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きみのすべてを解き放て  作者: シロタカ
◇ プロローグ
1/24

【0】

 裸の子供と、その父親が旅をしていた。


 ここは、世界最大の霊峰である。何百年も雪が降り止まないと云われるこの伝説の地に、親子二人だけが小さな足跡を残していく。彼らの背後に広がるのは果てなき雪原だけだ。裸の子供が前を行く。父親の方は雪山にふさわしい恰好をしていた。厚手の防寒用マントと鋲の付いたブーツ、丈夫なピッケル、さらには二、三の防御用の魔法を身体の周りに張り巡らしている。


 親子は、遥か彼方の地から長い旅をしていた。ここは旅の目的地のひとつであり、それゆえ避けては通れない場所だった。しかし、猛烈な吹雪が体力と体温を奪っていく。父親はしばしば足を止めて呼吸を整える。


 一方で、息子の歩みはうさぎのように軽やかだ。


 父と違い、とても身軽な恰好である。というか、裸だ。登山用の靴なんて履いておらず、素足のままだが、足を滑らせる様子は微塵もない。春の草原を散歩するぐらいの調子で歩いて行く。激しく吹き降ろす冷風の音にかき消されているが、のんきに歌まで口ずさんでいた。


「リオン」


 不意に、父が目の前を行く息子に呼びかけた。


「休憩にするぞ」


 振り返った子供は足を止めたものの、返事はない。


 無垢な瞳が父を無言で見つめる。何と云われたのか理解できていない訳ではなかった。幼くとも、もう言葉は十分に覚えている。黙り込んだままなのは、子供のちょっとした反抗心である。


「まだ、いこう」


 しばらくの沈黙の後、子はそうつぶやく。


 父は笑った。


「リオン、お前は先に進みたいわけだ。元気一杯だな。まだまだ歩けるか。まあ、お前が疲れたなんて云い出すことは決してないだろうが……。こんな死と隣り合わせの場所でも、ただの散歩と変わらないんだからな」


 父のため息は大きい。


「いいか、リオン。よく覚えておけよ。お前と違って、父さんは疲れるんだ。父さん以外のみんなもそうだ。お前はそれを覚えておく必要がある。『普通』ってものを理解して、お前の方が『普通』に合わせてやらないとダメだ。みんながお前に合わせるってのは……絶対に、無理だからな」


 父は話しながら、バックパックから小休止するためのアイテムを幾つか取り出していた。


 雪山における基本的な装備品の中に紛れて、ひとつだけ異彩を放つものがある。掌サイズの真っ黒なキューブである。表面は滑らかで光沢があり、継ぎ目のない金属製である。何も知らない者が見たならば、用途不明のアイテムとしてゴミ箱に放り込むかも知れない。


 父ははそれを雪の上に置くと、命令コマンドを口にした。


「起動」


 すると、キューブに劇的な変化が生じる。


 キューブの中心から上下左右に閃光が走ったかと思えば、一文字に亀裂が生じ、そこから放たれた赤色の光線が周囲を照らし出した。


 光は消えることなく、キューブを中心とした一定範囲を箱のように覆った。冷たい雪風が光の壁に遮られる。キューブの放つ輝きの内側はそれだけで気温がぐっと上昇したようだ。ようやく肩の力を抜ける状態になって、父はやれやれと息を吐く。


 彼はシンプルに、これをバリアと呼んでいた。正式名称は何やら堅苦しいものがあるけれど、バリアはバリアだ。そう理解しておければ、実用には事足りる。


 父親はバリアの中で座り込み、小ぶりな鍋と固形燃料で湯を沸かし始めた。このような状況下では暖を取ることが一番の休息となる。


 一方で、子供はバリアの中に入ることなく、足元の雪をすくったり、投げたりして遊んでいた。


「お?」


 不意に、子供が何かを指差し始めた。


 雪山の高い所である。


 幾度も、短く、「お?」と疑問の声を繰り返し続けた。


「なんだ、リオン……」


 父の反応は緩慢である。


 子供はいつでも、なんにでも興味を持つ。飛ぶ鳥を見つければ、毎回指差して父の気を引こうとする。大人にはありふれたものでも、子供には新鮮であるからだ。そうした反応は可愛い一方で、いつも相手をするのは大変というのも事実だった。


