【9】
ロウシャンは昔、ある貴族の所領だった。
暴政に耐えかねた有力商人の集まりが当時の支配者を排除した結果、現在の自由都市としての体制が確立されていった。かつての市民はこれを大いに歓迎した。大商家の連合が政治を指導するようになってから、ロウシャンは元々の貿易拠点としての役割をますます発展させて栄え、現在では大陸で一番の技術・文化の集積地ともなっている。
新しいもの好きの商人の気質を反映してか、ロウシャンの街並みは常に新鮮なものに生まれ変わっていく。そのため、旧支配者たる貴族の面影はほとんど残されていない。
都市の北端にある古めかしい闘技場は数少ない貴族文化の名残である。
リオンは一度だけ、アズクリッドと共に闘技場を観光目的で訪れたことがあった。
その時は真昼だった。
現在時刻は、真逆の深夜である。
まさか、こんな時刻に、こんな理由でまた訪れるとは思わない。
「やれやれ」
リオンはため息を吐く。
空にも届かんばかりの巨大な闘技場を、満月の淡い光だけが照らしていた。昼間の興行中は大勢の見物人で賑わう場所だが、この時間帯は嘘のように静まり返っている。
夜の闇は、まぶたにべったりと張り付くようだ。
リオンは重たい気持ちがさらに重くなるような気がした。
それにしても、不自然なぐらい、本当に誰も見当たらない。警備の巡回ぐらいは居てもいいはずだろうに、墓場のような静まり具合である。もしかすると、これはこれで、舞台が整えられているということなのかも知れない。元から不用心なのではなく、今だけ、そうなっているのならば――。
事前に指定されていた通用口を探せば、あっさりと見つかった。
施錠はされていない。やはり、お膳立てされている。
「ロマンさん。やっぱり、すごい人なんだな」
S級の冒険者にして、剣の勇者。闘技場を一晩貸切るぐらいのコネやパワーはあるらしい。さすがと云うべきか、さすがに恐ろしいと云うべきか――。何にしろ、リオンは覚悟を決めるしかなかった。
リオンの目の前には、先程からシステムウィンドウが開かれている。
地図と道順の表示に従い、関係者用の通路と思しき場所をひたすら進んだ。
そうして、今夜の舞台にたどり着く。
「待っていたぞ」
観客席ではなく、闘技場のメインステージである。真昼の太陽の下では、闘士が激しく剣を振るい、モンスターが暴れ狂うその場所だ。まさか、リオンがここに立つ日が来るなんて夢にも思わなかった。
もちろん、観客はいない。
スポットライトもなく、灯りは満月のみ。
透き通る月光に浮かび上がるのは、太陽のような人。
「よく来たな、リオン君」
闘技場が良く似合う。なにせ、彼は戦士である。
純白の鎧に身を包んだロマンが、戦意に満ちた顔で待ち受けていた。
「こんばんは、ロマンさん」
リオンは軽く会釈する。
それに対し、ロマンは首を横に振る。
「私からの呼び出しに応じた所は認めるが、その態度は認められない。慣れ合うつもりはないぞ、リオン君。ここにやって来たからには、君もそのつもりだと思っていたが、私の見込み違いだったかな?」
「ボクは、そんな……」
ロマンの態度には刺々しい敵意が満ちている。
予想はしていたものの、リオンはそれでも戸惑ってしまう。
「ボクはあなたと争うつもりはありません」
「そちらになくても、私にはある。私には、君を打ち倒す正当な理由がある」
正義は我にあり、とばかりに胸を張るロマン。
勧善懲悪の主人公のようだった。そうなると、リオンは悪役だろうか。思わず苦笑する。ロマンの印象は初対面の時から何も変わっていない。自信家であり、良くも悪くも、エゴの塊。自分自身を見限っているリオンとは正反対である。
両者は今、同じ問題を突き付けられている。
しかし、それに対する答えは絶対に同じものにはならない。
「でも、いくら何でも……ロマンさんに、何の権利があると云うんですか?」
