高夜とひなぎく・一編
「ひなぎく、と申します。どうぞこの十日間、よろしくお願いいたします。高夜さま」
ひなぎくと名乗った目の前の女は、イグサの香りが強い畳に深々と額を当てて叩頭する。
その透き通るような白い肌も、絹糸のように肩を流れる漆黒の髪も、そして鈴を鳴らしたような可憐な声すら、紛うことなき人間だ。
触れば柔らかそうな素肌。
愁いを帯びたように薄く潤む瞳。
軽く微笑を湛えるその表情は、心のわずかな機微さえ漏らすことなく表現することだろう。
そんな彼女を、一体誰が機巧人形だと思うのだろうか___。
時は大正。
文明開化の音と共に西洋文化の波が押し寄せて、街も人もすっかり和と洋が織りなす独特な雰囲気に慣れ親しんでいる。
その、他に類を見ない独特な華やかさを有する帝都に『人形師連盟』と銘打った大きな洋式の建物が造られたのは、つい三年前の事。
政府公認で建てられた『それ』が一体何をしている機関なのかは、おそらくこの街のほとんどの住人が認識していないだろう。
それは華族である久遠寺 高夜も例外ではなかった。
「…人形師連盟から来た、と言ったな?ひなぎく」
「はい」
「ではお前は人形師か?」
「いいえ、私はその人形師さまに作られた機巧人形でございます」
「…待て、ひなぎく。先ほども言ったが、人形は動いたり喋ったりしない」
「?…そういうものなのでしょうか…?」
「…そういうものだ」
くりくりとした丸い瞳に困惑の色を載せて眉を八の字に寄せるひなぎくに、高夜はたまらずため息を落とす。
(…これでは堂々巡りだ)
この会話をもう三度も繰り返している。高夜は、内心辟易していた。
彼女の話は正直全く要領を得ない。『人形師』ならともかく人形がこのように動き回って喋ることなどない事くらい子供でも判ることだ。なのに何度聞いても、自分は『機巧人形』だと言う。
(…そもそも『機巧人形』とは何だ?普通の人形とは違うのか…?)
眉根を寄せて、高夜はまるで日本人形のようなひなぎくを今一度、視界に入れる。
叔父の依頼で来たのだと言われて、高夜が真っ先にその脳裏に浮かんだ言葉は『婚約者候補』だった。
もうすでに結婚適齢期を迎えているというのに、なかなか嫁を取ろうとしない高夜に、叔父は幾度となく『婚約者候補』を連れてきた。特別冷たくあしらったわけでは無いが、何故か皆同じように最終的にはここを出て行く事に、高夜はもう心底うんざりしている。
泣きわめく者、冷ややかな眼を向ける者、使用人を道具のように扱い、高夜には色目を使う者、色々な女が来たが、そのどれもが出ていく時には高夜をなじった。そこに必ず出てくる言葉は『冷たい』だ。
きっと自分は、人間を愛することが出来ないのだろう。根本的に、人間が嫌いなのだ。
(…人間嫌いの私を、叔父がからかっているのか?)