 今も、なにかつまらないものを見つけたのだろう。


 父はそんな風に思って、子供の方を振り返りもしなかった。


「お!」


「ああ、わかったわかった。なにがどうしたって……」


 カップに注いだ白湯を口にしていた父は、子供の声がひときわ大きくなった所で、ようやく目を向けようとした。その頃には既に、かすかな振動が届き始めていた。それはあっという間に轟音へと変わっていく。


 父はハッとして振り返ったものの、目の前の光景に我を失った。


 雪崩だった。


 それも、山が丸ごと崩れて来たかのような大規模の。


「逃げっ……!」


 悲鳴を上げる間もなかった。父は身を守るため、反射的に防御魔法を展開していた。キューブの生み出すバリアはそもそも強固である。それに魔法を重ね合わせる事で、雪崩を正面から受け止めるだけの耐久力を生み出す。雪崩が衝突すると、バリアから光の波紋が広がった。バリアの周囲を雪崩が怒涛のように流れ落ちていく。雪崩が続く間、バリアは必死に耐えるかのごとく明滅を繰り返した。


 やがて静寂が戻って来る。


 キューブがエネルギーを使い果たし、バリアが解除される。冷たい風に頬を撫でられ、父は恐る恐る周囲を見渡した。景色は一変していた。新雪は抉り取られ、凍った大地が剥き出しになっている。


 言葉もなく、父は呆然と立ち尽くした。


 過酷な旅である事は承知していたものの、思った以上である。なんとか助かったものの、今のは死んでいてもおかしくなかった。目的地はまだしばらく先である。果たして、無事にたどり着けるだろうか――。


「切り札もここで失い、さてどうしたものか……」


 父はキューブを拾い上げながら嘆いた。これがなければ助からなかった。命拾いしたのだから十分であるけれど、これでもうキューブは使い物にならない。現状では、エネルギーを補充する方法はないのだ。


「……リオン?」


 意気消沈していた父親は、一番最後に、一番大切なことに気付いた。


 反射的に子供の名を口にした後、返事がないことで慌てて周囲を見渡した。


「リオン! どこだ、返事をしろ!」


 いくら叫び、いくら探しても、息子は見つからなかった。


 雪崩という突然の危機に、父は自身を守ることに精一杯だった。もちろん、親ならば自らの命よりも子を第一に考えるべきかも知れない。この父もそうした一般的な愛情や道徳は持ち合わせている。いざという時には、自分の身を投げ打ってでも我が子を助けようと考えていた。


 しかし、一方で、無駄死には意味がない事もわかっている。


 雪崩ごときで息子を心配する必要はない。


 非情ではなく、それはただの合理的な考えである。


「ああ、なんてことだ」


 父は青ざめる。もちろん、愛する我が子の生死を心配したからではない。


 懸念しているのは、離ればなれになった事についてだ。


 子供の行動は予測不能――。


 一人で放って置くと、何をしでかすやら――。


「最悪、小国のひとつぐらい滅ぶからなぁ」


 冗談にもならない冗談を口にして、父は一人身震いした。


 着る物もなく、食べる物もなく、文字通りの裸一貫の状態で放り出された我が子に対し、やはり身の安全は一切心配していなかった。あれだけの雪崩に巻き込まれたならば、『普通』の人間は生き残れない。だが、あの子に関しては『普通』に物事を考える事が無意味だと知っている。


 何よりも愛しい我が子――。


 ただし、普通ではない。


 だから、絶対に死ぬわけがない。


 シンプルに――。


 ただ、シンプルに――。


 うちの子は強い。


 強くて、強くて、それはもう神さまだって手に負えないぐらい。


 たとえこの星が滅んでも、我が子は不滅と父は知っている。




 ◇ ◇ ◇




 この地を統べし、千年を生きる伝説の竜は飽いていた。


 戦うことに飽き、喰らうことに飽き、そもそも生きることに飽き飽きしていた。


 霊峰の頂にほど近い場所で、翼を折り畳んだまま彫像のように待ち続けて何百年経っただろうか。この蒼き竜は守るものを失った守護者である。本来命を賭して守るべきはずの古代の都は、竜の足元、途方もなく厚い氷の奥底に眠り付いていた。


