第3話 蜂
なんとなく理解できた。
今のがおそらく風魔法だろう。
熊はそれでも体勢を立て直し、今度はヤブラの方目掛けて猛進する。
ヤブラが危ない。
そう思った俺はヤブラに向かって数歩走り突進。彼女の頭を抱き抱えるようにしてその場に地面に倒れ込み、熊の攻撃を避けた。
こんなことを自分がすることになるなんて。
「...ありがとう」
「いやこれでお相子だよ」
本当にクマに襲われているのか俺は。
そう思わずにはいられないようなヤブラの無表情な顔。
おばさんは名前を捨てたって言ってたけど
ヤブラは感情を捨てたのか?
「手、汚い」
「え?あ、ごめん」
手を見るとたしかに黒くなっていた。
「洗ってきなよ。あっちの小川で」
「いや、でも熊が...」
そう言っている間にも、熊はまた立ち上がりこちらを睨みつけながら走って来る。
ヤブラは落ちていた太めの木の枝を両手に持ち、膝蹴りして折った。
ヤブラは視線を熊から離さず口を開く。
「いいから行って」
その瞬間、猛進してきた熊の首付近に先程の折った木を右手で突き刺し、右足で踏み切って熊を飛び越える。
彼女が熊の頭部に辿り着いた頃、左手に持っていたもう一本の木の枝で熊の首裏を刺す。
一瞬だった。
カッコいい。
でも俺が知ってる人間はこうじゃない。
彼女の黒髪は少し乱れ、砂埃もついているが、彼女の表情に変化はない。
彼女の今の姿を見れば誰もが何かと戦って勝ったのだと分かるだろう。
顔の前で乱れた髪を手直しすることもないまま、ヤブラがこちらを向く。
「手」
「あ、今行ってきます」
俺は近くを流れる小さな小川で手を洗った。
さすが異世界。常識なんて通じない。
おそらく彼女からしたら僕は足手纏いだったんだろう。
さっき助ける必要もなかった。
あんな動きができるんだから。
それでもありがとうと言ってくれるなんて。
根は優しいんだろう。多分。
それにしても水が綺麗だ。
少し喉も乾いていた俺は、小川の水を両手で掬って飲んでみた。
美味い。
雰囲気なんだろうけど美味い。
森の中に流れる綺麗な小川で両手で掬った水は多分どこでも美味い。
断言できる。
そりゃあ美味いでしょう。
冷たい水が気持ちよくて、そのまま顔まで洗った。
いいなぁ、こういうの。
前の世界じゃ中々できない体験だもんなぁ。
こんなに自然なんてないし、色んな道具に囲まれてたけどやっぱこういうのがいいんだろうなぁ。
前の世界では手離せなかったアレなんだっけ。片手で持てたあの光る板。連絡ができて便利なのは分かるけどここじゃ欲しいとすら思わないもんな。
やっぱり環境なのかもしれない。
ふと空を見上げてみる。
ただの青空でさえ綺麗に見える。
ここも太陽だとか月だとか星とかはあんまり変わらないのだろうか。
太陽は出てるみたいだし同じなのかもしれない。
ただ空が静かだ。
飛んでないんだろうなあの飛ぶやつ。
うるさい時はすごいうるさかったもんなぁ。
まさしく轟音って感じだったもんな。
あぁそうそうこんな感じで、空気を無理矢理引き裂いてるような音だった。
ん?
なんでここでそんな音がするんだ?
ここにもあるのかアレ。
いや、言葉が思い浮かばないってことはないはずだろ。
じゃあおかしい。
立ち上がり、辺りを見回そうとした瞬間、突然男の人の声が聞こえた。
「逃げろ!!トラムシだ!!奴が出た!!」
そう言われ、声の主である男の人に腕を引っ張られる。
男性はすぐ近くにある木に目をつけ、その影に2人で隠れた。
「トラムシだ!見つかったら危ない。逃げるぞ!」
聞いたことがない。
トラムシってなんだ?
俺は掴まれた腕を振り解く。
「あの、なんですか?」
「俺はリスキー・リスティ。魔術院に名前を連ねる魔法使いの1人だ」
それなりに整えられた身なりを見るに育ちは良さそうだ。魔術院とかなんとか言っていたしかなり高名な魔法使いなんだろう。
「名前は?」
「あ...トーチです」
「家名は?」
家名って苗字のことだよな。
そういえば考えてなかった。
「忘れました」
「そうか、思い出せるといいな」
なんか...変だよな、この会話。
「それよりいいか、この羽音はトラムシに違いない。気をつけるんだ」
こんな轟音で空を飛ぶ虫?
どんな虫だ?