それとも皮肉が言いたいのだろうか。
高夜は悄然と息を漏らすと、おもむろに立ち上がって、ひなぎくを部屋に残したままどこかに向かう。ひなぎくは怪訝に思いながらも、とりあえずその場で待っていると、幼子くらいの大きさの日本人形を持った高夜が戻ってきた。
「人形とはこういうものだ」
言って、ひなぎくに人形を手渡す。
「見てみろ、人形はお前のように動いたり喋ったりしないだろう」
「まあ…!とても愛らしい人形…!この子は高夜さまの人形ですか?」
「…『人形狂いの久遠寺』だからな」
高夜は眉根を寄せながら、少し不機嫌そうに言葉を落とす。
華族の間で『人形狂いの久遠寺』を知らない者はいない。
侯爵という立場にありながら、久遠寺の現当主は人形に現を抜かす変わり者だともっぱらの評判だった。そのうち揶揄を込めて『人形狂いの久遠寺』と呼ばれるようになったのだが、それを知っていて知らないふりをしているのだとしたら、この女は綺麗な顔に似合わず、とんだ食わせ物だろう。
「…人形狂い…ですか?」
「…私は人形が好きで集めている。皆変わり者だと嘲笑って、そのうちそのようなあだ名がついた」
もともと久遠寺は、代々政治家を輩出する由緒正しい家柄だった。
例にもれず高夜も政治家となったが、その有能さと家柄ゆえに、おべっかばかりを使って群がってくる人間に嫌気が差して、高夜はわずか二年で政界を引退した。その後、好きが高じて日本人形の店を作り、半分隠居のような生活を送っていたが、気づけば妬み嫉みを含んだそのようなあだ名が独り歩きするようになった事に、高夜は心底うんざりしていた。
(…だから人間は嫌いなのだ)
くだらない感情で、いとも簡単に他人を傷つける。
自分の意に沿わない相手を侮蔑し、敵視する。
婚約者候補として家に来た女たちは、その最たるものだろう。
最初は高夜の容姿に頬を赤く染めておきながら、家にある無数の人形を目の当たりにして、『人形狂いの久遠寺』が本当の事だと判ると、手のひらを返したように女たちは侮蔑を込めた視線を向けてきた。きっと今目の前にいる女も、同じ反応をするのだろう。
高夜は何も期待していないと言わんばかりに、冷ややかな声で告げる。
「最初に言っておく。私は人形しか愛せない。人間を愛することは決してないと思ってくれ。それが嫌ならいつでも出て行ってくれて構わない」
高らかに宣言した高夜は、だが何故か恍惚とした表情でこちらを見返してくるひなぎくに目を白黒させる。
「…まあ…っ!だからこの子はとても幸せそうなのですね…!」
「……この子…?」
「はい…!この子はとても高夜さまを慕っております。きっと高夜さまがとても大事になさっているからでしょう」
言って、胸に抱いた人形を愛おしそうに見つめるひなぎくに、高夜は目を丸くする。
「………待て。それではまるで、人形と話せるようではないか」
「……?はい、私も人形ですので」
「……いや、だから___」
そこまで言ったところで、高夜は、またか、と大きくため息を落とした。
ここからまた、最初の会話に戻るのだ。
(…どう言えば彼女に伝わるのだ…?)
頭を抱えるように、高夜は四度ひなぎくを視界に入れる。
怪訝そうに人形を抱いたまま小首を傾げるひなぎくの様子は、心底こちらが言わんとしている事が判らない、と言ったふうに、高夜には見えた。
(…頭のいかれた女を私にあてがったか)
好き勝手をする高夜に、叔父はいつでも不満そうだった。
婚約者候補を連れてきては、その彼女たちが必ず逃げ帰る現状に何度も小言を言われた事もある。
自分が追い出したのなら小言も甘んじて受けるが、彼女たちは勝手に期待をして失望するのだ。一体自分にどうしろというのだ、と反論した高夜に、叔父は怒り心頭に発して説教という名の怒声が飛び交ったのは、つい最近の事。きっとひなぎくを連れてきたのは、その報復なのだろう。
そんなに気に入らないのなら頭のいかれた女で我慢しろ、と叔父は言いたいのだ。
高夜は叔父の意図を察して、たまらず小さく息を落とした。
「…ひなぎく、ついてこい」
おもむろに立ち上がって、高夜はひなぎくを促す。