 千年という長い時間は、本来、竜族にすら老いという死をもたらす。


 しかし、蒼き竜は不老の存在だった。幼竜の頃にこの地で結んだ契約により、永遠の寿命を獲得したからだ。生物の枠組みを超えた事で、己を神のごとき存在と自負した頃もある。若かった。千年後にはその契約をひたすら呪い続ける事になるなんて夢にも思わなかった。


 すべて、古き時代の話である。


 世界一の繁栄を誇ったこの地には先駆者たらんとする人々が集い、古代文明は遂に禁じられた領域にも届かんばかりに発展した。蒼き竜は神殿に祀られ、この地の信仰の対象とされる一方で、最大の軍事力として近隣諸国を脅かした。人間同士の争っている所に飛び込めば、たった一息でとてつもない戦果をあげたものだ。


 だが、絶頂の時代の終わりはあっけなく訪れた。


 当時の国々はあまねく滅び、この地から人々は消え去った。


 降りやまない雪に過去は埋もれ、凍りついた歴史が今に伝わることはない。


 人の時代が移り変わっていく中でも、しばらくは蒼き竜の存在は伝説として語り継がれたようだ。冒険のため、宝探しのため、力試しのため――様々な理由でやって来る勇者たちを、蒼き竜はいつも己の存在価値を確かめるように屠ってやった。


 だが、そうした戦いの記憶すら古びている。


 蒼き竜の伝説も、歴史の影に消え去ってしまった。


 最後にこの地に人が訪れたのは、三百年前だったか、四百年前だったか。


 少なくとも、この百年間は人間どころか小動物の影すら見ていない。


 千年、生きた。


 心底、飽いた。


 ここは何もないという地獄である。


 永遠の孤独の中で、己が何者であるかも見失っていくようだ。


 積もり積もった雪の層からわずかに突き出した岩肌――。いや、ただの岩肌にも見えるそれは、かつて荘厳なる神殿であったものの尖塔である。竜の止まり木のようになっているその場所を掘り進めば、雪と氷の奥底に古き都が見つかるはずだ。だが、もはや都の名前すら忘れ去られた時代である。こんな過酷な土地に偶然やって来る者がいるとは思えない。


 蒼き竜は思考を放棄していた。


 何も考えない。何も、考えたくない。


 しかし、歓喜の瞬間は予兆もなく訪れた。


 蒼き竜は思わず身じろぐ。


 あれは――?


 雪原に、人が――。


 たった一人、猛吹雪の中をやって来る何者かがいた。


 蒼き竜はギョロリと瞳を見開いた。まるで恋人を出迎える若人のように、身体の奥がカッと熱くなった。あらゆる金属よりも頑丈な竜鱗の下で血が煮えている。喜びだ。恥ずかしくも、これを認めなければいけない。錆びついていた感情というものが蘇る。両翼を広げると、世界中に轟かさんばかりに大きな咆哮をあげた。


 よくぞ――。


 よくぞ、来た――。


 さあ、戦おう。


 滅び、朽ちて、何もかも忘れ去られたとしても――。


 蒼き竜は、この地の守り神として、古に結んだ契約を守り続けている。


 だから、戦わなければいけない。それだけが竜の最後に残った使命なのだから。


 だが、相手の姿がしっかり見える距離になると、竜の威勢は行き場を失ってしまった。


「……お?」


 裸の子供が、竜を見上げてマヌケな声を漏らす。


 雪原をてくてく歩いて竜の足元までやって来たのは、なんとも幼い子供だった。


 花が萎れるように、蒼き竜は堂々と広げてしまった翼を畳んだ。


 どうして、こんな所に子供が一人だけでいるのか。そんな当然の思いが頭をかすめなかった訳ではない。しかし、それ以上に失望が大きかったため、ささいな疑問は頭の片隅に追いやられてしまった。


 こんなものとは戦えない。


 竜が待ち望むのは勇者である。よちよち歩きの子供ではない。


 長い首をがくりと垂らして、蒼き竜はため息を子供に吐き付けた。ぽかんと見上げていた子供は、ため息――ただし、竜の吐く息であるから猛烈だ。積もった雪が竜巻でも起こったように舞い上がる。大人でも吹き飛ばされそうな勢いだが、子供は平然としたまま、むしろ面白そうに笑い声をあげた。


 蒼き竜はこの時点でも、まだ気付かない。


 何百年という孤独の日々が、人間に対する常識というものを欠落させていた。竜ならば気にならない雪山の過酷さは、人間には致命的なレベルである。子供が一人で歩き回るなんて絶対に不可能なのだ。さらに云えば、この子は裸である。


