ちを察してくれた。的確な答えを返してくれるし、何より聞き上手なのでつい本音を漏らしてしまう事もままあった。その本音でさえ、彼は笑う事も揶揄う事もなく真摯に向き合ってくれる。それが妙に、居心地が良かった。
「…傷の具合は良さそうだね。もう完治したと言ってもいい」
「…博士のおかげだな。感謝している」
「僕は大したことはしていないよ。君は体が頑丈だからね。治りが早い」
「謙遜するな。千代がどうしてもと言うからかかりつけの医者に見せたが、治療も的確で縫合も完璧だと太鼓判をもらった。帝都の大病院に是非とも貴方を引き抜きたいと申し出があったが…どうする?博士」
「光栄なことだが丁重にお断りするよ。僕の体力では務めを果たせそうにない」
「…そう言うだろうと思ってすでに断っておいた」
「助かるよ」
少しも困った様子も助かったという安堵も見せずに、リオグラードはさもありなんと返す。事前に高夜が断っているであろうことを見越していたのだろう。高夜は何でも察して答えを先回りしてしまう癖があるリオグラードに失笑した。
彼と話しているとよく判る。
彼は自分と同じく、そして自分とはまた違った意味で人との会話を楽しむという事ができない人種だろう。相手のわずかな表情の変化や振る舞いで心の機微をすべて察し、何を言いたいかも何を思っているのかも、言葉にしなくても判ってしまう。特に言葉が必要ではないから、会話を楽しむという事ができない。
そんな彼がわざわざ自分を話し相手にと請うてきた理由は明らかだろう。その思惑通り、ひなぎくを失った空白を埋めるのに、彼の存在は見事に一役買っている。
「…そういえば、君を襲った連中の身柄を確保したと連絡があったよ。高夜の予想通り、彼らを雇って君を襲わせたのは貴族院議員の四名だった」
「……そうか」
差し出された湯呑を手に取りながら、高夜はさも気のないような返事を返す。
あの時、暴漢たちは疑うこともなく自分たちを夫婦だと思っていた。自分とひなぎくが夫婦だと公言したのは、後にも先にも花見の時に邪魔をしてきた彼らの前でだけだ。あの時、完膚なきまでに論破された報復を彼らは企てたのだろう。
「…それにしても貴族院議員の身柄をよく確保できたものだな。貴族院の妨害があっただろう?」
「…日本陸軍の中には権力に屈しない向こう見ずな連中がいてね。機巧人形絡みの事件は全て彼らの管轄だから、多少強引な手を使って収拾をつけたらしい。…時間はずいぶんかかったようだけれどね」
「…ここの名義を貸しているという、黒崎大佐か?」
それには肯定を示すように、にこりと微笑む。
(…その大佐とやらの力を使わなくとも、博士なら智謀知略と金の力で容易く追い詰められそうだがな……)
そう思うと、このリオグラードの微笑みさえ何やら含んでいるようで空寒い。
季節外れの寒気を感じて温かい茶をすする高夜に一つ笑みを落として、リオグラードはおもむろに外へと視線を向けた。
「…暖かくなったね」
「…ああ」
リオグラードの視線に促されるように、高夜も外へと視線を向ける。
時折、部屋を訪れる風は、初夏の香りを運んでいる。そこにわずかな湿気を感じるのは、もうすぐ梅雨の時期が訪れるからだろう。
遠くで遊ぶように鳴く雀の陽気な声に促されて、高夜は小さく口を開いた。
「…夏になったら二人並んで空を仰ごうと、ひなぎくと約束をした」
ぽつりと呟く高夜を、リオグラードは小さく視界に入れる。
「……秋には紅葉を見て、冬には雪が降る様子を眺め、春になったらまた桜を見ようと約束を交わした。……決して守られる事のない約束だ。…愚かだろう?そんなものに、私は縋っている」
自嘲するように笑う高夜に、だがリオグラードはひと際穏やかな声で告げる。
「…機巧人形は、決して守れない約束を交わしたりはしないよ」
「…!」
見開いた高夜の瞳には、やはり微笑みを湛えるリオグラードの姿が映っている。
彼は決して、希望的観測を口にして相手をぬか喜びさせるような事をする人物ではない。彼が口にする事は必ず、確実性のあるものだけだ。
(…それとも、彼なりに気を遣ってくれているのだろうか?)
