入れ替え令嬢は社畜になりたい!
「頼むからそんな飲むなよ」
病室のベッドで私の手を握りながらその人は青ざめた顔でそういった。
「ほんとさ、心臓止まってたとか聞いて死ぬかと思ったよ、俺が」
ぎゅっと握られた手が痛いほどだ。
「ここで死なれたら俺が残業増やされる」
異世界の天使様は宗教画のように美麗ではないのだなとぼんやり考えた。
「というわけで、死ぬほど幸せにしてやるから」
それってどうなのかしら?
私は別の世界での事故で予定よりも早く死んでしまい、この世界の別の人の体に入れられた。事故がバレると上司に死ぬほど怒られて、仕事をここぞとばかりに押し付けられると証拠隠滅として。
この体の持ち主、藍里と呼ばれる女性は社畜だった、らしい。
社畜とは何か。
会社に身も心も支配された家畜と天使様は言っていた。会社というか仕事? あるいは人間関係に追い詰められて良い状態とは言えないと首を横に振っている。
それでも世の中週休五日になるべきと力説する天使様がスタンダードとは思えない。
詳細はわからないが、つまり、彼女はお仕事をして自分で稼いで、自分で生活を支えていた、ということだ。
「素敵! なんて素敵なお姉さまなの」
「なんで、その結論。あ、ああ、仕事もしちゃいかん、男に従えという時代から来たんだっけ?」
指先でくるくると棒を回しながら天使様は思案されている。
時間を持て余す私は病室を見回した。どこもかしこも白くて、清潔であるここが誰にでも使える場所であるということが信じられない。相当な金額がかかるのではと恐れている私に天使様は世の中には保険というものがあって、何割かの負担で済むし、場合によっては払った金額が戻ってくるらしいと教えてくれて驚いた。
何もかも違う世界にきたらしい。
今は私が目覚めて数時間ほど。頭を強打したことによる記憶喪失ということになっている。そのあたりの口裏合わせが終われば、医師がやってくるという。
藍里さんは、兄と弟と妹の四人兄弟。両親は人が好いものの仕事ばかりの彼女を心配し、地元に帰ったらという話をよくしていた。
恋人はいたが、数日前に二股が発覚、相手の女性に子供ができたと別れてくれと話をされた。その日に、兄嫁から恋人もいないので義理の両親が心配しているとあてこすられ、仕事ではその二股相手の後輩が急病とバックレたところに問題が発覚。徹夜で仕上げて、止めとばかりに親からお見合いがと話がやってくる。
……寝不足でヤケ酒をするのも仕方ないのではないかと。
お姉さま、かわいそう。
わかりました。わたし、ちゃんとお姉さまを幸せにして、そいつら全員、見返してやります!
でも微妙にまだ頭が痛いのは二日酔いですか? どれだけ飲んだんですか、お姉さま。
「ごごごっと音が出そうなくらい燃えてるけど、大丈夫?
俺が聞いたの、もっと薄幸の美少女だったんだけど」
「衣食住が確保され、身の危険はございませんでしたので問題はないかと。私が取るに足らないものであったのは間違いございませんし」
「……。
そっち。そっちかー。なかなか、苦労しそうだな。俺が」
頭をカリカリとかいていますが、どうしたのでしょう?
「記憶喪失で性格が変わることもあるだろう。ということで押し通すか。誰もわかりはしないし。
現代知識初級編は既に頭に入れといた。これは、高校まで真面目に勉強してたら覚える範囲内。得意分野は設定してないから総じて浅く広くだ。あとは好みで覚えていって欲しい。
あとは仕事の知識はいれといた」
「どうやってですの?」
「その、ですの。も改めたほうがいいと思う。いや、ギャップ萌えか……。
じゃなくて、目覚める前にいれたら三日程爆睡された」
「……そうですの」
深く聞くのをやめようと思った。微妙に頭が痛いのはもしやこれが原因では……?
