衝動
実験で生命を奪う前に麻酔で痛覚を麻痺させるのは当然の作法である。科学に付き纏う倫理的問題と科学による恩恵、科学者が実験で翅目類や齧歯類の生命を奪う際に罪悪を感じていては人類を救うことは出来ない。私が科学者を冷淡だと思うのは、それを由としているためである。
一人の冷淡な男が羽虫を培養箱から羽をピンセットでつまみ取り出し、麻酔を打つ。水槽にたたずむ魚の無機質な目。羽虫をバーナーで炙る。羽が溶け、肢を束ねた死骸を水槽に抛る。研究室は換気扇の音と水槽のフィルターを循環する水の音、寂光の薄灯りからか、極端な静けさを演出して見える。
冷淡な男の目は、羽虫がもがき、セロファンが気化していく様をどう映しているのだろう。一日に20~30の餌を供給するのは面倒であり、時には億劫がって麻酔の過程を省くことすらある。私が思うに男の目は生命の最後を碌に映さず、虚空を映している。目蓋のだらけた倦怠の目。
戦慄、倦怠の目の瞳孔は突如として窄まり、冷淡な男は自らの心臓の音を聞いた。痛む胸、錯綜する思考、男は叫んでいた。視線の先には異形の怪物。
「叩き殺せ!」
机の上に偶然存在していた水道配管用の鉄パイプを手に怪物と対峙し、押し圧すように殴りかかる。怪物は羽を開き男に飛び掛る。羽音に圧倒され、男は意気消沈。殺意に満ちた先ほどの果敢な動作とは対照的に惨めに鈍器を振り回した。無暗な攻撃は機材のパソコンや机、几帳面にファイリングされた資料を巻き込み、衝動的な音を立てた。
取り返しのつかないことをしたと冷静さを取り戻した男は、鉄パイプを置き麻酔の壜に手をかけた。息を荒げながら、部屋中を這うような視線で見つめる。部屋は再び静けさを装う。
神経疲労からか、部屋の悲惨な状態からか男は机に両手を置き、大きなため息をついた。そして、視線の先に現れた机の脚に隠れた異形の一部に黙殺しきれない狂喜を感じ、薄笑いで忍び寄ると足で勢いよく踏み潰した。地団駄を踏むような気の触れたストンピングの後、男は歯茎を出して笑った。怪物は外骨格を砕かれ体液を失い、肢をかすかに動かすばかりになった。
男の見開いた目は誇らしげに生命の最後を待った。凝視と呼ぶに相応しいその視線は目の前の死への興味に惜しみなく注がれていた。