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理の極み  作者: 沢井 淳
四章 広がる世界
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四章 広がる世界 2

 それは、あり得るモノだった。

 前々から知ってはいた。

 ただ信じ切れなかっただけだ。

 そういうものが、存在することを。

 元々祐太朗は常識の固まりだった。故に常識の範囲で判別しており、その行程は決して異常ではなく、普遍的なものであったはずだ。

 知る、までは。

 しかし知って以降、祐太朗の世界は変わった。

 極神大全を知った、それ以上に。

 ほんと、参るね。

 目頭を軽く押さえ、頭振って辺りを見回した。

 八十人は収容できるすり鉢状の教室は、三ヶ月前の満員御礼が嘘であったかのように閑散としている。代わりに酒焼けしたと思われる教授の声だけが眠気を妨げていた。

 穏やかな陽が差し込む、ランチ後の講義。

 内容は民俗学概要。

 基本的な内容で、後期から専門的な展開をする予定になっているが、大半の学生は講義に足を運ぶことはない。内容が面白くないのに加えて、この濁声がすべてを物語っている。教授も単位目当ての学生が多いのを理解しているらしく、出席の確認もルーズで淡々と授業を流している。

 三流大学にはよくある光景だ。

 祐太朗も単位欲しさに取った講義で、出席した回数は片手で足りる程度だった。

 本来ならこの場にはいない。

 なのに、濁声を我慢して教室の隅に陣取っているのは、文字通り、見ている世界が変わってしまったからだ。

 意識しなければ見えない。

 でも、意識せざるを得ない。

 見ている世界は一つではなかった。

 今も。

 祐太朗にだけ見えている世界がある。

 目を閉じて、再び開いた先にある世界は、満員御礼の熱血講義。

 幻覚ではない。

 存在している、本当の世界。

 所謂、もう一つの世界が祐太朗には見え、なおかつその世界に存在しているのだ。

 ただし。

 存在しているのは意識している間。

 別の世界を意識している間だけ、その世界に祐太朗は存在している。

 講義が辿ったかもしれない、別の世界。

 それを意識しただけで、目の前に可能性の世界が開けていく。

 だけど……そんなこと、信じられるわけがない。

 仕組みは理解しても、心が、常識に培われた理性が否定する。

 だから。

 祐太朗の見ている可能性の世界は、一分と経たずにうっすらかき消えていく。

 妄想を信じ込むようなものじゃないか。

『馬鹿げている』

 ルールを聞いたと同時に口走っていた。

『極神大全』を得て、超常現象すら自由に扱える立場になった祐太朗でさえ、驚きと呆れを抱いたのが真美子たちのルールだった。

『可能性は無限』

 そんな出だしからはじまった、彼女たちのルール。

 しかし内容は、無限を否定するかのようなルール。

 彼女たちはできる。

 可能性を確定することが、できてしまう。

 より取り見取り。

 可能確定と呼ばれる力。

 まさに神や悪魔の如きモノ。

 人間ではまったく太刀打ちできない存在であり、知られることもない、知ることすらできない化け物たち。

 彼ら、彼女たちの名は、隣人。

 この世に存在する、神々。

 または悪魔ども。

 それら隣人が、歴史に介入してきたことすらわからぬまま、この世の人間は生き抜いていく。

 まるで箱庭。

 その様を、彼らは隣人として眺め、時に弄り、時に煽って、この世に寄り添っているという。

 ただ彼ら、彼女らもまた、自らのルールに縛られている。

 可能性のルール故に、隣人たちは絶えず流転していく。

 己が正しき可能性のために。

『あなたには、あなたの可能性があるのよ』