「ま、なんかあったら呼んで。俺本体は来ないけど、使いを送る。嫌いな生き物ある?」
「ございません」
「そー。じゃ、テントウムシ。幸運と祝福を。
二度目の人生楽しんで」
そう言って天使様は姿を消した。
代わりに、パソコンが降ってきた。
『入院中暇でしょ? ドラマとかおすすめだよ』
柔らかい声にひどくどきりとしたのは、なぜだろうか。
それからバタバタと医師がやってきて、診察が始まった。
名前や住所などは覚えているものの部分的にわからないことが多く、一時的な記憶の喪失と診察される。このあたり疑問を持たれると困るからとちょっと手を加えるとは聞いていたが、やはり医師の言葉にはドキドキした。
それから家族との面会となった。
「ねーちゃん、びっくりさせんなよ。朝方に連絡来て何事かと思ったじゃねぇか」
「そうそう。姉様、お酒はほどほどにねっ! それにしてもあの道路工事の杜撰さってなにかしらっ! 施行会社にクレームよっ」
「おう。顔色が悪いが、まだ面会は早かったんじゃないのか?」
「あら、元気そうじゃない? 酔いがまだ残ってるのかしら」
「ほ、ん、とにっ! あんたは心配ばかりかけさせてっ!」
「まあまあ、母さんも落ち着いて。心配が一周回って激怒になっただけだから藍里は安心していいよ。うん。陽菜、クレームの電話を入れない。既に母さんが入れてる」
弟、妹、兄、兄嫁、母、父の順でまくし立てられた。
私の思う家族像とは激しく乖離している。
お姉さま、愛されてますのね。ちょっと暑苦し……いえ、なんでもありません。
「で、覚えてないって聞いたけど、わかる?」
「ええと細かい思い出やらなんやらが全く思い出せません。
そのうち思い出すかもしれませんけど、思い出さないかもと先生が言ってました」
「……姉様が、ご令嬢してる。清楚系詐欺と言われた姉様が、詐欺じゃない」
「慎ましいのは胸だけと言われたあの姉が」
「いっぺん黙ろうか、愚弟」
はっ。
かつて同じようなことを弟に言われたことがありましてね。その時は、笑顔で、父のように禿げると宣告してやりましたが。若いうちからつるっつるらしかったのですよ。うふふ。
「な、なんで、俺だけ」
いじける弟に女性たちの冷たい視線が突き刺さっています。うぐぅと呻いて、部屋の隅に移動しました。
「準備がいるな。退院は二日後と聞いているが、まちがいないかい?」
父が優しく尋ねてきたので、頷きました。
母はだばだばと涙を流しながら姉様の体を抱きしめています。
申し訳ないのですが、貴方の娘はすでにこの世界にいないのです。
そう、言うことはできません。言ったところで信じることもないでしょう。
そうでなければご家族の希望を聞いてその通りが幸せかもしれません。
……と思っていたころがありました。
「ねぇ、なんで社畜ちゃんしてんの?」
目覚めて一か月もたったころに天使様が現れた。深夜残業楽しすぎて、幻影を見たのかと思ったけど、違ったみたい。
「お仕事がすごく、たのしいんですっ!」
「お、おぅ」
「働いたらお金が入るんです。好きなもの買えるんです!」
「……。なにかったの?」
「おにぎり」
「……慎ましすぎてなにを言えばいいのかわからない」
「いっぱい味があって、とっても素敵じゃないですか。今、冷凍庫に焼きおにぎりの在庫がいっぱいで幸せです」
「ほんと、どこから突っ込めば……」
頭を抱えていますが、どこに問題があるのかわかりません。
この世の中は、おいしいものであふれているのです。
「深夜パフェ出しているところがあるので今日の夕食はパフェです」
「そのノリで深夜ラーメンとかしてる?」
ついっと視線をそらしてしまった。お誘いするから。あの明かりが、おいしいよー、罪の味だよと。
はぁと天使様はため息をついている。なにか間違っているようで、悲しい気持ちになってくる。
「親和性があったにしてもそこまで一緒じゃなくても」
「はい?」
「元の持ち主、社畜している自覚のない仕事中毒者だったから。お酒飲まないとこは違う、違うよね?」
「まだ飲んでません。禁止されているので」
さすがに会社の飲み会でも飲ませようとする人はいなかった。少し前に飲み過ぎて病院送りになった人にすすめる勇気はないらしい。
あからさまにほっとしたような態度の天使様にちょっとむっとする。
「それは良かった。
会社の居心地は?」
「快適です」
「それほんと?」
「なぜです?」
「ほら、元カレと元カレを奪った後輩しかも妊娠済みがいるとか結構ハードな環境じゃないか」