怪訝に思いながらもひなぎくは言われるがまま高夜の後を追従し、たどり着いたその部屋で想像以上の光景が視界に入って、ひなぎくは恍惚とした声をあげた。
「…まあ……!なんて素敵なの…!」
柔らかな陽光が差す和室の部屋一面に、日本人形が所狭しと並べられている。
人間の子供くらいに大きなものから、手のひらに乗るような小さなものまで、多種多様な人形が並べられているその光景は圧巻だった。
「人形と話ができると言うのなら、彼女たちの声を聴いてみろ。そうしたら___」
「まあ…!みんなとても綺麗にしてもらっているのね…!」
高夜の言葉もそこそこに、ひなぎくはたまらず人形たちに飛び込むように歩み寄る。
「あら?貴女は昨日新しい着物に着替えさせてもらったのね。とても似合っているわ、素敵よ」
「……!」
「…そう、毎日高夜さまがお髪を整えてくださるのね。…寝る前にはお顔を拭って下さるの?とてもお優しいご主人様なのね」
人形を愛でるように話しかけるひなぎくに、高夜はたまらず目を瞬いた。
誰も知り得ない事を、当然のようにひなぎくが口にしたからだった。
毎日人形の髪を整えている事は、使用人でも知らない事実だ。
この部屋に入ることは固く禁じている。この先に部屋もないから、基本この部屋の手前にある自分の部屋までしか使用人は足を運ばない。毎日髪を整える事も、寝る前に顔を拭ってやる事も、ましてや特定の人形の着物を新しいものに変えた事など決して知り得ないのだ。
それを知っているのは自分だけ___いや、自分とここにいる人形たちだけだろう。
高夜はまるで狐につままれたような気分で、未だ人形と語らうひなぎくを見据えた。
頭のいかれた女だと思った。
だが、それだけでは彼女の存在は説明がつかない。
高夜は小さく息を吐いてから、意を決したようにひなぎくに告げる。
「…人形師連盟から来たと言ったな?今からそこに行くぞ」
**
馬車に乗って着いた場所は、浅草寺から目と鼻の先にあるレンガ造りの立派な建物だった。
一見すると三階建てだろうか。レンガ特有の赤とも茶とも取れる色と、それを縁取りしたような白との対比が妙に目を奪った。後ろを振り返れば『浅草十二階』と呼ばれる陵雲閣があって、純和風の浅草寺が西洋風の建物に挟まれた形となっている事に、何とも言えない寂寞感を抱いてしまう。
高夜は馬車を降りて、同じく馬車を降りようとするひなぎくの手を取る。彼女が降りるのを確認すると、おもむろに建物を振り返った。
門には大きく『人形師連盟』と書かれている。
仰々しい門を通って建物に入ると、贅を尽くしたような大広間が視界一面を埋め尽くした。細工を凝らした柱には鈴蘭を模った洋灯がいくつも備え付けられ、天井には硝子で作られた飾電灯が吊るされている。
過剰とも思える華美さだったが、かと言ってなぜか不思議と下卑た感じではなかった。品を保ち、かつ温かさも感じられる、妙に不可思議な気分にさせる場所だった。
その大広間の両端には二階に続く階段と、正面に大きな扉が一つ、左右にも同じく扉が備え付けられている。高夜はどこに向かえばいいのか一瞬逡巡したものの、とりあえず一番目を引く正面の扉に手をかけた。
ゆっくりと開かれた扉の向こうに広がる景色は、必要以上に華美な大広間とは対照的に、ひどく落ち着いた雰囲気が保たれていた。清潔感溢れる白い壁に、巾木や廻り縁、腰見切りや腰壁は総じて落ち着いた茶褐色が使用されていて、その対比が上品さと温かさを演出している。その上品さをさらに演出するように、よく見ると巾木や腰壁には細やかな装飾が施されていた。大広間に使用されていた物と同様の、鈴蘭を模った洋灯と硝子で作られた飾電灯をさりげなく使用しているのは、建物としての統一感を出すためだろうか。
そんな落ち着いた上品さが漂う雰囲気とは裏腹に、その広い一室はまるで役所のような体を為していた。
いくつもの窓口らしきものが設置され、その上部には案内板らしきものがそれぞれ掲げられている。『依頼・発注受付』、『修理受付』、『返却届提出所』____おまけに『人形師登録所』や『破棄受付』という窓口まであって、高夜は一体どこの窓口に向かえばいいのか、頭を悩ませた。
(…何だ、ここは……?)