 一週間前に聞いた、その言葉からだ。

 彼女のルールが祐太朗にまで適用され、見えるようになってしまった。

 可能性の狭間が。

 目眩にも似た幻。

 確定できるほど信じ切れないがために、今ある世界に祐太朗が存在し続ける。

 でも彼ら、彼女らは確定ができる。

『行ったままもいれば、帰ってくる者もいる』

 確定とは、世界とは。

 幾多重なる、無限とも言える可能性の別世界たちを指す。

 確定すればするほど、己の世界に適用されるも、端から見れば他の別世界へ旅立っているように見える。

 隣人一人一人に、世界があるようなものだ。

『知ったら……戻れないわ』

 目を細めた微笑みが今も脳裏に焼き付く。

 戻れない。

 世界の秘密、構成される一端を知ったのだから戻れるわけがない。

 しかも祐太朗は、可能性を垣間見る力、制御して選択する力を、真美子から付与されてしまったのだ。

 この力も、可能性ってことか。

 真美子が確定した『祐太朗が可能確定できる世界』に入ったとも取れる。

 彼女に問い質したら『その認識でも間違いじゃない』と返された。

 あきらかに、楽しんでいたな。

 真美子は上機嫌だった。

 同じ異能な仲間ができたから、同じ世界を生きることができるから。

 そしてなにより、隣人ではない人生の同行者ができたからだろう。

 だからか、真美子の協力姿勢は強引だった。

『彼女、私が預かります。そんな状態じゃ向き合えないでしょ』

 状態にしたのは誰と、小さな抵抗をしただけで祐太朗は申し出に従った。

 それだけ祐太朗は不安定だった。

 今でさえ目眩レベルで収まっているが、付与されてからの数日間は、極神大全の力がなければ生きていないほどに常軌を逸していた。

『あなたなら、大丈夫』

 根拠が極神大全であるのは明白だ。

 異常の力がなければ対抗できない。

 別の可能性、それは魅惑的で危険だ。

 安定していなければ、様々な可能性が脳裏を過ぎり、世界が万華鏡の如く変化していく。

 時には、風景すら一変させてしまうこともある。

 いきなり足下をすくわれたと思えば、断崖絶壁を前にして死へのダイブ。またはテレビで流れた過去の戦争シーンを見ていたら、いつの間にか周りは夕暮れの戦場と化し、爆風に吹き飛ばされた。

 極神大全によって結界を張っていたからこそ、生きて戻って来られたのだ。

 そんな地獄の日々からようやく、今の目眩レベルまで能力発動を押さえることができるようになった。真美子からのアドバイス、極神大全による能力の解析と、結界張り。それらを合わせて、発動条件付けに成功したのだ。

 思い描き、瞳を閉じる。

 条件はそれだけ。代わりに、己を絡め取る可能性という名の数多な細糸を、結界により排除し続ける。

 その結末を真美子は『凡人』と称し、腹を抱えて笑った。

 楽しそうに。

 だが、笑い疲れたあとに彼女は認めた。

『素敵です』

 無限の可能性が目の前にありながら、凡人として何もない人生を行く。そんな選択が真美子には新鮮に映ったのだろう。

 宮祁真美子……か。

 彼女もまた、常軌を逸した存在だ。

 隣人であり、人生を言葉通りにやり直している。もう一度赤子まで、人の体内まで戻って生まれ直している。だから彼女の肉体年齢は二三才であり、二三年間以前の記憶は持ち合わせていない。

 隣人であること、可能確定ができること。

 二点だけを残し、彼女はやり直したという。

 疑わしいけどさ。

 はい、そうですか、とは行かない。かといって面と向かって否定しても、小馬鹿にしたかのような微笑みの前にはぐらかされてしまう。

 あきらかに彼女はなにかを隠している。

 わかっていても強気に出られない。

 すでに術中に嵌っているのかもしれない。

 あの人の……それとも隣人という存在にか?

