第1章の(1)
「この鏡にね、こう手を付いてみて。ちがうちがう、そうじゃなくて、両の手のひらを」
アッと短い叫び声を残して、渓市が鏡に吸い込まれた。
カスピは、渓市が吸い込まれていくときに足につかまり、一緒に行こうとしていた。しかしあまりにも一瞬のことで、触れることすらできなかった。そうか、自分が吸い込まれるときもこんなに一瞬なのかと、カスピは腕組みしてウンウンと頷いた。
「大丈夫かなぁ。渓市とおんなじところに行くのかなぁ」
カスピは少し不安になった。人と連れ立って行くのは初めてだったし、事情をまったく教えていない渓市が別のところに出たとしたら、混乱してしまうに違いない。
それでも、この期に及んであれこれ考えたってしょうがない。すでに渓市は鏡に吸い込まれて向こうの世界なのだ。カスピは渓市と同じように、鏡に両手を付けた。
フッと体が浮いたかと思うと、グニャグニャの世界に入る。いつものように一点の明かりに向かって進み、その出口となっている壺から顔を出して外を覗いた。
見慣れた畳敷きの八畳間があり、渓市が伸びていた。渓市を見つけたカスピは安心して、壺からポンと飛び出した。
当然ながら、カスピは下に落ちた。そこは渓市のいる場所で、腰の辺りにドスンと落ちることになった。
「痛ぇ、重いんだよまったく!」
重いという言葉に、カスピの頭の中の湯が沸いた。先週は甘い物をいっさい口にせず、ようやく四十キロを切ったところだった。1週間甘味を控えることの、想像を絶するつらさ。そこにもってきて重いなどと言われれば、これは血がのぼっても仕方がなかった。
「上から落ちたから衝撃が強かっただけじゃん、このぉ!」
カスピは渓市の背中に乗っかり、両手であごを引っ張った。カスピは知らずにやっていたが、これはプロレスの大技のひとつ、キャメルクラッチというものだ。
「イヂヂヂッ」
女の力だが体勢充分でしっかりロックされている。渓市は抵抗できず、まともに声すら出せなかった。
「これこれやめぃ。争いは嫌いじゃと、あれほど言っておるだろう」
横に座る和装の男がカスピを制した。