想像とは大きく違った様子に、高夜の足は部屋に数歩入った辺りで、ぴたりと止まる。一体何をする所か判らないばかりか、高夜の驚嘆を一番に誘ったのは、意外にも多くの人間がいる事だろうか。ここで働く職員はもちろんの事、どうやらここを利用しているらしき者たちも意外に多い。中には人形師らしき者達もいて、一室の中は奇妙な喧噪で溢れ返っていた。
「……高夜さま?どうなさったのですか?」
「…!?」
途方に暮れたように立ち尽くす高夜を心配して、後ろに控えていたひなぎくが、ひょっこりと顔を出してこちらの様子を窺って来る。どうしたもこうしたも、すべてにおいて勝手が判らない高夜は、この質問にすら答えようがなく、さらに途方に暮れて閉口した。
そんな高夜におもむろに近づく、一つの人影があった。
「ようこそ、人形師連盟へ。私はこの人形師連盟で案内を担当しております、雪消と申します。どうぞお見知りおきを」
言って、慇懃な態度で深々と頭を垂れる男は、案内というよりも執事と言った方が、どう見ても正鵠を得ているだろうか。
彼の装いは執事服ほど仰々しいわけではない。黒い革靴にパンツとベスト、そしてしっかりと糊付けされた白いシャツにループタイと簡素な装いではあったが、彼を執事たらしめているのは、その服装よりも彼の立ち居振る舞いだろうか。歩く姿はもちろんの事、頭を垂れるその姿でさえ優雅で洗練されている事に、半分隠居暮らしをしていた高夜などは気後れする気分に陥った。
「本日は、どのようなご用向きでしょうか?」
「…!?」
穏やかな微笑みと共に問われたその質問に、答えるべき答えを持っていない高夜は大いに困惑する。
勢いに任せて人形師連盟に来てはみたものの、正直ひなぎくの存在をどう説明したらいいものやら皆目見当がつかない。高夜が知りたい事は、ひなぎくが本当に人形かどうか、という一点だけ。これを知っているのは、彼女を自分の所に寄越した叔父か、ここ人形師連盟だけだろう。
(……叔父に訊くのは癪に障るから、人形師連盟に来てはみたが………)
だがこれを素直に告げて、目の前の男は訝しげな顔をしないだろうか。それどころか頭のおかしな男が来たと思われても仕方がない。
それを思うと、この質問に対してどう答えるのかが正解なのかが判らず、高夜は気後れさも相まって完全に口を閉ざした。その様子に小首を傾げた雪消は、だがすぐ後ろに控えているひなぎくに目を止めると、得心したように頷く。
「おや、すでに機巧人形をお持ちのようですね。どこか不具合でもございましたか?」
「…!……待て。…今、機巧人形と言ったか……?」
「…?…はい、申し上げましたが?」
「………一体、誰の事だ?」
その問いかけに、なおさら怪訝そうに小首を傾げながら、雪消は黙したまま指を揃えた手のひらで、ひなぎくを差し示す。
「待て…!彼女はどう見ても人間だろう…!そもそも貴方は何を基準に彼女を機巧人形と判断したのだ…!?」
高夜の返答で全てを得心したのだろう。雪消は「ああ」と小さく声を漏らして、にこりと微笑む。
「私も機巧人形ですので、同族は拝見すればすぐに判ります」
その慮外な告白に、高夜は一瞬呆けてすぐに頭を抱え込む羽目になった。
(……何だ?私が隠居生活を送っている間に、世間ではこういう冗談が流行っているのか……?)
