9、ヒーローイエローは、二度どっきりする
どんな仕事の人がどれくらいお金持ちかという知識が薄いので、違和感があってもスルーしていただければありがたいです。
小さい頃よく遊びに来ていた記憶と違わぬ黒森家。比較的新しめのマンションの一〇一号室前に連れて来られて私はお兄ちゃんに「ほらね」という顔をする。しかしお兄ちゃんは「ほらな」と言って自分が正しかったかのように胸をはっている。
「やっぱりマンションだったでしょ、お兄ちゃん。一階の一番端の部屋に来れば僕がいるよって渉くんが教えてくれたの、私覚えてるんだから」
「キエちゃんに名前を呼ばれるのは久しぶりだね」
「あ。つい。ここに来てた時はそう呼んでたから」
顔は真青なのに耳は赤くした黒森先輩の背中をお兄ちゃんが叩く。
「何言ってんだ希依。ここは」
「あー! あー! ほら! 寒いだろ二人とも。早く入って」
兄妹で背中を押されて玄関を上がる時、あれ? と不思議に思う。玄関の靴は全て片付けられている。おばさんの話ではおじさんは家で部下の人と仕事をしているはずだ。
掃除のいきとどいたリビングに通され、ブドウの香りがするお茶を出される。すごい。こんなものうちじゃ絶対に出ない。しかもペットボトルじゃなくてちゃんとポットから注がれた。やっぱりお家はマンションだったけど、生活の優雅さはうちと雲泥の差かもしれない。息子たちの出来も違うし。私も残念ながら上品なお嬢さんではないし。
「おじさんは会社に行っちゃったんですか? 靴がなかったみたいですけど」
「うん? あー、仕事してるよ、今頃。お茶菓子は何が良い? 母さんが用意してってくれたみたいだ。ケーキと羊羹があるよ。朱里もキエちゃんも甘いの好きだろ? どっちにしようか」
「おじさんは他の部屋使ってんだろ」
いや靴がなかったっつってるでしょ。他の部屋からも人の気配はしない。お邪魔しますと声をかけても応答は黒森先輩の声だけだった。
「何言ってんのお兄ちゃん」
「さっきから変なこと言ってんのはお前だろ」
「ケーキにしようか! そうしよう! 足が速いから。あ、希依ちゃんは和菓子の方が好きだっけ? じゃあ両方開けよう!」
「声でけえ。うるさいぞ渉」
お兄ちゃんが呆れた様子で先輩に注意する。いつもとまるで逆だ。
しょぼんとする先輩が可哀想で、お兄ちゃんをキッと睨む。
「可哀想でしょ。黒森先輩はお兄ちゃんと違って繊細なんだから、言い方を考えてよ」
「はあ? そんな酷いこと言ってねえだろ」
「お兄ちゃんは顔も声も愛嬌ないんだから、優しく言い聞かせるように意識しないと駄目なの」
「お前俺に理不尽すぎるぞ。渉に甘すぎだ」
顔面をガシッと掴まれたのでこれはいかんと脱出を試みるもうまくいかない。いやわかるわかる。今のは冷静になると私が悪いよ理不尽だったよ。でもお兄ちゃんだって私とピンクちゃんの間に微妙な空気が漂うと不必要なほど私を責めるじゃないよ。遺伝だよ、お相子だよ、恋愛がからんで理不尽になるのはお互い様だよ、兄妹ってことだよ。
「だいたいお前最近ますます可愛くねえんだよ。可愛げがない。なあ?」
「何を友達に同意を求めてるの」
残念でした。あんたの友達は私のこと可愛いと思ってます。多分じゃない。確実に。よく飽きもせずバイト中に私が引くほど高い評価を叫んでます。あんまりにも好評かだから目腐ってんじゃないかななんて心配するけど。
「そんなことないよ。キエちゃんみたいな妹がいて、昔から朱里が羨ましかった」
そら見ろ。
うはははは、とお兄ちゃんを指さして笑うと向こうも対抗してきた。
「よく聞け馬鹿。羨ましかった、だぞ。過去形だぞ。今のお前は羨ましがられる妹じゃねえんだよ」
