27時限目 雨+両親がいない家+男物のブラウス
つまりは……。
「きゃっ!」
悲鳴が聞こえた。
放心していたぼくは我に返る。
玄関に引き返すと、詩子さんが座り込んでいた。
「詩子さん、大丈夫?」
「え? ええ……。すいません。わたし、雷が――」
カッとまた稲光が閃く。
数秒後、すぐ目の前でトラックをひっくり返したような盛大な音が鳴った。
どうやら雷が苦手らしい。
自分を抱きしめるように蹲る。
小さな肩は震えていた。
「大丈夫。まだ少し遠いし。ここに直撃は来ないよ」
そっと肩に手を置く。
詩子さんのぼくの手を握った。
やはり震えている。
顔を上げると、少し赤くなっていた。
再び雷鳴――。
反射的だったと思う。
詩子さんは、ぼくに抱きついた。
しっとりと濡れた身体が密着する。
よく見ると、中のブラウスが濡れて、薄く肌が見えていた。
傘を差していたとはいえ、本降りとなれば身体が濡れるのは必然だ。
現にぼくもブラウスが引っ付く嫌な感触を味わっていた。
「ご、ごめんなさい」
「し、仕方ないよ。雷だからね」
ちょうど今、詩子さんがぼくに馬乗りするような状態になっていた。
薄暗い闇の中でも、オニキスの瞳はつるりと光を放っている。
強い眼光とは裏腹に、ぼくの【姫騎士】は今にも泣きそうになっていた。
そんな彼女は可愛くて、つい顔が緩んでしまう。
このままギュッとしたら、詩子さんはどう反応するだろう。
そんな疑問とも欲望とも思える思考がぬぐえない。
家の中にはぼくたちだけだ。
付き合い始めて一月程度だけど、ほぼ毎日会っている。
楽しくない日は1日――いや、1時間もない。
普通のカップルなら――。
自分ですら理解出来ない気持ちが、雨雲のようにぼくを支配していく。
「へっち!」
そしてまたぼくは我に返った。
見ると、詩子さんは鼻を啜っている。
落雷は少し小康状態になったらしい。
代わりに、激しい雨音が聞こえはじめた。
「ごめん。すぐタオルもってくるよ」
ぼくはそっと詩子さんの肩を押す。
何事もなかったように装い、立ち上がった。
落ち着け。
落ち着け。
落ち着け。
何度も自分に言い聞かす。
いつも理采と食事を食べるダイニングテーブルで、ぼくは指をこねていた。
悶々とした気持ちをなんとか鎮めようとするが、なかなか抑えることができない。
詩子さんと2人っきりだからではない。
家に誰もいないからでもない。
容赦なく、ぼくの耳朶を掻き乱す、水を弾く音に心は千々に乱れていた。
それは廊下の奥。
右に曲がったところにある我が家の浴室から聞こえる。
そう――。
詩子さんはシャワーを浴びていた。
紛れもなく、ぼくの家でだ。
思いの外、詩子さんは濡れていた。
このままでは風邪を引くだろう。
強制はしなかった。あえて、ぼくは確認する意味でこういったんだ。
「お風呂、入る?」
こう質問して、卑怯者とそしりを受けるかもしれないけど、ぼくは詩子さんが断るとばかり思っていた。
お互い普通のカップルから比べれば奥手とはいえ、男の家でシャワーを使うということの重大性は認識していたはずだ。
けれど、彼女は形の良いを顎を引くようにして頷いた。
「うん」
そこから今にいたるまでが大変だった。
濡れた制服は詩子さんに乾燥機の使い方を教えてどうにかなったけど、さすがに乾くまでの間、裸でいてもらうわけにはいかない。
ぼくは何かないかと探す。
さすがに妹の服ではサイズが合わないし、母さんのはほとんど海外に持って行ってしまって、この家にはない。
結局、ぼくのワイシャツとズボンを着てもらうことにした。もちろん洗い立てだ。
しばらく待つと、シャワーが止まる。
浴室の戸を引く音が、ダイニングにまで聞こえた。
「帝斗くん」
詩子さんがぼくの名を呼ぶ。
慌ててダイニングを出ると、濡れそぼった髪の詩子さんが浴室から顔を覗かせていた。
ふおおおおおおお……。
思わず叫びそうになった。
詩子さんの風呂上がりの直後の姿。
妙に大人の色気を感じる。
玉のような肌も、さらに磨きがかかっていた。
「ドライヤー貸してもらってもいいかな」
「ど、どうぞ。おふひなように……」
あがりすぎて、舌が回らない。
一方、詩子さんは爽やかに「ありがとう」といって、浴室に引っ込んだ。
はあ……。
背中を丸め、大きく息をする。
心臓が潰れるのではないかというほど、拍動していた。
ぼく……。1時間後に生きていられるだろうか。
「シャワーいただきました」
そっと詩子さんはダイニングに入ってくる。
彼女の匂いが部屋に広がっていくような気がした。
ぼくは顔を上げる。
ぶっ――――!!