彼の真意が判らず、だけれども何となく心が軽くなったようで、高夜はふっと笑みを落とす。
「……そうか」
小さく呟いた高夜なりの謝意を込めた短い言葉が、初夏の風にふわりと乗った。
**
リオグラード邸を後にして久遠寺邸に戻ったのは夕刻の頃。
まだ青々としている空を仰いで、ずいぶん日が長くなったものだと何とはなしに思いながら、数奇門をくぐり玄関の扉を開く。
いつもなら誰かしら出迎える玄関先も、今は静寂が支配している。今この屋敷にいるのは自分と千代だけ。その千代も出迎える様子がなく、屋敷の中はいっそう静まり返っていた。
「…千代も出かけたか?」
小さくひとりごちた声でさえ、驚くほど大きく聞こえる。
誰もいない屋敷というのはこれほど寒々しく感じるものなのかと嘆息を漏らしながら、玄関先から数歩足を進めたところで、玄関の扉を開く音が高夜の耳に届いた。
「御免」
千代ではない、男の声。高夜はこの声に聞き覚えがあった。
「…叔父上」
玄関先に立つ、叔父__雅貴の姿。
ひなぎくを自分の所に寄越した張本人。
なのにこのひと月の間、何一つ音沙汰がなかった。
それがまるで自分の心を弄んでいるようで、なおさら忌々しい。
「…今さら何の御用です?叔父上。今になってようやく説明に来られたのですか?」
あまりに遅い訪問に、高夜は不機嫌さを表すように眉間に最大級のしわを寄せる。そんな高夜に呆れとも諦めとも取れるため息を落として、雅貴は被っていた帽子を手に取った。
「…相変わらずだな、お前は。機巧人形のおかげで人間嫌いが少しマシになったと聞いたが、人の心はそう容易くは変わらんか」
「…!皮肉を言いに来られたのでしたら早々にお帰りください…!私は今、気が立っています…!」
取り付く島もない高夜の様子に、雅貴はやはり諦観のため息を落とす。
「…やはりお前ではだめか。婚約者にと思ったが……これでは何のために機巧人形を雇ったのか判らんな」
「…婚約者……鷺森家のご令嬢ですか?」
「…一ヶ瀬に調べさせたようだな」
「でしたらなおさらお帰りください。私は妻を娶るつもりはありません」
妻を娶るのなら、ひなぎくのみ___そう、心に決めている。
その頑なな高夜の様子に雅貴は、だがこちらから願い下げだとばかりに踵を返した。
「…ああ、私もようやく諦めがついた。お前の元では、またあの子が不憫な思いをする」
その叔父の奇妙な言い回しに、高夜は眉根を寄せた。そして、つい先ほど叔父が発した言葉を思い出す。
叔父は『お前ではだめだ』と言った。『お前はだめだ』___ではなく。
これではまるで自分に婚約者を据えるのが目的なのではなく、鷺森家の令嬢の婚約者を品定めしているように聞こえる。
高夜は怪訝に思って、踵を返した叔父の背に訊ねた。
「…ずいぶんとその鷺森家のご令嬢に肩入れなさっているのですね?」
「お前にはもう関係のない事だ。余計な詮索をするな」
(…それもそうだ)
叔父は自分と同じで一度頑なになると、とことんまでその態度を貫く。そもそもいつか鷺森家の令嬢との婚約話を叔父が持ってくるだろうことは予想していたし、逆にそれを断った時には執拗なまでの説教が降ってくると思っていただけに、やけにあっさり身を引いてくれて助かったほどだ。気にはなるが、ここで押し問答しても疲れるだけだと諦観を決め込んで、高夜はそのまま玄関を出て行く叔父を見送った。
やれやれ、と一難去った事に一息つきながら自室に戻ろうと踵を返した高夜の背に、扉越しに叔父と誰かの話し声が聞こえた。
「…すまないな。必ず私がいい嫁ぎ先を探す。それまで私の屋敷でゆっくり休むといい」
「……いいえ、おじさま。どうぞお気になさらないでください。私は大丈夫ですので…」