違うよ多分。そういうこっちゃないよ、多分。兄妹だと恋愛できないからとかそんな意味合いだもん、多分。
「俺より渉に懐いてんのは昔からだとしても、ここ最近は今まで以上に俺を悪者にして渉がわに回るだろ」
悪者にしてんじゃないんだよ。事実お前の気が利かない、デリカシーがない割合が高すぎるんだよ。
悪者って言ったら実際に悪事を実行している黒森先輩の方だし。
「はい、栗のところ」
兄妹そろって栗羊羹を口につっこまれて黙った。うちで時々買うスーパーの安い味じゃない。あの安っぽいのも好きだけどこの高級感は出会えたことに感謝しなければいかん美味しさ。
お兄ちゃんを見ると間抜け面で幸せそうに口を動かしている。やばい、私も同じ顔してる。
「こういうこと、小さい頃はよくしてたね」
苦笑して言う黒森先輩に間抜け面をさらした兄妹で頷く。
出会ったばかりの頃は兄妹喧嘩が始まるとオロオロしていた先輩は、そのうちうちのお母さんがするのをマネして適当なお菓子を口につっこんで黙らせるという強硬手段をとるようになった。
苦い思い出である。みっともないもの。
この年で繰り返してしまうとは。
「さ、何しようか。うちはキエちゃんが遊んで面白いものはないし……」
「お兄ちゃんと二人の時は何するんですか?」
「ほとんどゲームかな」
受験生だからって勉強漬けになれとは言わないけど、部活やバイトのない日はかなり頻繁に遊んでいるのにほとんどゲームって。受験生だろ。バイト先に逆らえない受験生なんだからバイトのない日はもうちょっと勉強しろ。二人とも。
だいたい、私とデートの約束の日は尽く戦闘員が出動するのにお兄ちゃんとゲームする日は悪の組織もヒーローも見事に休暇が重なるのが納得いかない。まだ勉強してると言われた方が自分を納得させられる。
「キエちゃんはあんまりゲーム好きじゃないよね」
「そうだな。そいつ機械オンチだから」
そんなことない。ゲームは嫌いだけど、スマホは使い熟してる。必要最低限の機能は。
「いいですよ、二人でゲームしてて。私は見てるだけでも楽しいですから」
「そんなわけにいかないよ、キエちゃんも朱里もお客さんなのに」
「じゃあ希依ちゃんにはこっちでおじさんの手品を見せてあげよう」
おっと、と振り向くと黒森先輩のお父さんがトランプを持って後ろに立っていた。いつの間に帰って来たのか、音もしなかったけど。
清潔感のあるシンプルな私服のおじさんは息子そっくりの微笑を浮かべている。
黒森先輩があからさまに嫌そうな顔をしている。
「こんにちは、おじさん。お邪魔してます」
「こんにちは、おじさん。お仕事お疲れ様です」
お兄ちゃんに続いて挨拶するとおじさんはうんうん、と頷く。
「二人とも相変わらずお行儀がいいなあ。朱里くんは時々会うけど、希依ちゃんは久しぶりだね。ゆっくりして行ってね。二人とも夕飯は何でも好きな物を選ぶんだよ。ほら、希依ちゃんはこっちでおじさんと遊ぼう」
「こっちにちょっかい出すなって母さんに釘刺されただろ、おじさん」
「なんだ、うちの子は行儀が悪いな。親に向かっておじさんはないだろう」
いやいや、うちよりもお宅のお子さんの方がはるかにお行儀いいですから。しかし親にこんな文句も言えるのにバイトの要請は断れないのか。
「せっかく手品を練習しても妻も息子も朱里くんもすぐ見破ってしまうんだよ」
「妹は鈍いんで、普通に騙されますよ」
何でいちいち厭味ったらしく言うかな。そりゃマジックの種を見破るなんて高度なこと苦手だけど。
「でも、おじさん、お仕事はもう終わったんですか? お家でお話をするんじゃ? その……」
叔父さんの斜め後ろにスーツに眼鏡、品のある二十代後半から三十代前半ほどに見える男の人が見える。私にしか見えてないのか?