 色々と、おかしい。


 もちろん、この子は雪崩のせいで父とはぐれ、一人勝手に歩き回った結果としてこの場にたどり着いていた。本人に自覚はないけれど、ただの迷子である。そして、己が迷子である事も自覚できない程に幼い。正真正銘、ただの子供――少なくとも、その精神に関しては。




 >> システム・ダウン




 最初の違和感は、それだった。


 竜の視点からはあまりに小さな文字であったため、しばらく見過ごされていた。よくよく見ると、子供の周囲には稲妻のようにバチバチとしたノイズが走っている。


 何か、おかしい。


 ようやく、蒼き竜は胸騒ぎのようなものを覚えた。


 しかし、遅かった。子供が無遠慮に竜の足元まで近づいて来る。間近に迫った事で、竜の眼にも小さなその【表示】がはっきりと読み取れるようになった。子供の周囲にノイズと共に浮かび上がるのは、もちろん、【システム】の一部には違いないけれど――。




 >> システム・ダウン




 赤い警告文。それは、この世界では許されざる一文である。


 竜はハッとした。


 どうやら、これはただの子供ではないらしいと気づくのと――。


 子供が、無邪気に竜の前足に手を伸ばしたのと――。


 ちょうど同時だった。


 そして、天地はひっくり返る。


 否。


 ひっくり返ったのは、竜である。


 山脈全体を揺るがし、長き眠りからたたき起こすかのような一撃だった。轟音が山々にこだまする。千年を生きる竜ですら、初めて感じるぐらいの大きな衝撃である。最初は何が起こったのか、まったくわからず、ダメージを受けたことにも遅れて気づいた。


 果たして、何が起こったのか。


 竜の前足に子供の手が触れた瞬間、途方もなく恐ろしい力が鱗にヒビを入れた。そして、そのまま軽々と持ち上げられてしまった。そして、ぬいぐるみを振り回すような、敵意もなければ悪意もなく、ただ振り回すのを楽しむような一撃が繰り出される。


 ぐるりと世界を一周するような感覚の後、竜は地面に叩きつけられていた。


 ゆっくりと状況を整理すれば、何が起きたかは明白である。


 しかし、やはり思考が追い付かない。


 根本的に種族として、人間が【力】で竜に勝るなんて事はない。まして、子供である。


 おかしい。何かがおかしい。人間の子供に投げ飛ばされるなんて、絶対にありえないのだ。


 蒼き竜は混乱しながら体勢を立て直す。ダメージは大きく、全身に痛みが走った。


 竜が正面に向き直ると、子供はそこにいた。笑っている。


 幻覚ではない。


 本物である。


 竜は考えるよりも先に、爪を振り下ろしていた。


 人間ならば鎧ごと紙屑のように切り裂く一撃である。大昔の戦争に出陣した時は城門すら砕いてみせた。だが、竜の前足は中途半端に止まってしまう。爪は、子供の片手で受け止められていた。


 巨象を、蟻が止めるようなもの。


 理解は――。


 もはや、無意味。


 頭ではなく、心臓で感じ取っていた。


 それは、千年間、遂に味わうことのなかった感情である。


 すなわち、恐怖である。


 竜は腹の底から吠えた。初めての恐怖を振り払うために。


 勢いよく、受け止められてしまった方の足を引く。


 逆の足を使い、今度は薙ぎ払うような一撃をくり出した。


 子供は防御しなかった。


 クリティカルヒット。


 そのまま吹き飛んでいく。


 雪原の彼方に子供の小さな体躯が落ち、新雪を爆発させた。


 普通、間違いなく即死だ。


 竜はそれでも、次の手を間髪入れずに準備していた。予感があった。こんなものではない。この程度では終わらない。蒼き竜は無数の魔法陣を浮かび上がらせる。必殺の竜呪文である。それぞれの魔法陣から放たれる雷撃が、子供が倒れたはずの場所をさらに爆散させていく。


