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兄さんは私の嫁  作者: 揚羽常時
意図と糸
45/105

キュイ


 私たちは逃げていた。


「何が何だか分からない」


 それが全てだった。


「――――――――」


 お化けの吠え声が聞こえてくる。まるで怨嗟を彩るような不吉に満ちた狂気の声。


「なんなのよアレ!」

「わかんないよ!」


 私と工藤さんは逃げていた。誰かに助けを求めたいけど誰も居ない。夜も早い時間なのに、誰一人として姿を見ない。車のエンジン音すらかき消えていた。


「なによ! なにが起ってるの!?」

「誰か! 誰か! 誰か!」


 助けはない。まるでホラー映画のワンシーン。ただ正体不明の怪物に急き立てられるだけの哀れな被害者。私たちはソレでしかなかった。


「――――――――」


 また不吉な咆吼が聞こえてくる。ヒタヒタと背筋に蟻走感が襲いかかってくるような冷やっこい感触。背骨ごと凍るんじゃないかと思わせられる冷徹な現実。


 ――現実? これが? 蜘蛛の化け物に襲われているコレが現実?


 思考は奔っても明確な出力は出来ない。そもそもが意味不明なのだ。お化けなんて本当にいるのなら、普通にニュースになってもおかしくない。というか空想の産物でしょう?


 ――ゆめうつつまぼろしか。


 息を切らしながらも奔って逃げる。


「何なのよぅ……!」


 不条理此処に極まった。お化けとマラソンなんてシャレにもなっていない。けれど生存本能は「足を止めるな」と神経に負荷をかけている。もし止まったら殺される。予感に過ぎないけど、どこか確信もあった。女性の上半身を持つ大蜘蛛。その外見だけで、囚われた末路を覚れる。本当にどうしようもなく。


「古洞さん……も……ダメ……」


 先に限界が来たのは工藤さんの方だった。


「ダメだよ! 逃げなきゃ!」


 ――ああ、これが夢なら良かったのに。


 けれど現実は確かに有って、大蜘蛛は焦点の合っていない美女の瞳でこちらを覗いている。戦慄もする。怖気も憶える。どこまでが現実で何処までが夢か。その境界線があまりに希薄だった。ましてコミュニケーションもとれそうにない。


 ――こんな怪物がこの街にいるなんて。そんなお伽噺在り? お休み前の無聊の慰めではなかったのか?


 そうは思っても事実は事実で。


「――――――――」


 パシュッと私の皮膚が切り裂かれた。浅い切り傷だ。大蜘蛛の射出した糸が掠めるように皮膚を抉った……と理解したのは事態が収まってから。地獄はむしろコレからだった。


「逃げるよ! 工藤さん!」

「も、無理」


 人を殺すのは絶望ではなく諦観。精神ではなく肉体が、工藤さん足に楔を縫い付けていた。息絶え絶えで、スタミナも足りていない。心の悲鳴と体の限界が、乖離能う。


「そんな……そんな……」


 圧倒的絶望の状況。けれど大蜘蛛は斟酌せず。


「――――――――」


 糸が射出された。それは工藤さんの足を射貫く。


「が……ああぁぁあぁぁ……っ!」


 まるでレーザーのように、糸は肉体を貫通する。


「痛い……痛いよ……」


 さらに貫通。あがる悲鳴。大蜘蛛のお化けは嬲るように工藤さんを追い詰める。私には何も出来なかった。剣も銃も……ナイフすら持っていない。お化けと闘えといえども、「ではどうする?」と問われればノーコメントしか返せなかった。


「逃げて工藤さん!」

「痛い……痛い……痛い……」


 キュイッと音がする。糸の摩擦する音だ。蜘蛛の糸。それは時に剣以上の斬撃を付与する。摩擦と圧力で極細の面積を加圧するのだ。工藤さんの右足が、足首から切り裂かれた。


「ひ――っ!」


 血の気が引く私。掠った皮膚の切り傷がジクジクと痛む。ただそれだけで痛いのに、工藤さんの痛みたるや想像の埒外。


「っがあああああああああっ!」


 月夜に嘆きが伝播した。けれどもそれは誰にも届かず。ただ嬲られるだけの肉片に落とされる工藤さん。


 ――キュイ。


 また摩擦音。今度は左足が足首の付け根から切り落とされる。これでもう歩くことも出来ない。


「あ……あ……あ……!」


 恐怖で涙が出た。同情ではない。単純な自己換算だ。もし工藤さんの拷問が終わったら、次は自分の番だと。そう覚るのに苦労はなかった。


 ――キュイ


 脚が付け根から切り落とされる。摩擦音が拷問の執行の合図。その音を聞く度に、悲鳴と血流が流れ出す。


「う……げぇ……!」


 あまりなプレッシャーに胃液が逆流した。グロテスクですら程遠い現実。少しずつ切り裂かれていく親友の肉体。


 ――キュイ。


 ――キュイ。


 ――キュイ。


 手足が切り裂かれていった。


「たす……たす……助けて……」


 切望を託すようにこちらに視線をやる工藤さん。助けたい。助けたい。どうしても助けたい。なのに身体は動かなかった。


 ――キュイ。


 こちらに助けを求める……伸ばされた工藤さんの手が、手首から切り落とされる。


「あ……ああ……ああぁぁあぁぁ……」


 ドクドクと出血が酷くなる。四肢から血が溢れ出していた。


 ――ああ、人の体内にはコレほどの血があるのか……。


 そんな意味不明な感慨を覚るほど、私には余裕が無かった。


「痛い……痛いよ……助け……」


 ――キュイ。


 首が胴体から離れた。斬首。糸の斬撃がソレを為した。ゴロンと転がる工藤さんの頭部。死んだことを認識していないのか。パチパチと瞬きをしていた。


「工藤……さ……っ!」


 どろりと泥濘に浸したような虚ろな視線が言っていた。




 ――許さない。




「あ、あ、あああああああっ!」


 我知らず私はその場から逃げ出した。逃げて、逃げて、逃げ続けた。お化けは追ってこない。けれども瞼に焼き付いた工藤さんの生首は逃がしてくれなかった。まるで呪詛の如く張り付いた死者の瞳。何の感情も浮かばない無明の闇だ。


 気付けば界隈はもとの喧噪を取り戻していた。逃げ切ったのか。否なのか。わからないけど……けど……でも……、


「許さない」


 私の瞳に残った工藤さんの生首はあまりに鮮烈で、だからこそ強烈な映像だ。ショッキング映像とも言える。まるでボールのようにコロコロ転がる生首を私は一生忘れられない。


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