【2】
ロウシャンのギルドで【氷雪女王】の異名で怖れられるアズクリッド。表情なし、感情なし、鋭く、冷たく――。相手を泣かすことは日常茶飯事でも、彼女自身は感情を見せることすら滅多にない。そのように知られているアズクリッドが今、鶏のように鳴いていた。
「はあああぁあぁぁあぁあ!?」
瞬間、ぴたり、と――。
ギルドの時間がフリーズする。
なんだかもうみんなマンドラゴラが叫んだ時のように固まっているし、反射的に振り返った他の受付嬢はくねくねゴーストのような見てはいけないものを見てしまった感じで青ざめているし、冒険者の一部はわけがわからない恐怖の高まりに【混乱】の状態異常を発生させて殴り合いを始めるし――。
そうした異常事態を察知して上階から駆け付けて来たギルド長のおじいちゃんは階段の途中で足を滑らして転がり落ち「骨が折れた!」と悲鳴を上げているし――。
詰まる所、ここが地獄かという惨状だった。
だが、元凶たるアズクリッドは地獄絵図には無関心である。
「説明を求めます」
ひとしきり叫んで落ち着いた後、アズクリッドは居住まいを正して詰問した。
「ギルドの受付嬢として二年間、私は多くの冒険者を見てきました。その経験に基づき、はっきりと貴殿の存在を否定します。ありえない。まったく、これはありえない。ギルド受付嬢としての経験――否、この世界の常識としてあなたのような存在はありえない。あなたは何者ですか?」
華麗な剣戟のような、矢継ぎ早の追求だ。
「あなたは人間ですか?」
「はい、たぶん。出来損ないですが……」
出来損ない。
リオンの自虐的な発言は、アズクリッドの心にサッと水をかけた。
アズクリッドは普段と変わらないぐらいに口調を抑え、「まさか、これまで、これで、こんなもので……こんなステータスで、生きてきたのですか?」と尋ねた。「はい」と、簡潔に答えるリオン。アズクリッドは遂に頭を抱えてしまった。
ギルドの注目は相変わらず、二人に集まっている。
ただし、誰一人として、二人の会話の意味は理解できていない。
「ボクは冒険者になれますか?」
しばらくの沈黙の後、リオンが尋ねる。
「無理です。私が許可しません」
冷淡に答えるなり、アズクリッドは受付画面のウィンドウを閉ざした。リオンが表示したままのウィンドウに指を伸ばすと、『最低限のステータスに満たないため、冒険者としての登録不可』と己のサインで書き入れる。
「やっぱり、そうですよね」
「わかっていて、ここに来たのですか?」
「……可能性はあると思っていました」
「残念ながら、現実を見てください」
再び、しばらくの沈黙が続く。
どうにも痛々しい静寂がギルドを包んでいた。
「ごめんなさい、お手間をおかけしました」
結局、沈黙を破って口を開いたのはリオンの方だった。
正面で向かい合うアズクリッドだけが、その目元にうっすら涙が浮かんでいることに気づく。リオンは視線に気づいたのか、ぎこちない笑顔を作りながら目元をぬぐった。
「ありがとうございました」
深々と一礼。そして、彼は去って行く。
それで、終了――。
終わってみれば、いつものことだ。
アズクリッドが泣かせた冒険者がまた一人増えたというだけのことである。
これから数日間、アズクリッドは同僚達から興味深い視線を送られることになるものの、彼女自身がこの一件について口を開くことはなかった。また、本来であれば上司たるギルド長には最低限の報告が行われるべき所だったが、おじいちゃんは骨折のため病院に搬送され、そのまましばらくの入院となってしまったから全てはうやむやの内に終わってしまった。
ギルドの受付での口論は日常茶飯事である。
アズクリッドが叫んだ、というのは前例のないことだったけれど、それもすぐに日常の忙しさに埋没していく。ロウシャンは人の入れ替わりが激しい。時の流れも慌ただしく早い。一週間が過ぎる頃には、アズクリッドとリオンの間で繰り広げられた騒動を気にする者はいなくなっていた。
「私の判断は、正しかった、はずだけど……」
