第2章の(1)
そろそろ帰ろうというカスピに従って、渓市は壺に両の中指の先を突っ込んだ。
シュッと体が引き上げられ、また、グニャグニャな世界に巻き込まれる。そして光の差す方に、犬かきのように泳ぐ。力が必要なわけではなかったが、全身どこからも抵抗を受けないので、なんとももどかしい。
光の点に辿り着き、手のひらを触れると、体が飛んで気付くと納屋に横たわっていた。
次にカスピが、鏡から飛び出てきた。そして同仁斎の時と同じく、渓市の上に落ちてしまった。
「あっ、ゴメーン!」
また重いなんて言われたらかなわないので、先手を打ってすぐに謝った。しかし腹ばいになった渓市は上の空で、そのままぐったり伸びていた。
気絶しているのかと思ったカスピだが、渓市がまばたきしているのを見て安心した。
それでも、あらぬ方向に視線を向けて、口をポカーンと開けている。
「ちょっと渓市、渓市ぃ、大丈夫?」
カスピは腹ばいに伸びている渓市の肩を揺すった。
「あ、あぁ」
返答こそした渓市だが、視線は中空をさ迷っていて、あきらかにおかしい。
「ちょっとちょっと、渓市ぃ!」
普段の憎たらしくなるくらいに冷静沈着な様子ではない渓市が心配になり、カスピは立て膝になって、力を込めてゆさゆさと揺すった。
――あぁ、おれは夢を見ていたんだろうか。それにしてはリアルすぎる。現実感たっぷりだった。畳の感触が頬や手に残っている。でもまさかなぁ。足利将軍だもんな、会ったと思う方がどうかしてる。
渓市は頭の中が定まらない。カスピに誘われて入った納屋に、今は帰ってきている。自分は一時間ほど眠り込んで夢を見ていたのだろうか。いや、あれは夢とはまったく違った。断じて夢ではない。いったい今、どうなってしまったのか。頭の中でさまざまなことが渦巻いていて、とても呼びかけになんか答えられる心理状態ではなかった。