吹きだした。
ううううう、詩子さん……。なんて格好を?
ぼくは指さす。
詩子さんはまだ湿り気を帯びてる髪を気にしながら、自分の格好に目を落とした。
ぼくの目線を気にして、しなを作る。
「あ、あまりジロジロ見ないで下さい」
「ご、ごめん……」
でも、無理!
どうしても視線が行ってしまう。
詩子さんは、ぼくのワイシャツ1枚だけを着て、下には何も付けていなかったんだから。
「えっと……。ズボンは?」
「ごめんなさい。どうしてもウエストが合わなくて。……で、でも、帝斗くんのワイシャツ大きいし、下まで隠れるから問題ないかなって」
問題あるよ!
どっちかっていうと、なんか裸よりえっちぃよ。
「な、生乾きだったけど、下着は着てるから。しばらく……このままでもいいかな」
どんどん、詩子さんの声が小さくなっていく。
これじゃあ、ぼくが怒ってるみたいじゃないか。
「……は、破廉恥かな?」
駄目押す。
ワイシャツの袖で口元を隠しながら、詩子さんは確認した。
頬を赤くし、瞳は震えているように見える。
「う、詩子さん、それでいいなら」
ぼくとしては、全然……。
少し目のやり場にこまるけど。
でも、いいのかな。
なんかどんどん状況が悪化? いや、少なくとも良い方向にいってるとは思えないんだけど。
「帝斗くん、お願いがあります」
ぼくが作ったホットミルクを喉に流し込みながら、詩子さんはいった。
「帝斗くんの部屋を見てみたいです」
「いや、それは、その――」
やばい。
それだけは絶対にダメ。
今のぼくの部屋は、とてもじゃないけどお客様を迎え入れられる状態にはない。
むしろ詩子さんが見たら、百年の恋も冷めるような汚さなんだ。
それだけは絶対に阻止しないと。
「今は散らかっていて」
「わたしは気にしません。それに、帝斗くんがわたしの部屋に入って、わたしが帝斗くんの部屋に入らないのは、不公平だと思います」
なんか前にはこんなやりとりがなかったっけ。
どうしようかな、と視線をぼくの部屋がある2階に向ける。
「2階ですね」
詩子さんはニヤリと笑った。
脱兎のごとく、ダイニングを飛び出す。
ちょ! 詩子さん!
ぼくの制止も聞かず、階段を駆け上がる。
今日の詩子さん、なんかおかしくないか。
なんていうか。積極的というか。何か興奮状態にあるというか。
普段の彼女なら、絶対大人しく従う場面のはずだ。
だが、やはり今日の詩子さんは違う。
階段を上り、部屋を見つけると、思いっきりドアを開けた。
「ここですね」
瞬間、詩子さんは笑顔のまま固まった。
さあ、と血の気が引いていく。
何事もなかったかのように扉を閉めた。
「今のって……」
「ご、ごめん。妹の、なんだ」
「そ、そうですか」
完全にどん引きしていた。
そりゃあね。
誤って心霊写真のコンテストにでも送ろうものなら、そのまま優勝を勝ち取れそうなホラーな部屋だもんね。しかも当人が見たのだから、ショックは大きいだろう。
詩子さんの暴走は止まらない。
子供を探すなまはげのように周囲を伺うと、とうとうぼくの部屋のドアを引いた。
「うわっ……」
さすがに驚いていた。
でも、妹の時みたいにそっ閉じすることもなかった。
マジマジと見つめている。
なんだか自分の恥部を見られているような気分だ。
「ここが?」
「うん。ぼくの部屋……」
「汚いですね」
はっきり言わないで!
