一章 開眼する男 1
空知祐太朗が上京してから、すでに三ヶ月が過ぎた。
下宿先はボロアパート。
風呂はなく、トイレは共同、スペースは三畳ほどあればいい。それでも他の部屋より安く借りることができた。どうやら入る前に事件があったと聞くが、祐太朗にとっては安さのほうが重要だった。
当初は気味が悪いと感じていたが、三ヶ月も住むと気にならなくなる。
ただ生きて、眠る場所の部屋。
しかし祐太朗にとっては心休まる我が城であり、コンビニのバイトで疲れた身体と、夜の熱気から来る汗だくのシャツを脱ぎ捨てたく、目の前にあるボロアパートの階段を駆け上がってしまう。
「ダメだ」
ぼそっとつぶやき、深呼吸をする。
息切れだ。
体力低下は著しい。
元々文化系なのもあるが、少し駆け上がっただけでこれだ。
運動、したほうがいいのかな。
毎度思うが実行に移した試しがない。
動くよりも思案に耽るほうが性に合っているのだから仕方ない。
お陰で筋力のない、ガリガリ体型の中背。
ぼさぼさの黒髪に顔もぱっとしない。
出会った十人中十人が『名前、なんて言ったっけ?』と聞き返す。
存在感ゼロな男。
それが空知祐太朗であり、未だ親しい知人すらいない。
友人なんてもってのほか。
彼女なんて別次元の生き物と捉えている。
かといって二次元に熱中する、わけでもない。
趣味など皆無と言っていい。
強いて上げれば読書ぐらいだが、それも年に三冊読めばいい。マンガも読むが、ほとんどが暇なときの立ち読み程度で流し読み。気に入って単行本を買う、こともしない。
貧乏だから、でもあるが。
執着心がないとも言える。
唯一取り柄を上げるとすれば、微妙に真面目ぐらいだ。
しかも人から称賛されたわけでなく、自分自身の判断でしかない。
言われるままにこなす。
それが単に真面目っぽく見えている気がするから、自分自身で真面目かもしれないと思っている、ぐらいだ。言われたことをこなすのも、やり遂げるのが普通であって、大したことをしているわけではない、という認識に立っているので、真面目だとは断言できずにいる。
本当に真面目な人は、もっと良い生活を送っているはずさ。
過ぎっていく無駄な思考に、祐太朗は苦笑いし頭振る。
「なにやってんだか」
自分自身に呆れながら薄暗い廊下を進み、自室のドアノブへ手を伸ばしかけたとき。
来てる?
大抵無いはずのものが、今日は届いている。
誰から?
郵便受けからはみ出た茶封筒に眉をひそめるも、ゆっくりと引き抜く。
自分宛の荷は意外と重い。
小学生のときに使っていた国語辞典並だ。
二、三上下させて感触を確かめ、裏へ返す。
「空知六郎? ろく、ろく……あ」
叔父だ。
叔父の名だ。
叔父は叔父として認識していたため、本名を見てもすぐには繋がらなかった。
なんであの人が。
苦手意識と共に口癖が蘇る。
思い出すだけでぞっとする。
蒸し暑い夜なのに寒気を覚え、身震いして自室へ入った。
暗がりのなか電灯のヒモを探り、明かりを灯す。
蛍光灯に照らされたのは、テレビと折りたたんだ畳み布団のみ。
見慣れてしまった質素な部屋になんの感慨も抱くことなく、祐太朗は夜食用のコンビニ弁当を流し台に置き、汗にまみれたシャツを真っ黒なシャツに着替えて、届いた荷を前に正座してみる。
どうするべきか。あの叔父から……。
思い悩むも、まずは確認してみなければはじまらない。
ハサミを取り出し、慎重に封を切る。
のぞき込むと、二折りにされたノートの切れ端と赤黒い重厚な皮表紙で出来た、一冊の本が見えた。
「本、だな」
口にして確認する合間に噂が過ぎった。
民俗学系の本とか。資料? そんなところかな。
六郎は民俗学の講師、故にある程度推測はできた。
できたからこそ張り詰めた緊張が途切れ、あぐらをかいて中身を取り出した。
二折りの紙は雑であったが手紙の類らしい。
走り書き程度の字で二行、書かれてある。