目が合うと男の人はにっこりといかにもな営業スマイルでお辞儀をした。
「本当だよ父さん。まだ帰ってないってことは飛井さんとまだ仕事の話が終わってないんだろ。すみません、飛井さん」
「そんなの二人が帰ってからすればいいんだよ、なあ、飛井くん」
「はい、わたしはいつでも。お気遣いありがとうございます、渉さん」
あら。何だか声に聞き覚えがある。でもそんなに頻繁に聞く声ではないような。身近な人にはいない低く響く声。芸能人に似てるのかもしれない。そういえば顔もどことなく見覚えがあるような。
「いやお気遣いだけじゃないんですよ。俺も父さんには早く仕事に戻ってほしいんです。俺たちは俺たちで遊びたいんです。頼むから」
「まあまあ、渉さん、そうおっしゃらず。社長も渉さんのお友達とお付き合いされているお嬢さんがいらっしゃるのを楽しみにしていたんですから」
……社長。
「社長って、どこのっすか」
お兄ちゃんがきょとんとした顔で訊ねる。そうだよね。何で黒森先輩のお父さんとその部下の人の社長さんが私たちに会いたいんだってなるわ。
「い、いや、それは、ほら、今はいいよ、ね、ほら」
黒森先輩が目に見えて狼狽えている。
飛井さんと呼ばれていた男性もきょとんとして私たちを見ている。「はい?」と。
「勿論、黒森社長のことですが……」
今度は私とお兄ちゃんが「はい?」と。
社長って、悪の組織の? 悪の組織の役職名は一般企業と変わらないの?
飛井さんが私たちにそれぞれ名刺をくれた。役職は秘書。所属している企業の名前は有名な外食チェーン。
頭が真っ白になる。
じゃあ何、社長って、本当のお金持ちってことで。いやでも、マンション住まいだし。ていうか悪の組織だし。意味が分からない。
お兄ちゃんも目を丸くして名刺を凝視しているけれど私ほど動揺していない。
「まあこれだけでかい家に住んでるなら、そうなるか」
「え? え? は? だって、マンションでしょ?」
「いえ、この建物全体が社長のお宅です」
「そっ」
そんなデタラメあってたまるか!
「創業者は社長のお父上。現在は会長職につかれています」
業界を代表する誰もが知る外食チェーンの創業者が? そんな馬鹿な。そんな馬鹿な! じゃあ何か、一軒家ってそういうことか。
「なん、なん、なんでマンションみたいな作りなんですか?」
部屋一つ一つに番号がふってあるし。ていうかじゃあ何? パパは別の部屋で仕事してるって、部屋ってそういうこと? 玄関出て別の部屋ってことだったの?
「妻は大きい家があまり好きではなくてね。渉も気づいたら僕より妻に感覚が寄っていた物だから、しかし来客を大勢泊めるなんてこともあるからね。こうすれば全員に都合が良い」
つまり庶民的な奥さんと息子さんの希望に沿ったマンション風の建物にして生活は基本的に一〇一号室、ということらしい。それにしたって、大きな会社の社長だろうがこんな馬鹿みたいにデカい建物立てられるもの?