ひなぎく同様、彼もまた人間にしか見えない。彼が人形だと言うのなら、おそらく世界中の人間が人形だと言われても信じるしかないだろう。そう思えるほど、目の前の男は表情一つ取っても、人間らしい細やかな感情をその顔に表していた。
高夜は一度ひなぎくと雪消を視界に入れると、諦観のため息を盛大に落として踵を返す。
「……帰るぞ、ひなぎく。どうやら無駄足だったようだ」
言って、つい先ほど通ったばかりの扉の取っ手を高夜は握る。その手に雪消の手がそっと添えられて、高夜は目を白黒させながら穏やかな微笑みをこちらに向けてくる雪消を見返した。
「疑心を抱かれるお客様は多数おられます。確かに我々は人間にしか見えぬでしょう。…いかがです?もしお時間が許すようであれば、機巧人形がどういったものか詳しくご説明いたしますが?亅
必要ない、と言おうとした口は、だが人形好きの好奇心には勝てなかったようで、意に反して勝手に承諾の意を示す自分自身を高夜は不承不承と許容するしかなかった。
**
(………好奇心に負けてしまった…)
別室に通され、ひなぎくと共にソファに座るよう促された高夜は、自嘲気味なため息を落としつつ、ひとりごちる。
そもそも機巧人形という名を、高夜は耳にした事がない。人形好きが高じて、様々な人形を見聞きしたが、その高夜でさえ機巧人形という物は、見た事も聞いた事もなかった。
(…いや、正確に言えば『からくり人形』という物は知っている)
機械仕掛けで簡単な動作をする人形の事だ。高夜の家にも当然ある。だが彼らは、ひなぎくや雪消のように一喜一憂をその表情に湛えたりはしないし、当然、言葉を理解し話す事はない。同じ名を冠しながら、似て非なる存在に、高夜の好奇心は大いにくすぐられた。
(……まあ、彼らが本当に人形であるならば、だがな)
半信半疑の感情を隠すことなく前面に押し出した高夜の様子に、雪消は臆することなく開口一番に告げる。
「まずは手っ取り早く、我々が機巧人形だという事を証明いたしましょう」
にこりと人好きのする微笑みを湛えた雪消に、高夜は目を瞬く。長々と専門用語を交えて小難しい話に転嫁し、混乱させて言いくるめたりするのではないのかと疑った高夜の予想は清々しいほどに外れて、抱いた警戒心は見事に瓦解した。それと同時に、高夜は新たな疑問に眉根を寄せる。
「……簡単に言ってくれるが、機巧人形だという証明などできるのか?」
これは、『悪魔の証明』に等しい。
『存在する』という証明よりも『存在しない』という証明の方が何倍も困難だという、消極的事実の困難性を言い表した言葉だが、高夜にとって『彼らが機巧人形であるという証明』も『人間ではないという証明』も、どちらも等しく困難なように思えた。
外見だけで判断するならば、彼らは紛うことなき人間だろう。触れれば柔らかい素肌に体温まで持ち、心の機微をつぶさに表現する顔は決して人形には出せないものだ。この点だけを取っても、『彼らが機巧人形であるという証明』が困難なように思えたし、例え彼らが本当に機巧人形だったとしても、人間に限りなく近い存在として作られたのなら、なおさら『人間ではない証明』は難しいだろう。
できる事と言えば体の内部を見せる事だろうが、それを見せるために腕のひとつでももぎ取ると言うのならば、正直それは御免被りたい、とも思う。
そんな高夜の内心を悟ってか、雪消は「ご安心を」と前置きした上で、ベストの胸ポケットから何やら取り出した。
「こちらを使用いたします」
言って、手のひらに乗せて見せたそれは、手のひらに収まるほど小さな、木製の直方体の箱のような物だった。そのうち一つの側面には硝子が張ってあって、中央には押釦らしきものがある。何やら見た事もない奇怪なその道具に、高夜はなおさら眉根を寄せた。
「………何だ?それは」
「これは透過灯と申しまして、可視光線を利用して物体内部を透過する事の出来る道具です。…と申しましても、透過できるのはごく薄い物に限られますが」
「………その道具自体が非常に怪しいが」
「疑り深いという事はとても大事な事ですよ。騙されないですみます」