『二十歳の誕生日おめでとう。これはプレゼントだ。
役目から解き放たれるかもしれないよ』
何度か読み返す。
意味がわからない。
わからないが、役目を意識しはじめると背筋が寒くなっていく。
なにを言ってんだ、あの叔父は。
「いい歳した大人してさ」
薄ら笑う叔父を軽視し、常識を取り戻す。
もう昔とは違う。ぼくも叔父も、変わった……そう、変わったんだ。
叔父は民俗学の講師。
ちゃんとした社会人だ。
そしてぼくは、今年二十歳を迎える常識人。がっちがちのね。
「振り回されないね。関わらなければいいだけ」
親戚付き合いだって、いずれ疎遠になっていく。
特に空知家は親戚同士の結びつきが薄い。
正月やお盆に会うのも、ここ数年は無かった。
互いに日をずらしたり、帰ってこない年もあった。
このまま無視を決め込むことだってできるのだ。
「でも、プレゼントだしな」
無下にはできない。
意味不明な言葉が書き込まれていても、本は本だ。それにもしも田舎でばったり出会ったり、近々電話があって感想など聞かれようものなら。
「あぁもう、嫌なことばかり」
祐太朗は頭振り、もう一度手紙に目を通した。
ったく。なにが役目だ。なにもないね、なにも。心理的プレッシャーや暗示が実在するわけはないし、あったとしてもぼくはかからない。あぁ大丈夫さ。大丈夫。
自らに言い聞かせ、手紙をフリスビーの如く投げ捨てて本を手に取った。
ずっしりとした重さ。
表紙は皮革で金縁の枝葉が四隅に描かれ、肝心のタイトルも金色だ。
「クォフォルド戦記……なんだ?」
タイトルを読んで首を傾げる。
あきらかに物語だ。
しかもよくわからない単語。いや、響きからしてよくあるファンタジーな雰囲気が醸し出されている。なによりカタカナと漢字の表記であることが、最初の推測から相当外れてしまったことを意味していた。
小説なのか? それをわざわざ?
未だ真意をはかりかね、背表紙なども見てみる。
変わりはない。
表紙を同じように金縁の枝葉が四隅に書かれているだけ。
「バーコードもなければ、出版社名も金額もない……まさか」
閃いた単語に思わず首を振る。
自作だなんて、そんなあの叔父が。あり得ない。
もし自作ならば、非常に危険極まりないものだ。
読めたもんじゃない。
それ以上にお寒いのではなかろうか。
読む前から決めつけるのも問題だと、常識ではわかっているが寒気を覚える。
製本業者に頼んだのか。ってそもそも書けるのか、あの人が。講師だからって、昨今のブームに乗ってケータイで書いたなんて。
ついつい顔がにやける。
相手の弱みを見付けたような気がして、悪いと思いながらも心躍る。
これならば、叔父の恐怖から解放される気がする。
などと思うも、一時のみ。
手にした本の重みを意識した途端、脳が鮮明になり思考が走りはじめる。
決めつけるのは、まだ早い。
自分に言い聞かせ、表紙を開いた。
一ページ目は真っ白だ。
二ページ目から本文がはじまっている。
章タイトルもないスタンスは、物語のイメージが立ちにくい。
本文勝負。
読めってことだな。
そう捉えて、祐太朗はぎっしりと詰まった文章を追いはじめた。
◇◇◇
読み出してから十分程度経過して、祐太朗はつぶやいた。
「ダメだ」
読める。
本格的であり読める文章だけど、内容が辛い。
ファンタジーだが娯楽色が少なすぎる、というより皆無。
主人公はとある国の兵士。
ファンタジーらしく剣や魔法の存在が匂わす文もあったが、物語のはじまりは戦争が終わりかけの略奪シーンから。
丹念に書かれた殺戮、心理描写などはついつい追ってしまうが、その後も淡々と兵士としての生活が綴られていくだけなのだ。
こういうのって、小説なのか?
読書好きでもなく、そんなに読んだ覚えもないが、一時期世間で取り上げられた小説などは、図書館で借りて読んだことがある。それと比べると、なにかがおかしい。
これが素人の作った物語だから?
