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きみのすべてを解き放て  作者: シロタカ
◇ 第1話 最強と最弱
9/24

【8】

 早朝から、初夏の陽気。


 リオンが窓を開け放てば、爽やかな風と共にロウシャンの喧噪も飛び込んでくる。アズクリッドの借りているこの部屋は最上階の五階にあり、リビングの窓は小さな通りに面していた。しばらく行き交う人々の流れを見つめていると、猫の三号が陽気にやって来る。


「危ないよ」


 窓から身を乗り出そうとする三号を、リオンは抱えて部屋に戻した。


 のんびり屋の一号は、戸棚の上で丸くなっている。


 甘ったれの二号は、足元をうろちょろしている。


 四号は――いや、リオンは、朝一番の家事を終えた所だった。


「リオンくん、仕事に行ってくる」


「はい、アズクリッドさん。行ってらっしゃい」


 あれからひと月が経っていた。


 リオンは、まだ、今も、アズクリッドの部屋にいる。


「晩ごはんは何がいい?」


「うーん……。お任せする」


 リオンはアズクリッドの鞄を代わりに持って玄関まで見送る。靴を履き終わった彼女に鞄を渡してやりながら、「今日は忙しくなりそう?」「大丈夫。早く帰って来られるはず」と、ごく短い会話。何もかも、毎日の定番化したやり取りである。


 こんな風に、ひと月――。


 男女が二人、ひとつ屋根の下である。一時的な保護の段階はとうに過ぎ去っていた。リオン自身、これまでの日々を振り返ってみても、いつのタイミングがターニングポイントだったのかわからない。何かしらの困難に打ち勝ってレベルアップしたわけでもなく、ごく自然に、リオンは彼女の同居人にランクアップしていた。


 物置だった部屋にはリオンのためのベッドが買い足されている。食器の類も、そろそろ二人分が一式そろいつつあった。猫三匹は、リオンにべったりと懐いており、下手をするとアズクリッド以上にご主人様として慕ってくれている(アズクリッドはその点に関しては大いに不満らしい)。


 二人の関係は、良好。


 時々は、アズクリッドに叱られるものの――。


 少なくとも、リオンは今の生活にとても満足していた。


「仕事探し、無理をする必要はないから」


 玄関のドアを開けながら、アズクリッドは最後に云い残して行く。


 それもまた、いつもの台詞である。


「うん。ごめ……」


 リオンは思わず、『ごめんなさい』と素直な気持ちを返しそうになる。寸前で、グッと我慢した。ここはとにかく、笑顔で手を振るべきだ。「行ってらっしゃい」と、それだけ口にする。良いのか悪いのか、この方が日常は円満に進む。リオンは少し賢くなっていた。


 アズクリッドは仕事に出かけていく。


 リオンは一人になった。


「ごめんなさい、ありがとう。どちらも、本音なんだけど――」


 彼女の前では口にしない独り言である。


 リオンは苦笑しながら、ぽつりと漏らした。


「ボク、このままでいいのかな?」


 これまでも何度か、アズクリッドに対してここに置いてもらっていることへの感謝を告げていた。時に、照れながら。時に、謝りながら。リオンが感謝と共に込める気持ちは様々だったけれど、残念ながら、彼女の反応はいつも冷たかった。


『そう。それで?』


 リオンが次に告げるべき言葉は何が良かったのか。


 いつまで、ここに居ていいのか――。


 どうして、ここに居させてくれるのか――。


 しかし、アズクリッドのにらむような目を見つめていると、リオンはいつも何も云えなくなった。別に、彼女に嫌われているとは思わない。そうであれば、最初から家に置いてくれないはずだ。リオンが何となく理解したのは、感謝の気持ちを真面目に改めると、彼女がなんだか不機嫌になるということである。


「でも、どうして?」


 リオンはなぞなぞを出された子供みたいに首を傾げる。


 アズクリッドの気持ちがよくわからない。


 これまで幾度も考えてみたけれど、答えは出てくれない。


「まあ、仕方ない。考えてもわからないんだから」


 リオンはあっさりと思考を打ち切る。


 必要以上に悩むことに意味はない。


 昔から、それでやって来ている。


 リオンはアズクリッドを命の恩人だと思っている。感謝の気持ちはもちろん、ある種の信仰心にも似た敬意すら抱いていた。誰からも見放されるような自分を全力で助けてくれた――それだけで、リオンには十分だった。彼女に恩を返したい。ましてや、迷惑をかけるなんて絶対にしたくない。


 リオンは無能者である。


 一緒にいるだけで、彼女の負担になるかも知れない。


 彼女のためを思うならば、いずれは結論を出す必要があるのはわかっていた。


「さてさて」


 リオンは気持ちを切り替えていく。午前中は家事の時間である。アズクリッドが仕事をがんばっているのだから、リオンはせめて家のことを片付けるようにしていた。


 いつも洗濯から始める。


「さあ、やるぞ!」


 エプロンを付けて、腕まくりした。


 二人分の衣服を風呂場で洗い、アパルトメントの屋上に干しに行く。そこでは他の住人の奥様方と一緒になることも多く、ひと月の間にたくさんの顔見知りができていた。


 最初は、アズクリッドの部屋に女友達が遊びに来ていると思われていたらしい。リオンが男ということがわかると、しばらくはじろじろと不審な目を向けられるようになってしまった。確かに、女性の一人暮らしの所に得体の知れない男が転がり込んだのだから、ご近所としては警戒もするだろう。