変わらず動じない微笑みを見せて、雪消は高夜が座るソファの傍らに片膝をついてしゃがみ込んだ。
「論より証拠。実際にご覧いただきましょう。…失礼いたします」
言うと同時に、雪消はそのすらりとした手で高夜の手を取る。その手の甲の少し上で持った透過灯の押釦を押すと、硝子面から出た青い光が高夜の手の甲を包んだ。その青い光の中にぼんやりと映ったのは、指の骨らしきものとその隙間を埋めるように配置された筋繊維、そして手首からそれぞれの指に向かって張り巡らされたいくつもの血液だった。指をぴくりと動かすと筋繊維が収縮と弛緩を繰り返し、その動きで血管が位置を変える様まで見て取れる。
それは紛れもなく、自分の手の内部だった。
そのあまりに衝撃的な光景に、高夜は思わず目を背けて硬直する。
「…?おや、どうなさいましたか?」
「………もういい」
「青い光では見えづらいでしょうか?でしたら別の物を____」
「必要ない…!!これ以上、鮮明にしないでくれ…!!」
腕をもぎ取ると言われても嫌だが、この猟奇的な光景をより鮮明にすると言われる方が、なおさらたまったものではない。
立ち上がろうとする雪消を慌てて制する高夜に小首を傾げながらも、雪消は了承を示すように首肯して、次にひなぎくの傍へとその位置を変えた。
「では、次に彼女の手を見てみましょう」
言って、同じようにひなぎくの手の甲に透過灯の青い光を当ててみる。またあの不快なものを見せられるのだろうか、と渋面を取って恐る恐る視界に入れた高夜は、だが先ほど見たものとは全くの別物だったことに目を見開いた。
ひなぎくの手の内部には、筋繊維、というものがない。代わりに鋼で作られた骨組みのようなものが見て取れた。それは所々、骨の構造によく似てはいたが、全体で言えば全くの別物だろう。言うならば、これが人間でいうところの骨と筋肉の両方の役割を担っている、という感じだろうか。
逆に先ほど見た自分の手の内部とまったく同じ部分が特に目を引いて、高夜はぽつりと呟く。
「………血管があるのか……?」
手首からそれぞれの指に向かって張り巡らされた、いくつもの管。これを血管と言っていいものかどうか定かではないが、例える言葉がそれ以外には見当たらなかった。それに肯定するように、雪消は頷く。
「はい、これは我々の血管です。とは申しましても、内部を流れるのは人間と同じ血液というわけではございません」
そうしておもむろに、雪消はどこからか取り出した小刀を自身の指にあてがった。
「…!?待て…!何をするつもりだ…っ!」
思わぬ雪消の行動に、高夜は慌ててソファを立ち上がる。止めようと手を伸ばした高夜の手が雪消に届く前に、彼は躊躇いもなく小刀を横に払った。その躊躇がまったく存在しない彼の行動に高夜は呆然自失となったが、次に見えた光景に、高夜はさらに吃驚する事になる。
柔らかい素肌に姿を現した、一筋の切り傷。その傷口からぽたりぽたりと静かに流れ落ちるそれは、高夜が今まで抱いてきた常識とは一線を画したものだった。
「…………白い……血液……?」
わずかに発光しているようにも見える、雪のように白い血液____。それは明らかに、人間のそれとは異なるものだった。
「命脈、と申します。人間の血管と同じような管が全身に張り巡らされ、心臓の代替え品である基核部から体全体に送られて、また基核部に戻ります。そうやって身体全体を命脈が常に流れる事で、我々の体は滑らかに動くことが出来るのです。言うなれば潤滑油のようなものでしょう。それだけではなく、記憶の維持や思考といった脳の機能も、命脈が保持しております。それ故に、命脈が尽きれば我々はもう二度と動く事は出来ません。人間で言う、死を迎えます」
「…………死、というものが機巧人形にもあるのか?」
「もちろん、ございます。自我と意志を持って動き、言葉と感情を理解する。それが途絶える、という事は死と同義でございましょう」
雪消の言に、高夜は頷く。
人間であっても、人形であっても、機能が停止する事を『死』と呼ぶのなら、それはまさしく『死』以外の何ものでもない。
高夜は勢いに任せて立ち上がった体をソファに預けて、もう一度、機巧人形だと言うひなぎくと雪消を視界に入れた。