高夜の足が、ぴたりと止まる。
聞き覚えのある、鈴を鳴らしたような声。
それでいて、ひどく控えめで、何もかも自分が悪いのだと自責の念を多分に含んだ申し訳なさそうな声音が、高夜の脳裏に一人の人物を彷彿させた。
「…!待って…!待ってくださいっっ、叔父上…っ!!!」
高夜は目を見開き、反射的に身を翻す。草履を履くことも忘れて慌てて玄関の扉を開いた。
その開けた視界に映る、人物。
目を白黒させながら高夜を振り返る叔父とその隣、同様に驚きをその顔に表して怯えたように佇む、まるで日本人形のように綺麗な一人の女性。
その人物の名を、高夜は迷いなく呼んだ。
「___ひなぎく…っ!!」
**
「どういう事かすべてお話しください、叔父上」
ひなぎくを別室で待たせて、高夜と雅貴は相対して座る。得心を得るまでは帰さないと言わんばかりの高夜の様子に、雅貴は変わり身が早いものだと内心で呆れたため息を落とした。
その叔父に突き付けるように、高夜は一枚の写真を差し出す。
「…一ヶ瀬の報告書にあった鷺森 静子の写真です。この写真に写っている人物の容姿は判然としませんが、ひなぎくとは別人のように見えます」
「………」
高夜の言葉を何とはなしに耳に入れながら、雅貴は黙したまま写真を受け取ってそれに視線を落とす。
「彼女は鷺森家のご令嬢ではないのですか?」
「…一ヶ瀬に調べさせたのだろう?」
「質問に質問で返さないでいただきたい!!!」
「……お前は存外、短気だな」
これほど感情をむき出しにする高夜も珍しいだろうか。
思って雅貴は高夜を視界に入れて、くすりと小さく笑みを落とす。
「…お前はどちらかと言うと、兄よりも私に気性がよく似ていると昔からよく言われていたな」
「…?関係のない話で誤魔化すおつもりですか?」
「血は争えない、ということだ」
「…?」
なおさら何が言いたいのか判らず眉根を寄せる高夜を、雅貴はまるで懐かしむような瞳で見つめて目を細めた。そうして、「ずいぶん昔の話だ」と前置きして言葉を続ける。
「私と鷺森は学生時分からの友人でな、当時からよく互いの屋敷を行き来していたものだ。その鷺森の屋敷に『鈴音』という名の女中がいた。その名の通り、まるで鈴を鳴らしたような声でよく笑う、太陽のような女性だった」
おそらく一目惚れだったのだろう。
彼女を一目見た時から、吸い込まれるように目が離せなくなった。
以来、鷺森の屋敷に行く理由の大半を、彼女が占めるようになった。特に会話をする事もなく、遠くからただ彼女を見つめるだけ。数年通って、ようやく挨拶を交わせるようになった。ほんの短い会話だったが、たったそれだけの事が心躍るほど嬉しかったことを、今でも鮮明に覚えている。
「…私は跡取りではないとは言え、侯爵家の人間だ。当然その婚姻は家の為であり親が決めた相手になる。…女中である彼女を妻として迎える事は、ほぼ不可能だった」
だから最初から、諦めるつもりだった。
仄かな恋心をひた隠し、一生想いを告げる事はないと誓っていた。
「…だが私の気持ちに気づいていた鷺森が、彼女に手を出した。鷺森が今の奥方と婚姻を結んで一年後の事だ。ずっと抱いていた私への劣等感を払拭し優越感に浸るためだと、後に彼の口から直接聞かされた」
「…その時に出来たのが___」
「…そう、鷺森 静子___ひなぎくだ」
雅貴はその後すぐに鷺森と袂を分かった。
ただ己の優越感を満たすためだけに利用された鈴音はすぐさま鷺森邸から追い出され、雅貴が彼女を探し出せないよう遠い地に鈴音を幽閉した。
その地でたった一人、ひなぎくを産み落としたのだという。