 一個師団すら壊滅させるような激しい攻撃。


 事実、山の一部が削り取られ、地形が変わってしまった。


 しかし、それでも――。


 煙幕のように巻き上がった雪の中を小さな影が走り来る。


 竜は吠えた。絶叫した。多大なる恐怖と、恐怖を圧倒的に上回る歓喜のために。子供が迫る。敵が迫る。竜がこの千年待ち望んだ、本物の敵という奴だ。己を打ち倒してくれるもの、己を殺してくれるもの。飽いた時間の中でいつも想像を巡らしていたけれど、真に迫るイメージには一度もたどり着かなかった。どのような勇者の姿を思い描いても、その刃が己の心臓に届くとは思えなかった。


 まさか、子供とは想像できまい。


 栄誉のためではなく――。

 信義のためではなく――。

 勇気のためではなく――。


 子供が向かって来る理由は、たぶん、楽しいからだ。


 これは遊びである。


 終始、ただの遊びに過ぎないのだ。


 竜は悟り、千年前の華やかな時代を束の間思い出した。友と呼べる人間がたくさんいた頃の笑みを浮かべる。恐怖はいつの間にか消えていた。歓喜の気持ちすら、凪の海のように静かなものに変わっている。心に残ったものは千年分の感謝である。名も知らぬ、一刻の遊び相手に残りの全てを尽くそう。


 蒼き竜は死力を尽くす。


 鋭利な爪で新雪を薙ぎ払い、四肢でがっちりと厚い氷の大地を掴んだ。両翼を最大限に展開し、後縁の鱗を剥離させていく。翼を縁取る筒のような穴は、排気の役目を担うもの。一方で、あばらが裂けるようにして生まれた筋からは吸気を開始する。


 六つある心臓の内、三つを焼き尽くした。


 沸騰した血は全身にダメージを与えながら駆け巡る。身体の内側で爆ぜる熱に魔法の力が溶け合う。蒼き竜の光沢ある鱗はギラギラと輝きを増し、耐えきれなくなった幾つかが爆散していく。黄金色の雷が辺りに自然派生するようになれば、遂に、準備は整った。


 あぎとを開けば、口腔内から三重の魔法陣が広がる。


 一の陣が照準を合わせ、二の陣が収束させて、三の陣が臨界へと導く。




 ――極大竜呪文ブレス




 子供が跳んだ。


 まさに、蒼き竜の目の前に迫った瞬間に放たれた一筋の閃光。子供の小さな体躯をあっさり呑み込み、そのまま一直線に伸びた光は山々の幾つかを貫いた。雪と氷が蒸発し、奥底で眠っていた大地すら跡形もなく消え去る。果てには空を覆う暗雲すら吹き飛ばした恐るべきその光は、霊峰の噴火と見間違われ、別の大陸からも観測されるほどに強大なものだった。


 竜は見る。


 己の持てる力の全てを尽くした一撃、その光の中を飛び込んでくる小さな影。


 笑っている。


 ああ、見事なり。極大竜呪文ブレスの反動によって動くことはできないが、人間ならばこんな時、喝采を送るのだろうか。子供はまっすぐ跳んできた勢いに乗せて、竜の額に小さな手でパンチを打った。


 蒼き竜は満足する。千年分の力を尽くした一撃よりも、子供が笑顔でポンと叩いた一撃の方が強かったとして、それは恥ではない。ふざけているようで、誰もふざけていない。竜は全力を尽くし、子供は思いっきり遊んだ。笑って終われる、むしろ最高の結末だろうと――。


 竜は倒れたまま、そんな風に考えた。


 たった一撃で全身の骨が砕け、心臓も連鎖的に爆ぜた。


 あらぬ方向に曲がった首、バラバラとこぼれ落ちた無数の鱗。


 叩き付けられるように倒れた後は、ぐったりしてもう起き上がれない。


 子供は首を傾げながら、そんな竜を見つめている。


 竜は息絶える寸前に、なんとか口を開こうとしていた。


 不思議そうに見下ろしている子供に対し、古き都の守り神としての最後の使命を果たそうとするものの、千年も無駄に引き延ばされてきた命は、たった数秒だけは長引いてくれず、少しの心残りと大きな安らぎを胸に抱いて竜は逝ってしまう。


 この世界のルールに従い、モンスターの死体は後に残らない。


 蒼き竜の巨躯はやわらかな光に包まれると、細かな粒のように分解されていき、すぐさま雪山の風に吹かれて舞い上がる。降り止まない大粒の雪と千年の時を生きたものの小さな光。戦闘が終了して間もなく、蒼き竜の亡骸は跡形もなく消え去っていた。




