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兄さんは私の嫁  作者: 揚羽常時
吸血鬼のお姉様
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吐瀉物


「……っ……げぇ」


 朝もはよから御苦労なこって。アリスは夢見が悪かったらしい。胃液を吐き出して、俺にぶっ掛けた。ところでうどんチェーン店の「ぶっかけ祭り」って広告を見たときドキッとしないか? というアホな話は置いておき。


「ぇえ……う……げ……」


 アリスの吐瀉物が俺に掛かる。


「ごめん……なさい……兄さん……」

「大丈夫。何時ものこと。だろ?」


「でも兄さんは……」

「そんな謙虚なアリスも愛らしい」

「お姉様。大丈夫ですか?」


 ギュッと姫子がアリスを背中から抱きしめた。バインボインの二人だ。相当圧が掛かっているだろう。


「大丈夫だ。アリスにとって心的外傷がたまに悪夢を見せるんだよ。こう言うときは優しく取り扱うのが常だ」

「心的外傷……」


 取り繕うように姫子が独りごちた。


「兄さん……兄さん……兄さん……っ」

「大丈夫だ。俺は此処にいる。何処にも行かない。アリスが死ぬことは無いんだ」

「でも……そのせいで兄さんは……」

「愛妹を平和にするためなら治癒の一つや二つは大丈夫だ。何時も言っているだろう。アリスに責任は帰結しない」


「兄さんは優しすぎます」

「それだけアリスを愛してるってだけだ」

「お姉様……お兄様……」


 姫子も困惑しているようだ。


「じゃ、風呂に入るか。吐瀉物を洗い流さないとな。今日は雨も降っていないし露天風呂を使わせて貰おう」


 そんなわけでこんなわけ。


「……………………」


 死袴屋敷の露天風呂を使わせて貰った。一応釈明すると水着着用。


「兄さん」


 アリスがギュッと俺を抱きしめる。色々と押し付けられているんだが、それにしても胸囲の格差社会。


「お姉様は……」

「大丈夫です。夢見が悪いと何時もあんな感じですけど、目が覚めれば理性が勝ちます由」


 ソレも事実だ。一応不意の暴力のようなショッキング体験でもない限り、アリスの理性は衝動に勝ちうる。ソレが出来ないのが夢の中ってだけで。


「お姉様はソレで宜しいので?」

「兄さんが居ますもの」

「お兄様が」

「ま、一応惚れられてるんでな。恋する乙女は理屈じゃない」

「兄さんっ」


 ギュッとさらに抱きしめられる。あかん。あかんよ。脂肪の塊が突き付けられている。


「お姉様にとってお兄様はかけがえのない人なのですね」

「ええ」


 そこに逡巡はなかった。アリスにしてみれば今更だ。姫子はどうだろう。アリスが俺……ヨハネにベタ惚れという感覚は。少し懸念の材料にもなるも、殊更に俺の責任でもないのが……な。別に釈明する理由もないものの。


「お兄様はズルいです」

「ま、たしかにな。こんなのはタイミングの問題だ」


「兄さんだけが私を助けてくれました」


 おかげで厄介な制約は増えたがな。言葉にはしない。それはアリスを追い詰めることになるし、なにより言葉にしなくともアリスは悟っている。ここでアリスのトラウマを刺激しても誰も得をしないのも事実である。


「お兄様はずっとお姉様を守っていたのですね」

「愛妹だからな。兄貴としてそれくらいはやるさ」

「遠いです。お姉様に恋した身としては、お兄様の献身はあまりに距離が有り過ぎます」


 星空のディスタンス。


「で、諦めるのか?」

「ソレが叶うならわたくしが滅んだときでしょうね」

「中々にお前も業が深いな」

「吸血鬼には人権がありませんから」


 かもな。


 人の負の想念を起こさせる言葉だ。――吸血鬼。これがゴシップならまだ分かるが、姫子は普通に吸血鬼なので一般論が通じない。


「えい」


 俺に抱きついているアリスに、姫子は抱きついた。


「わたくしだってお姉様を案じていますよ?」

「有り難いことです」


 本心からの言葉だろう。心に彩が乗っていた。


「お姉様は呪詛を持っていらっしゃる」

「ですね」

「だからお兄様を必要と?」

「それは因果が逆です。私は兄さんが大好きで、兄さんが私の呪詛を取り除いてくれるのは結果論でしかありません」

「難敵ですね」


 お前にはそうだろうな。はふ、と吐息をつく。露天風呂からは死袴屋敷の庭が見えた。紫陽花が咲き誇っている。梅雨だなぁ……なんて思ってしまう。カタツムリも終ぞ見かけなくなった現世で、ここだけは自然を尊重していた。


「お姉様は大丈夫なんですか」

「兄さんが居れば万事良しです」

「医者に掛かったりは」

「精神をやられているだけですので」

「精神神経科とか」

「意味がありませんよ。私の傷が医者にどうにか出来るなら、既に兄さんは私を見限っています。そうでないから私は兄さんに面倒を背負わせているのですから」

「面倒とは思っていないがな」


 ソレも事実の一側面。


「わたくしが治癒の魔術を覚えたら、お姉様はこっちに傾倒してくれますか?」

「不可能でしょう。私は兄さんに心を仮託しています。兄さんは私の嫁です由……私を真に理解できるのは兄さんだけです」

「悲しくはありませんか?」

「兄さんさえいれば私は他を必要としません」

「お兄様……」

「気持ちは分かるがコレばっかりはな。アリスの心の問題だ。単純に四則演算が可能なら、人に悩みなんて無かろうよ」

「アリスお姉様はヨハネお兄様を慕っているのですね」

「ええ。兄さんは私の嫁」

「同棲は結婚できますけど、近親はできませんよ?」

「知ってはいますけど……それでどうにか慕情が操れるなら、兄さんが言ったように人類に恋の悩みなんて無いわけで……。シェイクスピアだって物語の構成の苦慮したはずでしょうし。なにより私が兄さんにベタ惚れすることもないでしょうぞ」

「ですね」


 そこは姫子も分かっているらしい。だからって事態が解決したわけでも無いんだが。ところで今日の朝食はなんだろうな。アリスが関わらないならそれはそれで趣深い。


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