 超常なる存在、神とも悪魔とも取れる者たち。

 彼らは一体、なんなのか。

 知ってしまったが故に、脳裏から疑念が離れない。

 結局、山荘から戻ってきてからの一週間、祐太朗は自室に引きこもり、可能確定に苦しみ、隣人の存在に頭を悩ましていた。

 六郎のことも、生き返った女のことも、全く手が出なかった。

 落ち着いてきたのも、昨日からだ。

 それを見計らったかのように真美子から連絡が入り、彼女自身に問いかけた答えが民俗学だった。

『参考になるかもしれませんよ』

 だろうな、それが聞いた直後の感想だった。

 推測していた妖怪や土着神の類だと、すぐに結びついた。

 参考程度。

 そのレベルでしかない。

 講義を流し聞き、思いは確信へと変わった。

 やっぱり……違う。

 アプローチは間違えてはない。

 方向性も正しい。

 行き着く先は同じ場所だ。

「でも、ぬるいんだ」

 隣人、可能確定、そして極神大全。

 どれもが常軌を逸した存在。

 確定しているのは一点のみ。

「でも、繋がっている」

 根拠はたった一つ。

「空知……六郎」

 叔父の名であり、探し求める答えの一つ。

 あなたに、たどり着く。

 音もなく祐太朗は立ち上がった。

 周りは決して気付かない。

 三流の講義だから気にしない、のではなく、極神大全による効果が今もなお発揮されているのだ。

 誰も。

 決して。

 講堂の扉へ手を掛け、押し開きながら携帯を手にした、そのとき。

「どちらへ行かれる?」

 背後から声が掛かった。

 この状況でだ。

 あり得ない……っていうのは。

「わかってる」

 自らに言い聞かせて振り返った。

 タキシードの紳士だ。

 シルクハットをかぶり、右目にモノクルを掛け、全身を黒で統一した紳士が薄笑いを浮かべて佇んでいた。

「どちらへ? 空知祐太朗殿」

 再度の問いかけと同時に、景色が暗転していく。

 昼下がりの気怠い講義が遠のき、すべてが暗闇に包まれる。

 漆黒の世界だ。

 形あるものがなくなり、地平線の切れ目が認識できなくなるほど、世界は広がってしまった。

 結界か。

 空間認識系、もしくは転移も含んでいるかもしれない。

 そんな状況を醒めた目で見回し、祐太朗は答えた。

「ここまでしなくても、ぼくは逃げませんよ」

 黒い世界にとけ込み、顔だけが浮かんでいるように見える紳士は声無く笑った。

「余裕ですね。力強さを感じる。田舎から出てきた頃が嘘のようですな」

 違いますよ。

 祐太朗の脳裏に真美子の笑顔が過ぎった。

 まいるよね。

 軽く目頭を押さえながら祐太朗は答えた。

「ぼくを、知っていると?」

「知っています。ただ知ったのはつい最近ですが」

「三ヶ月前がつい最近ですか」

「そのあたりは資料ですよ」

 当然です、と付け足した黒紳士は軽く指を鳴らした。

 二人の間が揺らぎ、ゆっくりと白い丸テーブルと椅子が出現していく。椅子は勝手に引かれ、祐太朗を誘う。

「逃げないのはわかっております。まずはお話をしたいと思いまして。邪魔の入らぬようにさせていただいたまで」

 椅子へ促し、いつの間にか手にした茶器を傾け、白い湯気が揺らめく得体の知れない液体を注いでいく。

「紅茶ですか」

「ええ、ティータイムです。ちゃんと茶菓子もご用意済みです」

 祐太朗ら以外、なにも存在しない空間に食欲をそそる匂いが漂いはじめる。

 スコーンやドーナッツが二つずつ皿に並び、祐太朗の席には紳士が入れた紅の液体が入ったティーカップが置かれていた。

 怪しいものだ。

 わかっていても、見た目は紅茶そのものであっても、問わずにはいられない。

 慣れたつもり、でもか。

 超常現象を幾たび目撃しても、おいそれと受け入れることはできない。ましてや飲食となればなおさらだ。

 いぶかしむ祐太朗見てだろう、自ら入れた紅茶を軽く掲げ、紳士は一口含んだ。

「毒などは入っておりませんし、本物を取り寄せてます。瞬間移動と捉えていただいても良いかと」

「怪しげな古代呪文じゃなくて、SF的にですか」

「どうとでも取っていただいて構いません。ただ資料によれば、まだ科学的なほうが受け入れられそうだと、判断しましたので」

「超能力も怪しいでしょ。ぼくは常識が……」

 言いかけて口をつぐんだ。

 常識という言葉があまりにも陳腐すぎる現状に、軽くため息を吐いて切り替えた。

「わかりました。聞きましょう」

 椅子へ座り、目の前に差し出されたティーカップを手に取って一口啜った。

 銘柄はまったくわからない。それでも口内から鼻腔へ抜ける香りや、渋みの中にあるまろやかさは感じた。

 良い物、だな。

 渋みから甘い物を手に取りたくなるのを我慢し、祐太朗は続けた。

「でも、その前にあなたは何です?」

「こういう者ですよ」

 言い終わると同時に、祐太朗の眼前に名刺が浮かび上がって来た。

 物体移動だ。

 祐太朗は眉一つ動かさず、名刺を受け取った。

「ワールド、コミュニティ、エグゼクティブ。聞いた事無いですね」

「ですが、名は体を表す通り、それなりな会社です」

 なら、大きいということか。

 世界的な?