音だけ聞いてみても俺の知ってる虫の大きさじゃないのは明らかだ。
だんだんとそのトラムシとかいう羽の音が近づいてくる。
「顔を出すなよ。なんせあのトラムシなんだから」
分かってる。
トラムシね。
聞いたことない。
その時、木を挟んだ向こう側でトラムシがおそらく止まった。
ついさっきまで近づいたり遠のいたりしていた羽音が、常に後ろでなり続けている。
「あぁ見つかったか」
轟音のような羽音の間から、たしかにリスキーがそう言っていたのが聞こえた。
俺は木の影に隠れながら、恐る恐るそのトラムシなるものを見てみた。
目を疑った。
馬鹿でかい蜂だ。
人が乗って空を飛べるくらいにはでかい。
「おい!!顔を引っ込めろ!逃げるぞ!」
リスキーは耳元で最大限の囁き声を使い叫んでいる。
「蜂ですよあれ!クマバチ!」
自分も囁き声で叫ぶ。
「違う、トラムシだ!巷の俺はそう呼んでる!」
巷が読んでるのかアンタが呼んでるのかややこしいな。
まぁこの世界ではトラムシと呼ぶのかもしれない。
それならそれに従おう。
いや、でもクマバチと俺が呼べてるってことは...
熊と蜂って言葉を合わせただけだから言えたのかもしれない。
まぁいいアレはトラムシだ。
そういうことにしておこう。
しかし、少し奇妙な点がある。
あの虫が何故飛べているかだ。
丸っとした体に胸部に生えているフサフサした毛、それに大きな体に取ってつけたかのよつな小さな羽。
見た目からしてクマバチで間違いない。
ただ、何故飛べている?
「あの虫、魔力があるんですか?」
「魔力?難しい質問だな。でも虫に魔力があるなんて話は聞いたことがない。魔法を使えないからああやって飛んでここにいるんだろう?」
「体に比べてあんなに小さな羽では、普通飛べないんじゃないですか?」
「小さい?それでもあんなに頑張って羽を動かしているだろう!羽があって、飛ぶ意思があるから飛べる!そうだろ!」
囁き声なのに熱い。
そんなに熱い人には見えないんだけどなぁ。
「でも、あの大きさじゃ...。クマ...トラムシっていうのは本来の大きさだからこそ飛べるのであって、あんなに大きかったら飛べるような羽じゃない」
「やけに詳しいな」
「おじいちゃんがよく手で捕まえて教えてくれたので」
「アレを手で?流石だな」
「いや、アレより小さいやつです」
「なるほど。それより今もこうして後ろで奴は飛んでいる。そして俺達は見つかったんだ。もう倒すしかない」
「倒せるんですか!」
「この世に倒せないモノなんてない。どんなモノでもいずれは滅びる」
「頼もしいです!」
「...え?」
「...え?」
お互いに目が合った。
トラムシの羽音は止み、地面に足をついたであろう音がした。
それでも会話は囁き声で続行する。
「いや、俺は無理だよ。あんなの倒せない」
「え、でも倒せるって...」
「...おいおいおい俺を揶揄わないでくれよ〜。好きだねぇ君も。やるねぇ。倒すのは君だろう。他に誰がいる?」
「え?いや無理ですよあんなの!」
「なるほど。いいか、トーチ。君は父である私を超えた」
「父?」
「本当に立派に育って。あんなに小さかったのになぁ本当に」
あぁ、そういうおふざけね。
「でももう今は違う。お前は偉大になった。もうお前に教えられることはない。やれ、やればできる。為せば成る、為さねば成らぬ、為さぬから」
なんか知ってるのとちょっと違う。
「でもあんなの倒せないですよ?」
「冗談きついよ。それはもうちょっとやりすぎじゃない?その魔力量で威嚇しておいて無理はないって〜。そんなんじゃ子供も騙せないよ?」
「魔力量?」
「ここで恍けるのかぁ!こりゃあやられた。すごいね。勉強になるよ」
「その魔力量で、っていうことは僕は多いんですか?魔力」
「え、もしかして真面目に言ってる?」
「言ってます」
「......え?あぁそういうことか!君記憶喪失ってことか。だから家名も覚えてないのか」
「そうみたいです」
まぁこの際それでいい。
早く教えてくれ。
「君の魔力尋常じゃないよ。多分世界一だね。君ちょっとおかしいもん。魔族と並んでも君の方が圧倒的だろうね」
魔族がいるのか。
「ていうかそれより魔力のことを覚えてないってことは魔法は?」
「使えないです」
「え?それ大問題じゃん」
「でも全然トラムシ襲って来ませんよ?」
「てことは多分あれは俗に言う召喚獣だね。何かを探してるか何かしてて、それでその何かを見つけたから多分主人を待ってる。だから逃げようとしてももう無駄だね」
「なるほど」
しかし、ヤブラは大丈夫なんだろうか。
俺には状況が状況すぎて全く事態が飲み込めないが...。
まぁ彼女はきっと問題ないだろう。強いし。
そんなことを考えている俺をよそに、リスキーは続ける
「早く倒さないと」
「いや倒す必要はないんじゃ」
「おいおい、本当に大丈夫か?こんな召喚獣を出せるような召喚師だぞ?君までとはいかないかもしれないが、魔力量のとんでもない化け物なんだぞ?記憶喪失の君と俺じゃ歯がたたない」
「でも敵って決まったわけじゃ」
「絶対に味方だと言い切れるか?」
この時実感した。
俺は平和な世界で生きてきたんだということを。
そして、今いるのは異世界なんだということを。