鷺森の思惑通り、雅貴は必死に手を尽くして方々を捜索したが、ついぞ鈴音の行方を知る事は出来なかった。自分の所為で鈴音が利用され捨てられたと知った雅貴は、その罪を背負って生涯独り身を貫いた。彼女の死を知ったのは、鷺森の屋敷で女中よりもひどい扱いを受けていたひなぎくと偶然出会った時だった。
「…ひなぎくという名が、彼女の本当の名なのですね?」
「そうだ。鷺森があの子を引き取る時、無理やり名を改めさせた」
一ヶ瀬からの報告を聞いた時、高夜はおかしいと思った。
他の二人の姉妹は植物の名を冠した名に対して、長女の静子だけが違っていた。まるで便宜上適当に付けられた名のようで、強い違和感を覚えた事を思い出す。
(…どういう経緯があったにせよ、ひなぎくは夫の不貞の末に出来た子供……奥方から見れば我が子と同等に扱われる事を忌み嫌ったのだろう…)
だからと言って、ひなぎくに対してあれほどの仕打ちをしていい理由にはならない。非難されるべきは鷺森現当主であって、ひなぎくではないのだ。
高夜はその憤った気持ちのはけ口を探すように、拳を強く握る。
「…あの子を初めて見た時、まだあどけない十五の少女だったがすぐに鈴音の子だと判った。以来七年間、鷺森に気づかれぬよう影であの子を手助けしてきたが、表立って助けることは出来なかった。…鷺森に気づかれれば、また鈴音の時と同じようにどこかへ幽閉される。…そうなれば私はもう、あの子を助けてやる事さえできなくなるからな」
だが、ひなぎくの体は目に見えて衰えていった。
鷺森に隠れての援助では限界がある。納得のいく援助が出来ない現状を嘲笑うかのように、ひなぎくは痩せ細り次第にその表情から感情が消え失せていった。
そうして、ひなぎくは病に倒れたのだ。
「…一ヶ瀬が撮ったこの写真は、病に倒れた後のものだ。すっかり痩せ細り頬はこけ、着物は襤褸を着せられて髪を手入れする事さえ許されなかった。生気のない顔と虚ろな瞳____そんな哀れな姿の実の娘にも、鷺森は変わらず辛く当たっていた。このまま鷺森の家にいれば、あの子は確実に殺される。あの子を__ひなぎくを助けるためにはあの家から出すしかない。…だから私は持ち掛けたのだ。お前との縁談話を」
十中八九、鷺森はこの話に乗ってくるだろう、と踏んでいた。
鷺森の家は事業を広げ過ぎて、今やその経営は火の車だ。侯爵家である久遠寺家との縁談は喉から手が出るほど欲しい縁組だろう。その思惑通り、鷺森はこの話に二つ返事で承諾した。
ただ一つ問題があるとすれば、肝心の高夜の存在だった。
人間嫌いで人形にしか興味を示さない、悩みの種の甥っ子。
今まで散々、婚約話を持って行ったが、そのどれもが数日も経たずに破談となった。
その甥が、果たしてひなぎくを幸せになどできるのだろうか。
「…それで、人形師連盟に依頼を?」
高夜は目を白黒させて、叔父に訊ねる。その問いに、雅貴は首肯を返した。
「…人伝に聞いてな。そこでは外見のみならずその性格や立ち居振る舞いまで、本人と寸分違わぬ人形を作れると……まさかあれほど見事なまでに、瓜二つな人形が作れるとは思ってもみなかったがな」
そう言って雅貴は自嘲気味な笑みを落とす。どうやら、たかが人形と侮っていたらしい。そして人形に目がない高夜ならば打ってつけだろうと思っていただけに、あまりに人間と見紛う姿に目論見が外れて心底当惑した、と笑い含みに叔父は語った。
「…では、機巧人形のひなぎくの目的は____?」
「お前がひなぎくの伴侶として相応しいか判断を下し、資格があると判断すればお前とひなぎくの仲を取り持つ事。…どうやら見事に役目を果たしてくれたらしいな」
にやりと笑う叔父に、高夜は何もかもを得心したように一つ息を吐く。確かにこれが彼女の目的だったのであれば眠りにつくあの時点では目的が成就されたかどうか知る術はなかっただろうし、機巧人形のひなぎくがいいと頑なな態度を見せていた自分に対して、彼女が不安に駆られるのは至極当然の事だろうか。