 それとも、闇か。

 弾き出しながら読み上げる。

「対ストレンジャー外交部顧問、ライン・B」

「通称ですが、今やそれが名となっております」

「……ライン、さんで良いんですね」

 目尻にさらなる皺が増え、右手の平を見せて次を促してくる。

「もう一度聞きます。あなた方は、何です?」

「お教えしますよ。なにしろ、敵ではないのですから」

 老紳士は紅茶の香りを楽しむかのようにカップを揺らし、話しはじめた。

 さらなる、世界の秘密を。


  ◇◇◇


 ワールド・コミュニティ・エグゼクティブ。

 略してWCE、直訳通りの国際社会執行部、表向きは知的財産保護組織として、世界各国の重要文化財や、発展途上国では政府の手が回らない、維持出来ない遺跡等を保護する、慈善団体だ。

 その裏にいるのが、世界の五指に入ると言われるバビロニア財閥。近代史のそこかしこに名が刻まれている、巨大な富の塊であり、世界を裏で支配していたとも言われている。しかしそれもまた噂に過ぎず、実際は兵器産業と通信産業で財をを得た一企業、ということになっている。

 でも、それらすら霞むわけだ。

 すべては隠れ蓑に過ぎない。

「世界の謎を牛耳る組織ですよ」

 自嘲気味に言うラインの目には、若干の嫌悪が感じられた。

 裏を返せば、自らを律する、からか。

 説明を聞けば、そんな事情すら見え隠れしてくる。

 彼らは。

 均衡を保ち、秘密を秘匿する。

 今が今としてあるべく。

 常識が常識のままにあるべく。

 すべての世を守るべく。

 その代償が、彼ら超常たる自身の存在を持って、彼ら自身を束縛するのだ。

「ただ私の専門は、隣人でして」

 故に、ラインはここに存在しているという。

 数多ある世界の謎、その中でも隣人に関する情報は最高機密のAAAクラスであり、厳重な監視下に置かれている。しかし監視するだけで直接接収はしない。そもそも、できはしないのだ。

「彼奴等は我々ではどうしようもない存在だ。ただ話せない異邦人ではない。だから外交部であり、あなたともこうして、会話の場を設けているわけです」

「ぼくもまた、隣人としてですか?」

「いいえ。お気を悪くされたら申し訳ないが、聞きますか?」

「ある程度はわかってますよ」

 間髪入れずの返答に、相手の口元が嘲笑で歪む。

「祐太朗殿の場合は、隣人の呪われた奴隷として、です」

 奴隷ね。

 その通りだ。

 今のままでは陥るだけだ。

 わかっていますよ。

 思いが口を突く前に、ラインが遮る。

「通称ですよ。能力を付与された者への、です。実質は隣人と同様の扱いになります」

「能力が同じだから、ですか」

「ええ、そうなります。ほんと、厄介なものですよ」

 嘆きながら、現時の状況を語りはじめた。

 WCEの監視下に置かれている隣人の総数は、奴隷を含めて二三名。接触した順にナンバーが振られ、宮祁真美子は『九』だという。

「単独のナンバーには意味があります」

 意味ありげに付け加えてきたが、はっきりと何であるかは口にしなかった。もしかすれば、桁の違いが境目だったのかもしれない。となれば、わかっているだけに過ぎないが、真の隣人は十に満たないと言っても良い。

 世界で十人か……少ないな。

 真美子は言っていた。

『行ったままもいれば、帰ってくる者もいる』と。

 簡単に奴隷はできても、行ってしまうのかもしれない。

 悠久の時を、出会いと別れを繰り返す。

 月日は、それ相応のものとなっているはずだ。

 不老不死な化け物、か。

 推測に推測を重ねていくなか、ラインの語りは続いていた。

「祐太朗殿は二四番目の隣人であり、付与された奴隷」

 しかし警戒レベルは同じAAAクラス。

 監視下に置かれる。

 ただし、監視下であって束縛はない。できはしないのだ。

「我々は求めるだけです。常識であれ、と」

「それで、守れるのですか?」

「今が、今としてあったことを評価していただければ、幸いです」

 たしかに、今は今としてあった。

 現実は何事もなかったかのように時を刻んでいる。

 でも、どうだ?

