第1章の(5)
「で、ワシの名を知っておるのじゃろ?」
「あ、はい。室町八代将軍の足利義政様です。いや、でございます」
「まぁまぁ、堅苦しい言い方をせんでもよい。さまざまな身分の者と対等に話ができるように、この場所を作ったのじゃ。それにだな、ワシはもう倅に将軍職を譲ってしまったから前将軍じゃ」
「そうか、ここ、東求堂同仁斎があるってことは、もう前将軍になっているってことだよな」
渓市は頭の中で年表を浮かべながら、部屋を見回した。足利義政が作った銀閣寺の中にある一室で、書院造りの最高傑作だ。さっきは旅館の一室かと思ったが、たしかにテレビもないし電灯もない。プラグを挿すところもないし、なによりプラスチック製品がまったくない。この建物は義政が将軍職を譲ったのちに造られたものだ。だからここがあるということは、義政公は前の将軍になっているということだった。
「おう、よく分かったな。さすがカス殿が言っていたように、歴史に精通しているようだ」
「へへぇ、もったいないお言葉」
渓市は頭を畳にこすり付けた。ついでにとなりのカスピの頭も押さえつけた。
「痛いってば。なんでわたしも頭下げないといけないのよ。渓市がほめられたんでしょ。それにわたしはいつもこの人にカスって言われてるのよ!」
「これこれ堅苦しくなるなと言っておるじゃろう。ワシは、単純にな、後世のことを知りたいだけなのじゃ。カス殿、オホン、どうも呼びづらくて省略させてもらってるが、カス殿と渓市とやらの住んでいる時代の歴史には、ワシはどのように書かれておるんじゃ。けっこう、なんというか、その、あまいというか、だらしない男とでも書かれておるじゃろ」
渓市は頭の中で資料をなぞってみた。『政治家としてはまったく無能だったが、文化の面では多大な貢献をした』。大まかにはそんなふうになっていた。しかしそんなことを面と向かって言えるわけがない。渓市はよく覚えていないと言って頭を掻いた。
「そうか。おそらく言いづらいことが書かれておるのじゃろう。まったくもって将軍失格じゃった、などと。まぁすぐにというのも気遣いがあるじゃろうから、いずれ教えてくれ」
「知ってんなら言えばいいのに。よっちゃんだって知りたがってるんだから」
カスピの言いように渓市は目を丸くした。天下の将軍にこれほどまでにくだけた態度は失礼極まりない。再び渓市は強く頭を押さえつけた。