(…結局、叔父上の計略にまんまと乗せられたというわけか……)
だとすれば叔父が鈴音に心奪われたように、自分もまたひなぎくに心奪われるとそこまで予見していたのだろうか。そう思うと、叔父の手のひらでずっと踊らされていたようで腹立たしくもあり、そのおかげでひなぎくに出会えたことを感謝する気持ちもある。___どちらかと言うと、後者の方が大きいだろうか、と高夜はくすりと笑みを零した。
そんな高夜の姿を、雅貴は満足げに視界に入れる。
「…私は身分の壁があって鈴音と一緒になる事は出来なかったが、今のひなぎくには庶子とは言え伯爵令嬢と言う身分がある。侯爵家の嫁として申し分ないだろう」
その叔父の言葉に、高夜は頷く。
「…ひなぎくの病は重いのでしょうか?」
「いや、しっかり休養して食事を摂れば必ず根治するものだ。縁談話を進めて鷺森家から連れ出し、私の屋敷で療養してからのひと月で、ずいぶんと体は良くなった」
(…それでひと月もの間、私の所に顔を出せなかったのか)
安堵のため息を落としながら、高夜はまた一つ得心を得る。判らなかった事がひとつひとつ紐解かれていくようで、いっそ清々しい。その安堵のため息にそんな高夜の心情が見て取れて、だが雅貴は釘を刺すようにぴしゃりと告げる。
「___だが、心はそう容易くはない」
「…!」
「あの子が鷺森家に引き取られてからの十四年間、ひなぎくは人としての扱いを受けてこなかった。奴隷のように扱われ、その存在さえ誰一人として気にかける者もなく、ずっと一人で耐え続けてきたのだ。…それを思えば、あの子の心は傷つき壊れる寸前だったのだろう。…お前はその傷ついたひなぎくの心を、癒すことはできるのか?」
そう問われて、高夜の脳裏にひなぎくの言葉が蘇る。
____『覚えていてくださいませ、高夜さま。この温かさは、他の方の傷ついた心を癒してくださいます。そしてこの温かさを、決して絶やさないでくださいませ。きっとこの温かさが、誰かの希望の光になるはずですから』
できるだろうかと問うた高夜の言葉に、ひなぎくは迷いなく「きっと」と返した。
(…あれは、自分の事を言っていたのか……)
あるかどうかも判らない心を、ひなぎくは『ある』と断言してくれた。
そして、その心の温かさが自分の___ひなぎく自身の希望の光になるはずだと信じてくれた。
高夜はそのひなぎくからの信頼を噛み締めるように、一度固く瞳を閉じる。そうして強い決意と共に開いた瞳を、叔父に向けた。
「必ずひなぎくを幸せにすると、お約束します」
「…信じていいのだな?」
「命に代えても」
ひなぎくからの信頼に応えるように、あるいは叔父からの信頼を得るように、高夜は迷いも曇りもない瞳を叔父に向ける。その瞳を真っ向から受けて吟味するように見据えた後、雅貴は肩の荷を下ろすように、ふっと破顔した。
「…変わったな、お前は」
「…?そう…でしょうか?」
自覚がない高夜を小さく笑って、雅貴はおもむろに立ち上がった。
「…ひなぎくを頼んだぞ。また様子を見に来る」
(…来なくてもいいのに)
「………今、来なくてもいいのにと思ったか?」
「…いえ、まさか」
心が筒抜けになっている事に素知らぬ顔をしつつ、高夜はバツが悪そうに顔を背ける。似た者同士故に常に叔父には自分の心を読まれる事が、いつも以上に腹立たしい。
そんな高夜を呆れ顔で一瞥して、雅貴は部屋を辞去しようと襖に手をかけた。そうして思い出したように、言葉を添える。
「…ああ、高夜。もし鷺森から金を無心されても決して応えるな」