「あなた方の成果か。それとも彼らが選んだ結果か」

「成果と、取っていただいても良いと思われます」

「思い込まされている、というのは?」

「そう思われても仕方のない存在ですが、結果は今。どうしようもないが、なんとかなるものですよ」

 ラインの目から感じられるのは、圧倒的な自信だった。

 自身の強さか、組織の何か、または誰か、どちらにしろ彼らには対抗策が存在するのだろう。

 世界の執行部……であるのならば、だ。

 探求心が芽生える。

 駆け引きをせねばならないと思うも、知識欲が騒ぎ出す。

「そこまで言うのなら、世界は安定している、と見ていいんですか?」

「良いと思います」

「では、ほかはどうなんでしょうか」

「ほか、とは?」

「隣人以外の危険性、つまりぼくの危険性です」

 ラインは一旦眉をひそめたものの、得心が行ったかのように何度か頷いた。

「我々は祐太朗殿を隣人として監視する。だがそれ以外の要素に関して、特に危険性は感じてはいないのです」

「本当ですか」

「回答は、一つしかございませんよ」

 モノクルを外し、いつの間にか手にしてい布でレンズを拭き始める。態度から見てあきらかだ。

 得るものはない。

 知っているにしろ、知らないにしろ、彼は一つの事しか回答しないのだ。

 それでもだ。

「ぼくのことを、知っている?」

「ええ。知っていますよ」

「知っていて、ですか?」

 食いつく祐太朗に、モノクルをはめ直した老紳士は軽く笑って答えた。

「我々が空知祐太朗を認知した際、下された判断はBBクラス」

 BBクラス。

 現状に若干の影響を与えるかもしれないが、大勢に影響はない。ただ将来的に懸念される可能性はある、というレベルだという。

「よって、常に監視される対象ではなかったのです」

 隣人に呪われたからこそ、危険度が跳ね上がり接触に至ったのだ。

 つまり、彼が真実を語っているのならば、彼らにとって極神大全はそのレベルでしかない、ということになる。

 本当にそうか?

 あれは、そんな代物か?

 知れば知るほど、所有している自分自身が恐ろしくなる代物なのに。

 それとも。

 知らないのか。

 世界の謎を牛耳ると言いながら、知らないことがあり得るのか。

 本当に?

 今までの出来事が走馬燈のように蘇るなか、祐太朗はふと呟いた。

「六郎」

「なんです?」

 突発で出た名に、老紳士が小首を傾げた。

 あまりにも自然な傾きに、祐太朗の思考がゆっくりと一点へ集約されていく。

 まさか……あり得るのか。

 背筋が寒くなるほど嫌な予想を思い描きつつ、もう一度名を口にした。

「空知六郎、聞き覚えはありますか」

 ラインは即答しなかった。

 じっと祐太朗の目を見つめ、眉をひそめた。

「知らないですね。親戚ですか?」

 心理開錠は使用していない。

 本当か、嘘か、能力で知ることはできない。

 それは相手も同じだ。

 結界のみで幻覚等の影響を受けた覚えもなければ、感知もしていない。

 どのような能力なのか、見当はつくが極神大全の力を越えるとも思えない。いくら対ストレンジャー、隣人対策のエキスパートだったとしてもだ。

 彼の言葉は嘘か、本当か。

 二択を前に祐太朗は決断した。

 嘘、じゃない。

 知らないのだ。

 正確には、知っていたのにかき消されたのだ。

 過大評価した訳ではないが、祐太朗自身に会いに来ている、存在を知っている段階でWCEやラインは、それ相応の情報収集能力はあると見て良い。なのに肝心な人物の収集漏れなどあり得ない。

 記憶操作。

 いや、違う。

 極神大全には載っている。

 事象改変の禁呪が載っているのだ。

 まさに『可能確定』と同等の能力が極神大全には存在する。

 使われたのか。

 存在がかき消えるような、レベルでの力が実行されたのか。

 使われたとして、どこまで?