あとでこっそり検索をかけたら、黒森社長は一人息子、先輩のお祖父さんは自分で富を築いた人で、お祖母さんはやんごとない一族の方らしい。華麗なる一族ならこれくらいの家普通なのかしら。お父さんも先輩も一人っ子なら一人しかいない息子や孫に甘々でもおかしくないし。いやそれにしたってさ。
「つまり、社長令息ってことですか……?」
汗びっしょりの黒森先輩は真青な顔で目を逸らして頷く。
なんだそれは。何故今更いらん設定つけてきたんだ。そんなもんついてたらあんたの競争率が上がってしまうじゃないのよ。そりゃ私にとってはずっと王子様だったけども! けども、顔を客観的に評価されるなら私とそんなに変わらないじゃない。いや私にとっては宇宙一ハンサムだけど! けども、ちょっと頼りないかなあ、とか、ちょっと鈍くさいかなあ、と女子に言われるタイプじゃない。決して高嶺の花ではなかったじゃない。
どうするんだ、今更そんなモテる要素を取り入れて! どうすんだ、モテたら! お金を持っているなんて一部女性にはとてつもなくポイントが高いのに。
眩暈がする。
「なんだなんだ希依ちゃん、そんな今更」
今更な真実をつき付けてきたおじさんが、あっはっはっと笑っている。
「キエちゃんには言ってなかったんだよ、父さんの仕事。うちのこともマンションだと思ってたし、……俺も、キエちゃんが勘違いしてるのをわかってて黙ってた」
わかってたなら早く誤解を解け……! 恥をかいたじゃないか。しかもこれから競争率が上がるかもしれないダメージったらない。金持ちつながりでやんごとない方々に言い寄られたりしてないでしょうね。こっちに勝ち目はないぞ。お金もなけりゃ美貌もないんだから。
「ごめんねキエちゃん。騙すつもりはなかったんだ。将来就職や生活で親に頼るつもりはないよ。俺は母さんの基準に沿って生きてきたから我が儘をしてきたつもりも過剰にお金をかけられたつもりもない。でも実際無自覚に親の恩恵に預かっているところはあるだろうし、甘ったれた奴だと思われたくなくてどんどん言いづらくなって」
いや、甘ったれたとは思ってないです。苦労性なのは知ってます。ただあなたに女性票が集まるのが納得いかないといいますか。「私の彼、女の子にモテモテなのよ!」って自慢できるほど器が大きくないんです。あんまり目立たないでえ、あんまり他の子にかっこいいとこ見せないでえ、とか心の狭いことを思う方なので。
お金持ちだって勤勉な人もいるし庶民だって怠け者もいるのはわかってる。どんな家でも私から嫌いになったりはしない。
つっこみたいのは将来とか考えてるんだ。世界征服企んでるのに。ってとこくらいだ。
「それにキエちゃん、経済状況が全く違うような家の人と付き合うのは疲れそうだって言ってたよね? それで余計言い出せなくなって」
「え? 言った? いつ言いました?」
「朱里の家でテレビを見てた時」
バラエティ番組にお金持ちのタレントが出てた時って。んなもんいちいち覚えてないわ。
「そんなの関係ないです。ちょっとは驚きましたけど」
本当はめちゃくちゃビビってますけど。
「黒森先輩は黒森先輩じゃないですか。お家がどうであっても私の気持ちは変わりませんよ」
お家の事情が衝撃なのは今回が二回目ですし。悪の組織が家業です、でまず一回。その時点で変わってないのだから金持ちですも受け入れようと思えば容易い。でも三回目のドッキリはなしでお願いします。これっきりで。
「キエちゃ」
腕を広げたところでいったん止まった先輩はゆっくりまた腕を下ろす。そうですね。付き合ってないのにハグとかするとお父さんが茶化してくること間違いなしですね。息子の恋愛にズバズバ口出してきますね。
「知らなかったということは、金目当てではなかった……」
飛井さんが安心したような溜息をつく。結構失礼なこと言ったぞ、この秘書。
目が合うと飛井さんは申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ありません。わたしを拾ってくださった社長の大事なご子息が良縁に恵まれたと知って安心したのです。渉さんの立場上、あまり感心しないお嬢さんも寄ってくることがありますので。失礼をお許しください」
「いえ……」
寄ってくるの? 寄って来てたの!? こんなに付き合いが長いのに、知らない所で女の子に囲まれていたりしたんですか。こんなこと訊きだそうとするのははしたないのだろうか。このモヤモヤはいつまで続くんだろう。付き合えたとしても続きそうだ。
「飛井さん、俺と彼女はまだ付き合ってませんから」
「そうでしたか。それは重ね重ね失礼を」
自分で「まだ」と言っているミスに気付いて。そのうちそうなりますと言っているのと同じだ。
肩の荷が下りたのか緊張の解けた先輩の横顔を見る。
家はお金持ち。それなら悪の組織のお給料はおじさんの本業から出されていると考えるのが自然だ。ということは、悪の組織はお金持ちの道楽?
大義名分もないなら、悪の組織の親玉すなわちおじさんの気まぐれで組織は自然消滅するかもしれない。おじさんが飽きたら。普通に普通の交際ができる?
……いくらなんでも、そううまくはいかないか。