「…?ですが…ひなぎくを娶る条件として鷺森家の援助を持ち出されたのではないのですか?それを反故にしてしまっては、叔父上の面目が立たないのでは…」
「鷺森家が再建できるだけの金は、結納金という形でもう渡してある。それを活用できるかどうかは、あいつの腕次第だ。…あいつが私と鈴音にした仕打ちを思えば、これ以上の金を支払うつもりはない」
「…では、早いうちに正式にひなぎくと婚姻する必要がありますね」
「ああ、婚姻が成立すればひなぎくはもう正式に久遠寺家の人間だ。その後に鷺森がどれだけ難癖をつけようとも、もう手出しは出来なくなる」
同調するように、高夜も頷く。
雅貴と同じく、ひなぎくに対してひどい仕打ちをした鷺森家に援助など冗談ではない、と内心思っていただけに、叔父の提案は渡りに船だ。
こういう抜け目のないところは流石に自分の叔父だと心中で賛辞を送って、帰る叔父を玄関まで見送り、高夜はひなぎくが待つ部屋の前で足を止めた。
この部屋で、初めてひなぎくと顔を合わせた。
千代がすでにこの部屋まで彼女を通し、客だと言われて赴いたこの部屋の襖を開くと、すでに叩頭しているひなぎくの姿が真っ先に視界に入ってきた。
たったひと月前の出来事____なのに、ひどく昔の事のように感じる。
(…不思議な気分だ)
別れを告げたはずのひなぎくと、彼女が眠りについた同刻に再び同じ部屋で相まみえようとしている。その符号が、高夜に奇妙な感覚を植え付けた。
高夜は高揚する気持ちを抑えるように一つ息を吐くと、意を決したように襖に手を掛けた。ゆっくりと開いたその先には、夕日に照らされて茜色に染まる室内と、下座に座ってイグサの香りが強い畳に深く叩頭する、ひなぎくの姿。
妙な既視感と共に、まるであの最後の日の続きを見ているような錯覚が高夜の脳裏に浮かんだ。
その光景を、高夜は懐かしむように目を細めて眺めながら、ゆっくりと歩みを進めてひなぎくの対面に座る。
「…顔を上げなさい、ひなぎく」
軽く体を震わせて、言われるがままひなぎくはゆっくりと顔を上げる。
透き通るような白い肌に、絹糸のように肩を流れる漆黒の髪。
触れれば柔らかそうな素肌と、愁いを帯びたように薄く潤む瞳は、かつて見た機巧人形の彼女と何一つ違いはない。
なのに、なぜだろう。
今目の前にいるひなぎくの方が、機巧人形よりも人形らしく見えてしまうのは。
彼女よりも痩せ細った首元に、薄い肩。その肩を怯えたように震わせながら三つ指をつくその指の、荒れたあかぎれの痕が痛々しい。なのにその表情からは怯えた色をひた隠し、感情を押し殺して虚ろな目を畳に落としている。
その機巧人形のひなぎくと明らかに違う彼女の様子に、高夜は憐憫の情を寄せた。
「…怖がらなくていい。ここにお前を傷つける者はいない」
「……ありがとうございます、旦那さま」
「…高夜だ」
「………え?」
「…高夜と呼んでくれ」
できるだけひなぎくを怖がらせないように、穏やかな声色を心掛けて高夜は話しかける。ひなぎくはわずかに困惑したような仕草を見せた後、承諾を示すようにおずおずと頷いて見せた。
「…高夜さま。……おじさまは私を嫁にと言ってくださいましたが、私などが嫁ぐなどおこがましい事でございます。……身の程を弁えておりますので、どうぞ私の事は女中として、この屋敷に置いてくださいませ……」
言って再び深々と叩頭するひなぎくに、高夜は目を丸くする。
機巧人形のひなぎくの事も、控えめ過ぎるほど控えめだと思っていたが、彼女はその比ではない。自分を卑下し、ぞんざいに扱い、自分は決して人のように扱われてはいけないと思い込んでいる。
そんなひなぎくの姿に、高夜は眉根を寄せて固く瞳を閉じた。そうして、まるで罪人が沙汰を待つように叩頭したまま高夜からの返事を待つひなぎくに、穏やかな声を届ける。