 いつから?

 親戚や葬式までは存在があった。

 調べなくては。

 今消えているのか、一部が消えたのか。

「どうしました? 汗をかいてますよ」

「……ええ。ちょっとね」

「それほど重要。話してみませんか、お力になれるかもしれない」

 かもしれない?

 なれる?

 どちらもノーだ。

 それでも祐太朗は言わずにはいられない。

「先手は、どっちが先なんでしょう」

「なんのことです」

「世界へ入った。どちらかが先に。そして呼び込んだのでは? 主世界と感じるのは、誰しもが一本。レールは一本でしょ?」

 断片的に見えた真実を口にすればするほど、言葉足らずになっていく。

 聞く相手も呆けたままだ。

「ぼくの考えは、後手ですよ。後手」

 あなた方がね。

 心の中だけで吐き捨てるも、真意は充分伝わったらしい。

 ラインの口元が緩み、失笑が聞こえてくる。

「おかしいですか」

「いや、失礼。あまりにも直球だったのでね。ただ祐太朗殿の言いたいことはわかりました。そして回答は、わからない、です」

「それが、あなた方の限界ですよ」

 すっと老紳士の目が細められる。

 相手からの圧迫感を覚えるも、祐太朗は動じなかった。

 目的は決まった。

 目の前の相手に用も無くなった。

 潮時だ。

 祐太朗は音も立てず席を立った。

「もう、よろしいので?」

「知りたいことは、知りましたから」

「氷山の一角、だと思いますが」

 だろうね。

 まだまだカードを隠しているのはわかる。しかし削られている可能性も高い。

 それに、いつでも良いだろ。

 完全な見切りをつけた、ときだ。

「あと数枚は切りたかったのですが、絶妙ですな」

 ラインも立ち上がり、襟元をただす。

 漆黒の世界が揺らぎはじめ、色を取り戻していく。

 だが塗り替えられる景色は違った。昼下がりの気怠い講義室ではなく、新緑の木漏れ日と学生たちが行き交う、キャンパスの中庭だった。

 転移していたのだ。

 辺りを見れば、ちらほら見知った顔も見える。無論、向こうは覚えてない。ただ祐太朗と同じ講義を受けていた、ぐらいだ。そんな彼らは、祐太朗など見向きもせず、皆一様にある一点へ視線を合わせていた。

「ご到着です」

 たしかに聞こえた。

 キャンパスには似つかわしくないエンジン音だ。

 皆の視線が行くのも仕方ない。

 場違いな真っ赤なスポーツカーが中庭の手前で止まり、運転席から一人の女性が下りてくる。

 あの人か。

 白の総レースなパーカーにハートがプリントされたシャツ、そしてスレンダーな足を見せつけるブルーのミニスカート姿、あきらかに大学生を意識している気がするのは、穿った見方ではないだろう。

 張り切っているね。

 苦笑する祐太朗に、若い女性が手を振った。

「祐太朗さん、迎えにあがりましたよ!」

 注目を浴びているなかで、まったく気にせず声を張り上げる真美子へ、軽くため息を吐きながら小さく手を振り返す。一応、隠密行動の効果が発動しており、誰も祐太朗に目もくれないが、このシチュエーションは慣れない。

 気恥ずかしさから目を逸らそうとするが、助手席を見て瞳孔が開いた。

 扉が開き、女が降り立つ。

 黒のトップスにふわふわしたアイボリーが半身を覆い、こちらも見事な脚線美をあらわにしたジーンズのホットパンツ。誰がコーディネイトしたのかは一目瞭然だ。

 楽しんだな。

 そんな光景が過ぎるも、女の表情に笑みはなかった。

 蒼い瞳がじっと祐太朗を見つめている。

 本番の幕がついに、ですか。

 あの女との邂逅は、さらなる世界が開けることを意味していた。

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