37時限目 父の言葉
前半部はこれにて終了です。
珈琲のように黒い渦の中に溶けていくような感覚だった。
細胞が、砂糖のように消え去っていく。
頭も、足も、手も、胴も、そして思いも――。
ああ、死ぬってこういうことなのかもしれない。
ぼんやりとしているのに、妙な確信があった。
視界が濃く染まっていく。
涸れ井戸の中を永久に下へと落ちていってるようだ。
つと光が見えた。
小さな――しかし、優しい。
……っ。
声が聞こえる。
聞き覚えのあった。
綺麗な声。
ああ……。
ぼくは手を伸ばす。
黒闇に溶けて、もうなくなってしまったけど、それでも感覚はまだ残っていた。
必死に伸ばす。
胴を、手を、足を、首を。
そして思いを込めて、ぼくは叫んだ。
「詩子さん……!!」
ぼくは起き上がった。
飛び込んできたのは、割れんばかりの歓声だった。
目に見えたのは、今にも泣きそうな顔の詩子さん。
「うた…………こ……さ、ん」
何故か、上手く言葉に出来ない。
するとエレエレと水を吐き出した。
しょっぱ!
海水だ。
「帝斗くん!!」
突然口から水を吐き出し始めたにも関わらず、詩子さんはぼくの首に抱きつく。
そのまま浜辺に押し倒した。
浜辺……?
空が見えた。
日が陰りはじめている。
西の空はすでに赤みを帯びていた。
そうだ。
ぼくは姫崎家所有の島に……。
記憶が洪水のように押し寄せてくる。
確か真具さんと詩子さんと、遠泳に出て、詩子さんが溺れて……。
はっ……。
「詩子さん、大丈夫!?」
詩子さんと顔を付き合わせる。
その時になってぼくはようやく気づいた。
彼女は泣いていた。
目の下が真っ赤になっている。
「良かった。本当に良かった」
何度も涙を拭う。
けれど、後から後から宝石のように涙がこぼれ出てくる。
とても悲しいのに、彼女が泣いているのを見ると、溜まらず愛おしくなってくる。
そうか。ぼくはまた彼女を心配させたのかもしれない。
「ごめん。心配かけたようだね」
そっと詩子さんの頬を撫でる。
ぼくの体温に甘えるように、ぼくの手をさすった。
「ううん。帝斗くんが無事だっただけでわたしは――」
「お兄ちゃん!!」
ぼくと詩子さんの間に割って入ったのは、妹の理采だった。
詩子さんに負けず劣らず、目の周りを腫らしている。
どうやら理采にも心配をかけたらしい。
半乾きの髪を撫でてやる。
「もう心配したんだから。お兄ちゃん、いなくなったら、理采……誰に御飯を作ればいいの?」
「ごめんな、理采。お兄ちゃん、もう大丈夫だから」
「理采ちゃん、わたしからもごめんなさい」
「そんな! 詩子さんは悪くないですよ」
「しいていうなら、私だな」
頭を下げたのは、真具さんだった。
後ろには医者らしき白衣の男性が立っている。
「すまなかったな、帝斗くん。私が遠泳なんかに誘ったばっかりに」
「頭を上げてください。あれは予期できなかった事故ですよ」
「娘まで助けてくれた。礼をいう」
真具さんは頭を上げようとしない。
ぼくが恐縮していると、会長がポンと肩を叩いた。
「やるじゃないか、大久野くん。溺れそうになっている恋人を助けるなんて。ギャルゲーならかなり好感度ポイントを稼いだはずだよ」
なんかその例え、全然ありがたくないのでやめてくれますか。
あとね。一応、そのギャルゲーって全年齢対応ですよね。
今度は鈴江と目が合う。
すぐに視線を背けてしまったけど、瞼は腫れぼったくなっていた。
「ぶ、無事で良かった」
「うん。鈴江も心配してくれたんだね」
「あ、当たり前だ! 私たちは幼なじみだからな」
別にそこを強調しなくてもいいじゃないか。
まあ、嬉しいけどね。
「よくやった、大久野帝斗。円卓を代表して礼をいう」
会長の後ろから声をかけてくれたのは、賀部先輩だった。
この人が労ってくれるなんて珍しい。
ぼんやりと賀部先輩の大きな胸を見ていると、今度は頭をくしゃくしゃにされた。
「にゃはははは。やるじゃん、大久野ちん。惚れ直したにゃあ」
「鳥栖さん。ちょっとやめて!」
「にゃはは……。それにすっごく良いものを見ちゃったし」
「良いもの?」
「うーん? こういうイベントではまあ、ありがちじゃニャいかな?」
マウス チュー マウス……。
はうわ!!
ぼくの体温は急上昇した。
そのまま溶けてなくなりそうだ。
まさか……。
ブリキ人形ののようにぼくは首を曲げる。
詩子さんを見ると、こちらはこちらでとろんとろんになったトマトみたいになっていた。
詩子さん?