「それは私ではございませんし、覚えてもいないので。
それにあれ、元夫と同じ雰囲気しますので、人生の墓場へ速やかなご案内と思いますね。楽しいのは今だけ」
結婚式の準備がとかこれ見よがしに話しているけれど、職場では白い目で見られていることも気がついていないようだ。
逆に私が周囲に気遣われているくらいで、それもいたたまれない。
「おぅ。元の世界は気になる?」
「いいえ。きっと、姉様がぎゃふんと言わせているに違いありません!」
ご家族の皆様が、過去の私、つまり姉様の話を色々としてくれた。写真も動画も色々あって、楽しかったけど。
清楚詐欺と言われたのは、確かにと思った。
長い黒髪と白い肌、ちょっと垂れ目で柔らかい印象の顔、と裏腹の武道大会優勝の雄たけび。
姉様、かっこよすぎます。素敵です。結婚してください。
残念ながら、この世界に姉様はいらっしゃらないので諦めますが、あちらの私は元気いっぱいだろうと安心できています。
「いや、まあ、そうだけど。一週間で離婚して、今は悠々自適な生活ができなくて、裏社会で姉御言われてるって」
「まあ」
「あ、それ、なんて素敵なのかしらという、まあ、だよね。うん。なんか、わかってきた。
困ったことがないならいいけど、その、お見合いとかって明日だよね?」
「別に興味ないのでお断りしてます。お姉さまのご両親も病み上がりだからとそのように進めてくださいました。
お見合いより私は仕事がしたい」
明日も休日出勤。
やったね! と思うのは私くらいで、げんなりとした顔の方が数人いる。月末締めのお仕事なので、毎月のことらしいけど。
「……転職しなよ。もっと稼げてもっと楽しいとこあるよ?」
「それはもうちょっと世慣れてからでいいのでは?」
「そーだね。環境変えすぎるのもよくないか。……そっか、見合いしないのか。よかった」
「はい?」
「うん? 何か言った?」
無意識の良かった、だったようで、天使様はきょとんとしている。天使様的に見合いというのは時期尚早であったと思ってたのかな。
しかし、天使様。改めて見ると深夜に会えば悲鳴をあげそうな強面。
「いえ、別に。
天使様って、任侠映画に出てくる若頭って感じですよね」
「……いいんだよ。怖い顔で。悲鳴上げられるのも慣れてるし、天使って天使ってと指さされるのも」
なにか影を背負わせてしまいました。
「いえいえ、かっこよいですよ」
「へ?」
天使様、ぼぼぼと音がしそうなくらいの速度で顔があかくなっているのだけど。
あれ?
「と、とりあえず、元気そうでよかった! じゃあねっ!」
逃げられました。
あれは間違いなく、逃亡でしょう。なんの用だったのかしらと首をかしげても答えはありません。
「かえろ」
誰もいないオフィスで一人呟いて、帰ることにした。
深夜のパフェは大変、罪の味がした。
翌日も楽しく出勤。
「おはようございます」
「おはよー。今日も元気だね」
「はい。おかげさまで。コンビニの新商品が」
「はいはい。今日は何」
「キムチマヨ」
「……昼にしな? おじさんの塩むすびあげるから、キムチマヨは昼」
「え」
「おじさん、その匂い苦手。朝からはちょっと」
「そうですかぁ」
ありがたく、奥さん作、塩結びをいただく。ついでにお茶も入れてもらった。
上司と楽しく歓談しながらの朝食にも慣れた。その後、ちらほらと同じ部署の方が現れる。
最後に例の後輩が、遅れてやってきたが皆、そっとしている。
お昼時に聞こえてくる噂によれば、後輩と元カレはなんだか上手くいっていないらしい。なぜかきっと睨んでいったのだけど、なんだろうか。
まあ、忙しいので興味はない。
特にどうしたいという要望ももらっていないし、日々過ごすのが楽しいのだから問題ないだろう。
あちらも楽しくやっているといいいのだけど。
お昼も通り過ぎ、夕刻も過ぎ、夜。
「おつかれさまでしたー」
どうにか今月も終わったとどんよりとした目で帰途につく私たち。
打ち上げする気力もない。おうちに帰りたい、お布団と愛し合いたいとぼやく同僚に力強く頷く。
コンビニに寄って帰るという私と即駅直行の同僚と別れて、うきうきとおにぎり売り場に立つ。
すでにここは朝昼、時には夜にも寄るなじみの店のような気がしている。
なんとなく顔見知りのような気もする店員に今日の夕食を買う。買い物は交通系の電子マネーで済んでしまうのが魔法のようだ。ぴっと一瞬だから、大体の買い物これで大丈夫と天使様が教えてくれたように、困ったことがない。
