第3章の(1)
翌日、渓市はカスピに手を取られて、鏡の置いてある納屋まで来た。
道中、まったくもって心定まらない時間だった。ときおり止まったり下がったり、渓市が抵抗したので、カスピの腕が振れた。その、汗ばんだ柔らかい感触を受ける度に、渓市は胸がギュッと締まった。もう、どこにでも着いていきたい気持ちになった。それでも我に返り、このままカスピのペースに乗せられて室町時代に行くのは避けなければと心にブレーキをかける。
それでも結局は納屋まで来てしまった。渓市は鏡の前に立つと、あらためて恐怖が全身に走った。
鏡に両の手のひらを付いて、それに吸い込まれ、時間を遡るという、考えられない世界。とてもとても、尋常なことではない。もっとも時を遡るのに、尋常なもなにもないのだが……。
とにかく、戻ってこられるという確固たる保障がない。
いったい戻ってこられなかったらどうなるのか。もちろん、家族とずっと会えなくなるということが、まず頭に浮かぶ。ホームシックで気が狂うことになることだろう。でも単純に、それだけではない。
困りごとは、さして深く考えないでも思いつく。まずなにより、病気だ。室町時代は今のような治療法もなければ薬もない。現代ではたいしたことがない病気でも、室町時代で罹れば生命の危険にすぐさま直結するし、また、ずっと苦しむことになってしまう。なにしろ歯痛や発熱ですら、抑える薬がないのだ。
そしてもうひとつ、人々を取り巻く社会の環境もたいへんだ。現代のように、人権などという概念がない。社会の波に流されるような生き方しかできない。なにかの被害にあっても警察が存在しないし、男であればすぐ戦に徴用されてしまうことだろう。
カスピに強く言えなかったので、ズルズルとここまで来てしまったが、もうここまで来たらしっかりと表明するしかない。
「さぁ、行くわよぉ。どっちが先行く?」
そんな渓市の気持ちなど気付く様子もなく、カスピがいつもの調子でさらりと言った。