「でも、男の子らしいと思います」
それで終わり、と思っていた。
だが、あろうことか詩子さんは、ぼくの部屋に分け入っていく。
ぶっちゃけていうと、足の踏み場もなかった。
たこ足につながった乱雑な電源コード。
開いたままのゲームの箱。
積み本、積み読されたままの本や小説が堆く積み上げられ、学生の本分である教科書が、部屋の脇の方に追いやられていた。
腰を落ち着けるところといえば、ベッドの上ぐらいなものだ。
詩子さんは学習机に並べられたフィギュアを興味深そうに眺める。
やがて唯一のオアシスといえるベッドに腰掛けた。
ごろりと転がる。
「ぼくのベッド……。詩子さんのより硬いでしょ」
「よくわかりません。けど、帝斗くんの匂いがして、落ち着きます」
目を細め、詩子さんは大きく息を吸い込む。
本当に今日の彼女なんなんだろう。
ワイシャツ1枚の格好もあるんだろうけど、いつも以上に魅力が増しているというか。
妙に甘えてくるような。
なんか会長みたいだ。
「ところで、わたしのベッドの硬さをなんで帝斗くんが知ってるんですか?」
「え? それは……。そのぉ……」
「なるほど。わたしの知らない間に帝斗くんもこんなことをしたんですね」
ぼくの枕に飛びつく。
自分の匂いを擦りつけるかのように詩子さんはギュッと抱きしめた。
はわわわわわ……。
本当に今日の詩子さんはどうしたの????
「堪能しました」
な、なにが……?
「帝斗くんのを!」
ああ! もう可愛いなあ!
今度、詩子さんはキョロキョロと辺りを見渡す。
ベッドの下の隙間を見つけると、白い歯を見せて笑った。
まさか……。
「知ってますよ。男の子って、エッチな本をベッドの下に隠す修正があるんですよね」
「うわぁぁぁぁぁあああ!!」
そ、それだけはらめぇ!
詩子さんに向かって飛びつく。
エッチな本云々はともかく、そのままぼくは彼女を押し倒してしまった。
お互いの瞳に、真っ赤になったそれぞれの顔が映る。
下を見ると、ワイシャツがはだけ、白色の下着と、美しい詩子さんのお臍が見えていた。
「ご――」
ごめん、と慌てて離れようとした。
そのぼくの腕を詩子さんが捕まえる。
待って、と小さな声でいうと、おもむろにぼくの手を自分の胸に当てた。
柔らかな乳房の感触が、ぼくの手を通して伝わる。
そのままのめり込んでいきそうな誘惑よりも、驚きの方が勝った。
ドクドク……。ドクドク……。
はっきりと拍動が聞こえる。
彼女の鼓動。詩子さんの声ではない声。
そこにぼくの心音が重なる。
2つは共鳴するかのように、ぼくたちの間だけで、盛大に音をまき散らす。
ああ。そうだ。
やっと彼女の気持ちに辿り着いた。
詩子さんもまた緊張していた。
誰もいない恋人の家。
その中で砂のように崩れてしまいそうな自我を保つため、詩子さんは自分ではない自分を演じ続けたんだ。
お姉さんのように見えたのも、1番わかりやすい人格モデルだったからだろう。
そして、今まさにその自我は壊れた。
詩子さんは観念したかのように瞳をつぶる。
ぼくたちはキスした。
いつもより長い。
鼻先をくっつけ合うように互いを求め合う。
「詩子さん……」
声をかける。
電流が走ったかのように彼女はびくりと跳ね上がった。
やがて頷く。
ワイシャツのボタンに手をかけた。
「お兄ちゃん。帰ってるんでしょ? タオル持ってきて!」
ぼくたちははっと我に返る。
理采の声だ。
詩子さんと視線が合う。
同時に「はあ」と息を吐き出した。
お互いの様子を見て、何故か笑気がこみ上げてきて、ぼくたちはくつくつと笑う。
ああ、神様……。
あなたが犯した悪戯は……。
あまりにも罪深い。
詩子さんはいった。
「行って下さい」
「……うん」
ぼくはそれだけ行って部屋を出て行く。
幸い詩子さんの靴は下駄箱に隠してある。
理采が浴室に入ると、乾燥機に入れていた詩子さんの服を取り出した。
着替えてもらうと、理采がシャワーを使っている間に、身支度を調え玄関に出る。
「送らなくて大丈夫?」
「たぶん、迎えが来てると思うので」
詩子さんの予想通りだった。
ここらの住宅街では不似合いな高級車が止まる。
洗馬州さんが傘を差し、玄関先に立った。
「じゃあ、また明日」
「はい。また」
詩子さんは指を広げ、バイバイと返す。
そして車に乗って、雨中に消えて行った。
ぼくは詩子さんがいなくなった我が家を見渡す。
まるで今までのことが夢のようで、ひどく現実感がなかった。
妹は相変わらず空気を読めぬ。
ブクマ・評価・感想いつもありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。