ふんふんと鼻歌を歌いながら、買ったものを指から下げて、夜に歩いても怖いことがない。治安のよいという地域でもあるが、そうではなくても人さらいやスリにあうことはまれだ。
「あれ?」
家の前に誰かが立っていた。マンションはオートロックで鍵でもない限りは開かない。だから正しくはマンションの前だ。
「よぉ」
声をかけてきたのは元カレだった。
後ろを振り返っても誰もいない。それなら近くに誰かいるのかと見回しても知ってそうな人はいない。
「おまえだ、おまえ」
「はぁ。なんですか」
「振られたショックで仕事に逃げてるんだってな」
「いえ。お仕事楽しいです。すっごく、充実してます」
「……もう一度恋人にしてやる」
とりあえず、スマホを取り出す。
操作にはなれてないけど、ある番号を呼びだす。ええとスピーカーにして。
「陽菜ちゃん? ちょっと聞きたいんだけど、自分を振って他の女と結婚予定の男が恋人にしてやるとか言うのって、どう思う?」
「え、死ねば?」
呼び出した妹はあっさりと言った。今日のご飯はパンでというくらいの気軽さで。
元カレは、唖然とした顔をしている。
「一般的女性の反応はこれですが、正気ですか?」
まあ、あの妹を一般的というべきかはさておいてである。さすが姉様の妹様、すごいです。
「俺が間違っていた。結婚はやめる。だから、おまえと結婚してやるって言ってんだ。したかったんだろ」
「今は全然したくありません。
可愛くて気が利いて、俺のことをほめてくれるとかなんとか言ってた可愛い彼女じゃないですか。どうぞ、お幸せに」
「他にも男がいた」
「はぁ。お友達では?」
「俺の彼女に手を出されたと難癖付けられたんだよ」
「そちらで解決されては? 私に関係ありません」
「姉様、そんなのに構わず家に帰るべきですよ」
まだつながったままのスマホから声が聞こえてきた。確かに相手をする理由もない。
「そうね」
「あ、切らないでくださいね。家の電話でなにかあったら通報するので!」
頼もしい妹様である。
「じゃ、ばいばい」
「ま、待ってくれ。俺のこと好きだろ」
しばし、その顔を見た。
確かに整っている、ような気がする。元夫のほうが顔は良かった。中身については私は知らない。事実として、姉様を振った男だ。それも二股もして、相手の子に手も出して。
誠実のかけらもない。
「どこが、良かったのか不思議なくらい。
もう、興味がないの。通報されたくなければ、帰りなさいな」
おいしいおにぎりが私を待っている。焼きおにぎり食べ比べからのお茶漬けをする予定なのだ。それから、今朝買えなかった別の新作が手元にある。
「人が下手に出てれば、調子に乗って」
と手がやってきたなと思った。反射的にぎゅっと目をつぶってしまった。無意識でこの体は動くはずなのに、阻害してしまう。
ばしっと痛そうな音がした。
「……あれ?」
痛くはない。
恐る恐る目をあければ背中が見えた。大きいなと場違いにも思う。
「誰だよ。おまえ」
「通りすがり。誰かに手をあげるのは感心しないな」
その声に聞き覚えはある。
だが、誰かにその姿が見えることはない。幽霊みたいに見える人は少しいるが、触れることはないと本人も言っていた。
「痴話げんかに首つっこむなよ」
「俺が通報してもいいけど。なんか急に殴られたって」
ちっと舌打ちして元カレのほうが去っていった。
「……あーあ、始末書じゃすまないな」
「あの天使様?」
「すぐに家に帰って、今後の対処は家族知人友人を頼るように」
振り返りもせずにそう言って、ほどける姿に思わず手を伸ばしていた。
触れる前に、姿が消える。
「姉様? ねえさまーっ!」
はっと気がついたのはスマホから聞こえた声のおかげだった。大丈夫だからとそれに答えて、通話を切る。
部屋にふらふらと戻り、もしょもしょとおにぎりを食べて落ち着いて……。
「お、落ち着くのむりぃ」
顔が熱い。心臓がどきどきする。なにあれ。なにあれ。
語彙力が瀕死。
こ、これが噂の、推しを思う気持ち! 妹が力説していたのこれなんだ!?
……推しにはなにをすればいいのか。
「こ。これは貢ぐしか」
立派な社畜になってばりばり稼いで貢げばいいんだ!
その考えが間違っているらしいと気がつくのには一年ほど必要になるとはこの時は全く想像もしていなかった。
そのうち藍里に貢ぎたいと言われて困る天使、困ってる天使をにやにやして見てるテントウムシ、キラキラとした目で見ている藍里という日常がやってくるはず。
元彼は後輩と婚約破棄するとかでさらに社内で白い目でみられることに。