「…私は自分の妻をぞんざいに扱うつもりも、ましてや周囲の人間にぞんざいに扱わせるつもりもない」
「…!」
「それは妻になるひなぎく自身もだ。…だからどうか、私の妻を苛めないでやってくれ」
茫然自失と顔を上げるひなぎくに、高夜は微笑みを返す。
正直今でも、どうすれば相手を委縮させずに気持ちを伝えられるのか判ってはいない。
冷たく突き放したような言い方になってはいないだろうかと内心で不安を覚えながら、それでも高夜は自分なりに穏やかに言葉を紡いだ。
その穏やかさに促されるように、ひなぎくは困惑の中にわずかに表情を柔らかくする。
「……ですが……私には学がございません……。嫁入りとは正確に何をすればよいのか……」
思いがけず機巧人形のひなぎくと同じ台詞が彼女の口から現れて、高夜は小さく笑い声を上げた後、懐かしむように目を細めてひなぎくを見つめた。
____『…私には学がございません。嫁入りとは正確に何をすればよいのかが判らず、私を作ってくださった機巧人形師さまにお伺いしたところ、嫁入りとは相手に仕える事だと教えていただいたのですが……違うのですか?』
(…ああ、違うな)
少なくとも、自分の中では違う。
「…夫婦になるという事は、共に幸せになるという事だ」
「…!」
「どちらか一方だけではいけない。苦しい時も、病める時も、そして嬉しい時も二人で喜びを分かち合い、一生を寄り添って共に生きるという事だ。そうして死が二人を分かつとき、幸せな一生だったと…出会えてよかったと笑って逝ける生涯を送る事だ。…私はそんな一生を、ひなぎくと共に送りたい」
穏やかな声音で、穏やかな瞳を向けながら告げる、優しい高夜の言葉。
これほど優しい言葉を、視線を、ひなぎくは向けられたことはなかった。
初めての事に狼狽し、どうすればいいのか困惑して、ひなぎくはしどろもどろと声を落とす。
「……ですが……私などが幸せになど……」
「ひなぎく、言ったはずだ。私の妻をどうか侮辱しないでくれ。私の妻は心根が優しく綺麗で、自分の事よりも他人を慮る事の出来る女性だ。そんな彼女が、なぜ幸せになってはいけない?」
「………」
「幸せになる事を怖がるな、ひなぎく。人は生まれた時から誰でも幸せになる権利がある。自分にだけはないと思うな」
そう言い聞かせたい相手はひなぎくだろうか、それとも自分だろうか。
ずっと自分は、幸せになる事は出来ないものだと思っていた。
冷たい物言いしかできない人間嫌いの自分。
周りを傷つけ遠ざけてばかりの自分が、幸せになる権利などないだろう、と。
だけど、幸せになってはいけない、と誰かに言われたわけではない。
自分もひなぎくも、幸せになってはいけない理由などないのだ。
機巧人形のひなぎくは言った。
この温かさは他の誰かの傷ついた心を癒すと。
きっとこの温かさが、誰かの希望の光になるはずだから___と。
なれるだろうかと問うた自分の言葉に、「きっと」と返してくれたひなぎくは、もういない。
ひなぎくを幸せにしてやることが出来るのかどうか、不安はある。
誰よりも傷つきやすいひなぎくを、また再び傷つけやしないかと身が竦む思いだ。
それでも、彼女を幸せにしたいと思う気持ちは、誰にも負けるつもりはない。
高夜は呆然自失とこちらを見返すひなぎくの温かな手を、そっと手に取る。
ひなぎくから約束を貰った。
巡る季節をずっと一緒に過ごそう、と。
その約束を再び交わすように、ひなぎくに告げる。
「だからどうか私に、お前を幸せにする機会を与えてくれないだろうか?ひなぎく」
彼女が戸惑いながら、それでも頷いてくれることを期待しながら。