「……機巧人形というのは、ひなぎくや貴方のように、皆等しく感情があるものなのか?」
「……難しいご質問をなさいますね」
命脈が流れ落ちる指の傷を手巾で押さえながら、雪消は困ったような笑顔を見せる。
「…?難しい?肯定か否定のどちらかしかないだろう?」
「…時と場合によります。人を護衛する役割を担った者なら感情は不要でしょう。独居老人や病人のお世話をする者ならば、最も適している対応だけを行うように定型的ないくつかの感情や行動を行うよう設定いたします。逆に心に寄り添うための人形であれば、我々のように自ら考え、つぶさに感情を表現できる者でなければなりません。感情を出す人形に関しましても、どれだけそれを表現できるかはお作りになられた機巧人形師さまの技量が大きく作用いたします」
「……私には、ひなぎくも貴方も人間にしか見えないが」
これには、今まで穏やかだがどこかよそよそしい笑顔を見せていた雪消が、目に見えて恍惚とした瞳と面映ゆそうな表情に変わる。
「…それは…!大変光栄なことです…!我々をお作りになられた機巧人形師さまは、この技術を最初にご考案された天才機巧人形師と謳われたお方なのです…!お体が弱くていらっしゃいますので数はごく少数ですが、彼が作られた機巧人形は些細な心の機微さえ逃さず表現し、他の機巧人形にはない、食事を摂る事や睡眠さえ可能にいたしました」
「…!?……食事や睡眠までするのか……?」
「はい、彼がお作りになった機巧人形が最も、人間に近いと言えましょう」
どこか誇らしい表情を取る雪消を、だが高夜は妙に冷めた気分で見つめていた。
(………ずいぶんと、傲慢な事だ)
どれほど人間に似せたところで、彼らの本質はただの物に過ぎないのだ。その愛玩物に感情や自我を載せて、一体何になると言うのだろう。自分の腕をひけらかしたかったのだろうか。それとも、別の欲を満たしたかったのか___。
ひなぎくや雪消を見れば判る。彼らに宿っているものは、間違いなく『命』と呼べるものだ。『命』を作り出すという禁足地に、その天才機巧人形師とやらは足を踏み入れたかったのだろうか。
そうしてようやく作り出した『命』すら、結局はこうやって物として扱うのだ。用途によって感情の有無を決め、商品として商売をする。その人間の傲慢さたるや、何と醜い事か。
(…だから人間は嫌いなのだ)
雪消が自分を作り出した機巧人形師を褒めれば褒めるほど、その存在が哀れに見えていたたまれない。
高夜は鬱積した気持ちを晴らすようにため息を一つ落とすと、呆れたようにぽつりと呟いた。
「…その天才機巧人形師とやらは、自分がまるで神になったようで、さぞ気分がよかった事だろうな」
その皮肉を交えた言葉をどう受け取っていいのか判らず、雪消は口を閉ざして困惑の色を濃くする。その表情に、高夜は思わず後ろめたい気分に陥った。相手が人形だと油断をしたが、無駄に感情が豊かなだけに罪悪感が刺激されて仕方がない。
高夜は悪くなった場の空気を払うように軽く咳払いすると、仕切り直すように会話を続けた。
「…つまり、機巧人形とは人間に限りなく似せて作られた、機械仕掛けの人形だという事だな?」
「…はい、左様でございます。___それで、いかがなさいましょう?」
突然、問われたその質問の意を取りかねて、高夜は訝しげに眉根を寄せる。
「…?何の話だ?」
「ひなぎくの事でございます。先ほどご契約を確認いたしましたところ、契約を交わされたのは貴方の叔父上さまのようでございますね」
言って、契約書をソファの前にある座卓に置く。
「ひなぎくの処遇をどうしたものかとお悩みになり、こちらにいらしたのではございませんか?」
半分当たりで、半分外れだろうか。
そもそもここに来るまで、ひなぎくを人形などと微塵も思ってはいなかった。だが彼女が紛う事なき機巧人形と判明した今、雪消が言う通り確かに彼女の処遇をどうしたものかと悩んでいる。
(…きっと叔父は、人形にしか興味のない私に相応しいと、安易にひなぎくを寄越したのだろう)