アズクリッドの部屋の玄関にて、二人、偶然に出会ってしまった今日の朝――。
リオンもロマンも、結局、思っていることを一切口にできないまま終わってしまった。
花束を床に叩きつけると、盛大に舌打ちしたロマン。実力に裏打ちされた余裕ある態度は失われており、呪い殺せそうな目でリオンをにらみつけてきた。敵意と殺気が全身にみなぎっている。初対面の時に感じていた親しみや優しさは、そこには欠片も残っていなかった。
実際、リオンはひやりとしたものだ。
殺される。
一瞬、本当にそう思った。
剣がいきなり抜き放たれても、まったくおかしくない気迫だったからだ。
リオンは差別的な視線には慣れている。いつも、そうした眼で見られて来た。しかし、思えば、それらはリオンの能力や資質――すなわち、ステータスを見下す視線だった。リオンという人間そのものを徹底的に嫌ったような視線は、もしかすると初めてだったかも知れない。
結局、ロマンは無言のまま立ち去ってしまった。
システムを介したメッセージが届いたのは、それから数時間後のことである。
リオンはそれに返事ができないまま、夜、アズクリッドが仕事から帰って来るのをいつもと変わらぬ調子で出迎えた。夕食をいっしょに取り、職場の愚痴をつらつら聞き、シャワーを交互に浴びた後は二人で猫たちと遊んだ。やがて日付が変わるぐらいの時刻にそれぞれの寝室に引きこもった。
いつも通りの日常――。
いつの間にか、日常になっていた二人の時間である。
リオンは改めて、指でなぞるようにその感触を確認してみた。
夜は淡々とふけていく。眠れない。リオンは涙をぬぐいながら、一度は潜り込んだベッドから起き上がった。猫たちを興奮させないように注意しながら家の外に抜け出した。途中で、何かしら書き置きを残した方がいいだろうと思い付いたが、どんな言葉を記せばいいのかわからなかった。
だから、言葉の代わり、蒼の腕輪をリビングのテーブルに残しておいた。
最悪、もうこの部屋に帰って来られない可能性もあるだろう。
リオンはそんな風に覚悟していた。
蒼の腕輪のレアリティは、どうやらレア以上であるらしい。それだけの価値があるならば、これまで世話になったお返しにはなるはずだ。
売却すればそこそこの金額にはなるだろうと、リオンは冷静な頭でそんな風に考える。ただし、心の奥で抱いている想いは別だった。アズクリッドに自分のことを覚えておいてもらいたいと、実際はそんな未練を形にして残したようなものである。
今、左腕には何もない。
これまで十年以上、ずっと身に着けていた腕輪である。
何もかも失くしてしまったような気分で、リオンは左腕を無意識に撫でる。
「では、君には権利があるのか?」
問いかけたリオンに対し、ロマンは同じ質問を返してきた。
「君も、アズクリッドは自分のものと云い張るのか?」
「ボクは、彼女のことをそんな風に思っていません」
ロマンの激しさに対し、リオンは逆に冷めていく。
「私はあいつを今でも愛しているぞ! だからこそ、この手に取り戻そうとしている。君には愛が無いと云うのか。それならばどうして、君はあいつと一緒にいる?」
思わず、リオンは吹き出しそうになった。
「なにがおかしい?」
「ボク、笑っていましたか?」
「私を馬鹿にしているのか?」
「いいえ、むしろ尊敬できると思います」
ここまでの経緯を思い出し、リオンはまるで喜劇のようだと思い始めていた。
一人の女を巡り、二人の男が争っている。
片方は、S級冒険者にして勇者。
世界最強。
片方は、職探し中の田舎者。
世界最弱。
これでは賭けにもならない。結末は見えている。
そう、結末は見えていると云うのに――。リオン自身、ずっと不思議に思っていた。争うことに意味はなく、敗北は必至であると云うのに、それならばどうして自分はわざわざここにやって来たのか。