 リオンは積極的に話しかけるようにしたものだ。


 それが功を奏してか、現在では受け入れられている。


「あら、リオンの坊ちゃん。おはよう!」


「おはようございます、いい天気ですね」


 屋上で、朝の挨拶を交わしていく。


 アズクリッドはこれまでご近所付き合いに興味がなかったらしい。


 家族暮らしが多いこのアパルトメントで、若い女性の一人暮らしは少々目立つ。井戸端会議好きの奥様の間では、アズクリッドは何かと噂の種になっていたらしい。とはいえ、新鮮な情報が全然流れて来ないので噂話も空回り気味だったようだ。


 そんな状況でのこのこ出現した、リオンという愛想良し。


 飛んで火に入るなんとやら、リオンはちょっとした人気者だった。


「それでもう、押し倒したのかい?」


 朝っぱらから、身も蓋もない質問を投げつけられる。


 子供を何人も育てている女性は色々な意味でたくましい。


「残念ながら、そんな間違いは起こりませんよ」


 リオンも慣れたものである。


 最初は真っ赤になって何も云えなくなっていたが、もはや遠い過去のようだ。


「何度も云ってますけれど、ボク、ただの居候ですから」


「ただの居候に、女が自分の服を洗わせるもんか」


 別の奥様からは、そんなツッコミを受ける。


「もしかすると、男と思われてないのかも知れませんね」


 リオンはあくまでニコニコ笑いながら答える。


「あくまで否定するんだね。リオンの坊ちゃんは頑固だ」


「皆さんこそ、ボクらを強引にくっ付けようとし過ぎですよ」


 リオンは洗濯ものを干し終えて、苦笑しながら屋上を去る。


 残された奥様方は数人、主役がいなくなった後もゴシップトークに花を咲かせていた。


 曰く、問題はどう考えてもリオンの方にある。聖人君子を気取っているわけではなく、あれはもう本当に心の底から清すぎるのだ。少年らしい欲がない。欲がありすぎても困るが、なさすぎるのも問題である。自分達の旦那が若い頃なんて、それはもうサルのように――以下、本筋と関係のない話に無限拡大していく。


「やれやれ。皆さん、飽きないな」


 仲良くなれたのは良いものの、矛先を向けられるばかりなのは大変だ。


 とりあえず、洗濯は一段落。リオンは一息つく間もなく、次は掃除に取りかかる。


 部屋に戻ったリオンは、猫三匹をひとまず自分の寝室に押し込めた。


 やる気を出して、ホウキを両手で構えるものの――。


 そこで、ノックの音がした。


 来訪者である。


「誰だろう?」


 リオンは一瞬、他愛ない警戒心を抱く。


 これまで、アズクリッドの知り合いがやって来るなんて事は一度もなかった。


「もしかして、他の部屋の人かな?」


 屋上でのゴシップトークを思い出した。


 最近は奥様方と仲良くなってきたから、作りすぎた料理でもわけてくれるとか――リオンは生来のゆるりとした気質でそんな風に考える。


 何事も、前向き。


 逆に云えば、危機意識が足りていない。


 そもそも昼時には早く、どこの家庭も食事を準備する時間帯ではないのだから、リオンの予想は外れている可能性の方が高かった。これまで一度もなかったとは云え、アズクリッドの知り合いが急に尋ねて来たと考える方がまだ自然である。


 もしも、アズクリッドの女友達が連絡なしにやって来たのであれば、何も問題はなかった。


 お客さんとして出迎えて、夜には食卓を囲みながら話もはずんだに違いない。


 まあ、残念ながら、これは悲しい話であるけれど――アズクリッドには友達と呼べる人が本当に少ない。というか、素直に友達と云える相手は一人しかいなかった。リオンはそんなことを知らないし、当然、彼女の唯一の女友達が現在はロウシャンから遠く離れた土地にいるということも知らない。


 何にしろ、楽しい展開は起こり得ないということだった。


 むしろ、ここから始まるのは最悪の展開である。


「はーい、どちら様ですか?」


 ニコニコと笑顔で玄関のドアを開けたリオンは、すぐさま目を丸くして固まった。


 相手もまた、同じである。


 彼は、とびっきりの笑顔を作っていたけれど、それはまったくの無駄に終わった。両手に抱えている豪華な花束も、新品同然にクリーニングされた一張羅も、この場合はすべてが滑稽なだけである。


「君は、あの時の……リオン君だったか?」


「ロマンさん? どうして、ここに?」


 二人、それから言葉を失って見つめ合い続けた。


 しかし、それは決して互いを見ているわけではない。リオンもロマンも、目の前に立つ男の向こう側に幻視される彼女の姿に目を凝らしていた。残酷で、悲痛で、その上でなお、やはりこれ以上なく滑稽な場面には違いない。二人は共に、ありとあらゆる言葉で現状の理解できなさを語りたいと思っている。だが、どうしても一切の言葉が出て来てくれないのだ。


 事実としては簡単である。


 こんな場所で再会してしまった二人――。


 今、いっしょに暮らしている男と。


 昔、いっしょに暮らしていた男と。


 そんな二人の沈黙だけが永遠のように続いていく。


 たったそれだけの、要は、まあ、最悪な展開というやつである。

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