だが、自分が人形に興味を抱くのは、物言わぬからだ。人間のように言葉を話し、自我を持ち、感情まで持たれては人間と何ひとつ変わらない。人間と変わらない以上、人間嫌いな自分にとって、ひなぎくの存在は、厭うべき存在に他ならないのだ。
(……まったく、余計なものを付けてくれたものだ)
これがただの人形なら良かったものを。
思って落としたため息を、戸惑いのため息と受け取ったのだろう。雪消は宥めるような表情を取って、説明を始めた。
「こちらの契約書にもございます通り、契約者さまとは別の方が機巧人形を所有された場合、その機巧人形の処遇は所有されている方に決定権がございます。それは貴方の叔父上さまもご承知いただいておりますので、ご遠慮なくお申し付けください」
高夜は雪消の言葉を受けて、隣に座るひなぎくをちらりと一瞥する。その視線に気づいて、ひなぎくもまたにこりと微笑んだ。
「高夜さまのお望み通りにいたします。どうぞご遠慮などなさらぬよう、お決めくださいませ」
高夜の決断を邪魔しないよう、気を遣ってくれたことは一目瞭然だろう。それが判っていても、高夜はひなぎくを受け入れる気にはなれなかった。
「……返却は出来るのか?」
それには困惑の表情を返す。
「…申し訳ございません。元々ひなぎくは十日間だけのご契約でしたのでご返却はお受けできません。お受けできるのは破棄のみとなっております」
「…?返却と破棄の違いがいまいち判らないが?」
「返却は再びご使用されるまで、こちらで保管、管理をさせていただきます。保管期間は五年間。その間、機巧人形には眠っていただく事になります。今までの記憶や経験を維持したまま、次にご使用される時にも、まったく同じ人格が引き継がれます。対して破棄は、契約自体をなかったものにいたしますので、役目を終えたと判断して廃棄処分にいたします」
「…!!?」
「とは申しましても、実際に廃棄するわけではございません。自我や人格、記憶などの一切は消去いたしますが、機巧人形の本体自体はそのまま保管されます。次にまた、新しい誰かになるまで眠りにつくのです」
「…!おためごかしはよしてくれ…!どれだけ綺麗な言葉で着飾ったところで、それは彼女を殺す事と同じことだろう…!?」
さも些末な事だと言わんばかりに淡々と説明をする雪消に、高夜は思わず苛立ちをぶつけるように声を荒げた。その姿に、ひなぎくと雪消は目を白黒させたが、何よりもそれに驚いたのは自分自身だろう。
この怒りが、人間らしい彼女を無慈悲に扱う事への同情と哀れみから来るものなのか、あるいは機巧人形としての彼女をぞんざいに扱う事への苛立ちから来るものなのかが判らず、高夜はバツが悪そうに口元を手で押さえた。
「……すまない」
「…いえ、謝罪には及びません。貴方はとても、心根のお優しいお方なのですね」
「…!………優しい?」
ひどく嬉しそうに微笑む雪消を視界に入れながら、高夜は怪訝そうに眉根を寄せる。
(……初めて言われた言葉だ)
自分の周りにいる人間は皆、自分の事を『冷たい』と評しても『優しい』と評したことはなかった。二十八年生きてきて、ただの一度もない。だが、たった今怒鳴ったばかりの自分を、雪消は『優しい』と言った。それは彼が人間ではなく、機巧人形だからなのだろうか。
何とはなしに思った高夜に、雪消は告げる。
「ではとりあえず、ひなぎくの処遇は一旦保留になさってはいかがでしょう?そもそも十日間のご契約です。それほど長いわけではございませんし、どうしても無理だと判断された時に、再びこちらに来ていただいてからでも遅くはないと存じますが?」
その提案に、高夜はわずかに思案して、ひなぎくを振り返る。
先ほどの高夜の言葉がよほど嬉しかったのか、面映ゆそうに頬を赤らめ満面の笑みを見せる、ひなぎく。
彼女がこれほど感情豊かではなく、本当に人形のようであったのなら、決して後ろ髪など引かれず破棄に応じたのだろう。いや、そもそも彼女が本当に人形のようであったのなら、人形好きの自分は決して破棄を受容しなかったのだろうか。
どちらにせよ破棄を受容する事は出来ない事を悟って、高夜は不承不承と雪消のその提案を受け入れるように首肯する。
そうして高夜とひなぎくの十日間が、幕を開けたのだ。