 ◇ ◇ ◇




「おーい、リオン。ようやく見つけたぞ」


 蒼き竜が消え去ってからしばらくの後、ようやく迷子の我が子を見つけ出した父親が雪山を駆け上って来た。父親はもちろん、竜が投げ飛ばされた時の衝撃音や極大竜呪文ブレスの閃光に気付いていた。この雪山で何が起こっているのか、彼は防寒具の下にたっぷり冷や汗をかいていたけれど、息子の周囲にひとまず危険なものが見当たらないことに胸を撫でおろす。


「リオン、それはなんだ?」


 裸の子供は、光輝く腕輪を握りしめていた。


 蒼く、竜の鱗のように光沢がある。また、竜の輪郭が象られていた。


 父からの問いかけに、子供は答えない。ここで何があったかを説明できる程に、まだ会話が達者ではないからだ。子供は口を開く代わり、腕輪をぎゅっと胸に抱いた。まるで自分一人で見つけた宝物を奪われまいとするかのように。


「……拾ったのか? まあ、好きにしろ」


 その腕輪は、道端に落ちているようなガラクタではない。


 それは、蒼き竜が倒された事で生まれたドロップアイテムである。


 父親はもちろん、事情を知らない。だから、その価値に気付く事もない。


「そうだ、リオン。念のために云っておくが、未鑑定のアイテムを装備するのは……」


 アイテムは鑑定する事で、ステータスや効果がはっきりとわかる。


 逆に云えば、未鑑定の状態では何もわからない。


 時には、俗に【呪い】と呼ばれるマイナスの効果を持つ物もあるため、入手したばかりのアイテムを安易に身に着けるべきではないのだ。これは世間一般の常識である。


 とはいえ、子供に常識は通じない。


「……って、リオン!」


 父親が云ったそばから、子供は自分の手を腕輪に差し込んでいた。


 すると、途端に効果が発揮される。


 ピカーッと、腕輪から強い光が放たれた。


 そして、子供は倒れた。


「馬鹿野郎! そりゃそうだろうが!」


 怒声と悲鳴を同時に上げながら、父親は子供を抱き上げた。


 腕輪を外そうとするが、どれだけ力を入れてもビクともしない。


「嘘だろ。外れない! すると、こいつは……」


 子供は凍えていた。真っ青である。


 極寒の地で裸のまま平然としていたのが嘘だったかのような変わりようだ。父親は羽織っていたマントを脱ぐと、それで子供を包み込む。ポーションをいくつか取り出して子供の口に含ませながら、必死の足取りで斜面を下り始めた。


 そんな風に慌てていたから、最後まで気付くことはなかった。


 いつの間にか千年降り続く雪が止んでいる。


 山々の奥深い所まで根を張った氷も、うっすら溶け始めていた。


 だが、この瞬間はまだ気づく者はいない。蒼き竜がずっと居場所としていた岩肌――。いや、岩肌のように見える神殿の尖塔についても、親子は一度も振り返らず背を向けたまま山を降りていく。もしも、たった一度でも振り返ったならば、尖塔が徐々にその姿を地上に現し始めていることに気づいたかも知れない。


 残念ながら、全ては可能性の話であり、これは過去の話でもある。


「リオン、がんばれ。死ぬなよ!」


 子供の名は、リオン。


 リオンは幸いにして、無事に生き残る。


 この数日後、霊峰の麓の街でようやく目を覚ました時には、蒼き竜と出会い、とても楽しい遊びを経験したことなどすっかり忘れ去っていた。それよりも寒さで死にかけたというインパクトの方が子供心には強烈だったらしい。ただし、左腕にがっちりと噛みついたような蒼の腕輪はリオンの手元にちゃんと残っていた。


 記憶にはなくても、大事な宝物。


 蒼の腕輪を外すのは、これより十年以上も後の出来事になる。


 リオンはその時が来るまで、やはり忘れ去っていた。もしかすると、それは必然だったのかも知れない。ただの子供として生きていくためには、そうした記憶は邪魔でしかなかった。


 リオンは後々、そんな風にも考えるようになった。


 何にしろ、後々の物語である。全てはここから未来の話となる。


 現在、リオンは十七歳になっていた。


 自他共に認める、世界最強――。


 いや、そうではなく、世界最弱として――。


 リオンが初めての大都市で、ギルド所属の冒険者を目指す所から物語はスタートする。

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