その反応はつまり……。
ぼくはぼんやりと周りを見た。
真具さん、会長、賀部先輩、鈴江、鳥栖さん、そして理采……。
もしや、この一癖も二癖もあるメンバーによる衆人環視の中で、つまり、その――。
はわわわわわわわわわわわ……。
しゅー、と湯気を上げ、ぼくの頭は完全にオーバーフローした。
「にゃはははは。ごちそうさま、大久野ちん。……ちなみに、最初はさ。鈴江ちんがやろうとしていたんだよ」
「バカバカ! なんでばらすのだ、ひとえ」
「ええ……。私は同性だから気兼ねなくできるとかいってた人だれだにゃン?」
「うううう、うるさい! それ以上、いうな!」
鈴江は腕を振り上げる。
鳥栖さんは「暴力反対!」といって、猫のようにかわした。
そのまま砂浜の方に出て、追いかけっこが始まる。
「にゃははははは……。捕まえてみな、鈴江ちん」
「上等だ! 剣道部魂を見せてやる!」
訳がわからない言葉を発して、2人は波打ち際を走る。
その姿は――。
「まるで付き合い立ての恋人同士みたいだな」
会長がいうと、皆はどっと笑う。
ぼくも、詩子さんも声を上げ、2人のデットヒートを見つめていた。
ぼくと詩子さんは島にある病院で診察を受けた。
特に問題なし、とのお墨付きをもらい、ひとまずホッとする。
治療費はすべて真具さんが受け持ってくれた。
娘を助けてくれた些細な礼だというのだけど、ぼくはこの島――飛行機に乗ってから、1円も使っていないんだけどなあ。
そもそもこの島の通貨すらわからないんだけど……。
病院から帰ると、みんなはホテルの中庭でバーベキューをしていた。
美味しそうな肉の臭いに、海水を飲んで気持ち悪かったはずのはお腹が、途端に大合唱を始める。
「やあやあ……。やってきたね、2人とも」
真具さん、自ら案内してくれる。
分厚く切ったお肉を串に打つ豪快なアメリカンスタイル。
お肉は日本から取り寄せた黒毛和牛だという。
それを大胆にバーベキューにするのだから、スケールが違う。
早速、会長や鳥栖さん、円卓メンバーはバーバキューを堪能していた。
ぼくたちの接近に気づくと、鈴江が取っておいてくれた肉を差し出す。
「ありがとう、鈴江」
「ふん。私からの些細な礼みたいなものだ」
「うん」
「あとな、帝斗」
「なに?」
「かっこよかったぞ」
「はあ?」
「2度は言わぬ」
鈴江は自ら肉を焼き始めた。
ぼくが呆気に取られている横で、詩子さんはクスクスと笑う。
「相変わらず、新氏さんは素直じゃないですね」
「??」
「そこが可愛いところなんですけど」
でも、鈴江って男だよ。
まあ……可愛いっちゃ可愛いけど……。
バーベキュー大会は滞りなく終わり、今度は真具さんの勧めに従ってまた浜辺に出る。
南国の海であれど、夜の海はどこも変わらない。
ガラスのような透明度の海も、真っ黒に染まり、波間に月明かりを反射させていた。
すると、ポンという音が突然響く。
一条の火の玉が上がると、夜空に大輪の花が咲いた。
花火だ。
しかも、結構本格的な。
1発あがる度に歓声が沸いた。
ぼくは詩子さんと肩を並べる恋人の横顔を見つめる。
花火の光が、白い顔を照らしていた。
少しホッとする。
すっかり元の詩子さんに戻っていた。
不意に手の甲同士が触れる。
何かの合図のようにぼくたちはお互いの指を絡めた。
ぼんやりと思う。
日本でもこうして彼女と花火を見たいと。
なら、夏祭りまで待たなければならない。
「詩子さん……」
「はい?」
「日本でも花火見たいね」
すると、詩子さんは目を細め、笑った。
「同じ事を思ってました」
「きっと行こう。夏祭り」
「ええ……。きっと」
ぼくたちは、もう1度強く、手を握るのだった。
花火も終わり、ぼくたちはホテルへと帰る。
ぼくは理采を背負っていた。
安らかな寝息を立て、眠っている。
色々あって疲れたらしい。
我が妹ながら、天使のような寝顔だ。
真具さんは何か詩子さんに用事を頼むと、先にホテルへと帰ってしまった。
今度は、ぼくたちの足を止めると、真具さんはおもむろに頭を下げる。
「みなさん、いつも詩子がお世話になり、ありがとうございます」
腰の低い人だ。
とても姫崎グループの総帥とは思えない。
逆にこっちが恐縮してしまう。
「今回、みなさんを招待したのは、日頃の感謝の気持ちです。ささやかではございますが、ご堪能いただけたでしょうか」
「ささやかななんてとんでもありません、お父様。とっても楽しい時間でした」
年長者代表というところだろうか。
賀部先輩が頭を下げる。ぼくたちもそれに倣った。
真具さんは顔を上げる。
そしていった。
「皆さんには本当に申し訳ないと思っている。ですが、それももう終わりになるでしょう」
「にゃは? どういうことですかニャ?」
鳥栖さんが首を傾げる。
ぼくにも何か引っかかる言い方だった。
終わりって……。
「言葉通りの意味です。近く皆さんの任務は解放されるでしょう。存分に学業に邁進していただきたい」
「お言葉ですが、話が見えないのですが……」
賀部先輩は怪訝な表情を浮かべた。
「姫崎詩子告白管理委員会? でしたか? それはもうすぐ解体される」
「そんな! 聞いてませんよ!?」
鈴江が素っ頓狂な声を上げる。
真具さんは一瞬、会長の方を見た。
目を細める。
咎めるような視線から、会長は顔をそらした。
「失礼。……なら、私から申し上げましょう」
姫崎詩子は、3学期終了後、転校する予定です。
……。
……え――?
瞬間、感覚が溶ける。
上下と前後がわからなくなった。
一緒だ。あの生死をさまよった時と同じく、自分の中で何かがさらさらと消えて行くのを感じた。
そのぼくを元に戻したのは、皮肉にも真具さんだった。
ぼくの肩に手を置いたのだ。
多くの苦楽を味わってきたであろう社長の手は、鉛のように重たかった。
「特に大久野くん。君には迷惑をかけたね」
もう……恋人のふりはしなくていいんだよ。
この世のものとは思えない残虐な言葉に、ぼくはそれ以上何も言えなかった。
明日も18時より順次公開していく予定です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