ある日の夕刻、ギルドの務めを終えて、制服から私服に着替えたアズクリッド。ギルドホールの奥にある更衣室で一人、ぽつりと漏らされたその独り言。それは彼女だけが今も忘れていない証拠だった。
いや、むしろ、彼女は毎日のように思い出している。
「本当に、ありえない」
アズクリッドは目を閉ざしたまま、ため息を吐く。
『1』
それはなんて残酷な数字だろうか。
アズクリッドが何度も思い出すのは、リオンの【ステータス】である。
彼のステータス画面は、ありとあらゆる細部まで『1』のオンパレードだった。レベルすらも『1』と表示されていた。単純に解釈するならば、彼は生まれてから一度も成長していないということになる。
何度思い出しても、アズクリッドは血の気が引くような思いをする。
生まれたばかりの赤ん坊ですら、もっとマシなステータスだ。
ありえない。この時点でも前例のない異常事態である。
しかし、リオンの抱える闇はさらに深かった。
持って生まれし各人の才能を示す【タレント】、修練を積んで身に着ける【スキル】。恐ろしいことに、いずれもリオンは一切を所持していなかった。望まなくとも、日々の当たり前の生活を続ける中で【スキル】を獲得することはある。例えば、アズクリッドが別に欲しくもないのにスキル【にらみつける】(効果:相手の防御力を下げる)を覚えてしまったみたいに。
何も持たない、というのはありえない。
人として当然の暮らしをしてきたならば、何かは学び、何かは得る。
「少なくとも、私の判断は間違っていない。彼は冒険者にはなれない」
アズクリッドは自身に云い聞かせるようにつぶやく。
「冒険者になってはいけない。間違いなく、彼は死ぬ」
装備適正。
ステータスの最後に位置するその項目を見た時、アズクリッドは遂に叫んでしまった。
装備適正は文字通り、武器や防具に対する適正を表している。適正が高いほど、武具の能力を引き出すことができる。逆に、どれだけステータスが低い人間でも、装備適正が人並みであれば、レアリティの高い装備を入手することで一気に強くなることも可能だ。むしろ、この世界のシステムは個人のステータスより装備の強さを重視する傾向にあり、装備適正はステータスで最重要の項目と云っても過言ではない。
そんな中で、リオンの装備適正はありえないものだった。
あらゆる装備の適正が凄まじく高い数値を示していた。マイナス方向に、である。
念のため、繰り返しておくべきだろう。マイナス方向に、装備適正が途方もなく高いのだ。
マイナスの装備適正なんて、ギルドの受付嬢であるアズクリッドでも聞いたことがない。
だから想像するしかないが、マイナスの装備適正とは、おそらく――。
何かを装備すればするほど、弱くなる。
武器を持てば、攻撃力が下がり――。
防具を着れば、防御力が下がり――。
ああ、ありえない。
強くなるはずの武器や防具を装備して逆に弱くなるのだ。
無茶苦茶である。ありえない。本当に、ありえない。
リオンは間違いなく、この世界で一番弱い人間だろう。ステータス、タレント・スキル、装備適正、あらゆる面で隙がない。アズクリッドの知識を総動員しても、彼以上に弱くなる方法が思いつかないぐらいだ。
まるで、世界に呪われている。システムと共に生きていくこの世界で、リオンという少年はどうやって生きて行けばいいのか。どうやってこれまで生きて来たのか。
「冒険者が無理でも、他の道を示してあげることも……」
それは別に、ギルドの受付嬢の仕事ではないけれど。
アズクリッドは、しかし、リオンのことがどうしても忘れられない。
あの日から十日が経とうとしている。
残念ながら、これ以上考えてもどうにもならないことだ。アズクリッドはいい加減に気持ちを切り替えようと考える。気晴らしに、今夜はワインでも買って帰るのもいいかも知れない。昨日が給料日であったから懐は温かいのだ。心を奮い立たせ、それでも表情のあまり変わらないアズクリッドは夜の街を帰路につく。
この後すぐ、彼女は路地裏で行き倒れているリオンを発見するのだった。