つかみ所のない流れは、読んでいて飽きがくる。
唯一、独特な点を上げるとすれば、度々主人公が空を見上げる点ぐらいだ。
その点だけはやけに描写が細かい。
視線の先にあるのは、天空球と呼ばれる衛星らしきもの。
しかし衛星にしては巨大な印象を受ける。
描かれた衛星には大地が、空や海らしきものが見えるとある。
新天地として、手が届かないまぶしい存在。
物語の主人公は、暇があれば天空に広がる未知の大地をずっと見つめている。そんな描写がだらだらと続くのだ。
「わからん」
おもしろいとか、おもしろくないとかの話でなく、なにをしたいのかまったくわからない。わからないからこそ読む気が削がれていく。
ここぐらいで。
意識は徐々に台頭してきた空腹感に傾き、祐太朗は読み進めたページに指をはさんで本を掴み、流しに置いた弁当を取りに立ち上がったとき。
挟んだ指に何かが触れ、紙の擦れる微かな音が上がった。
足元を見ると、日に焼けたメモ帳の切れ端らしきものが目に入った。
何の気なしに紙切れを手に取り、書かれた文字を追う。
魔……堕、理か?
古印体の字体に似ながら殴り書きのように荒い字面は、正直読めない。しかし無理して読めば、三文字の魔堕理となる。
「まだり、まだり」
二度、口にしてみる。
しっくりくる響きだった。
もう一度口にしたい、そんな欲求が湧いてくる最中。
本を持つ手が震えた。
微かな動きにつられ、手を見て目を見開く。
なに、が?
わけがわからない。
目の前で行われていることが、理解できない。
本は震えている。
タイトルも震えている。
なにかが、今、起こっている。
理解できたのはそこまでだ。
思わず本を手放す。
重力に引かれて畳みへ落ちた本は、倒れる勢いと共にページがめくれていき、最後の一枚まで開ききって裏表紙がゆっくり閉じていく。
ほんのわずかな出来事だ。
一分にも満たない。
しかし気付いたときには、口内に唾が溜まり過ぎていた。
渇いた喉を唾が通り過ぎる。
その頃になってようやく、祐太朗の思考は動きはじめた。
なにが? 起こった?
次第に心拍数が上がっていく。
錯覚だと、常識が告げている。
なのに鼓動が楽しげに高鳴り、胸が締め付けられて、せり上がってくるような感覚を覚える。
どうやら。
「興奮してんの? まじかよ」
自分自身に呆れるも、恐る恐る手を伸ばして本を手に取った。
重さは変わっていない。
裏表紙も変わっていない。
でも表は?
なにかが起こったのだ。
裏返すのにためらいを覚えるも、一呼吸してから一気にひっくり返した。
「やっぱ」
言えたのはそこまでだった。
目に入った文字がすべてをかっさらう。
読めない。
文字が読めないのだ。
カタカナでもない。漢字でもなければ、今まで目にした他国の字体でもない。
うねうねと曲がりくねった文字。
はじめて見る文字だった。
なんなんだこれは。……というより。
「確実にヤバイぞ」
口にして改めて感じる、危うさ。
目の前で起こった出来事は、常識ではあり得ないものなのだ。
これ以上、進んではならない。
危うさがあるとわかっているときに来る、常識的警告が脳内を巡る。
まるで夜道を歩いているかのような。
進めばさらに深く暗い、墓場が待っているような。
独特の危機感が祐太朗を包んでいた。
しかし。
反面、なにかに期待する心があるのも事実だった。
進めばなにかが。
暗い底に目新しいものを発見する、可能性だってある。
いつもなら。
そんな誘惑には乗らないのが、祐太朗という人間だ。
ぼくは……常識人だ。
己の心へ言い聞かせる。
なのに口は動いた。
「魔、堕理」
好奇心の勝利であり、成果は瞬く間に現れた。
『極神大全』
……なるほど。
異常状態を前にして、脳だけは冷静だ。
お陰でいきなりタイトル文字が読めても、気にならない。
そういうものだと受け止めてしまっている。
常識的警告がかき消え、好奇心に身を任せて祐太朗の脳は疾走をはじめた。
「これは」
辞典だ。
なにかの辞典だ。
大全というからには、すべてが網羅されているなにかの辞典。
「当たりのはず」
口にしながら表紙を開いた。
一ページ目は前と変わらず真っ白だ。
変化があったのは二ページ目から。
ビンゴだ。
中身が一切合切、変わっている。
小説のかけらも見当たらない。
どこぞの国語辞典のように、三段に分けられた縦書き表記。
そこにはずらっと、見たこともない文字が刻まれている。
でもぼくには……。
読める。
理解もできる。
すべてが日本語として読め、それらがなんであるのかすら理解できる。
「もしも」
想像通りであるのならば、起こる。
異常な現象が起こる。
すでに起こっているのだから、また起こる可能性は高い。
だが疑念はある。
常に疑っている。
なにしろ極度の常識人であるから。
でも止まらない。
一度走りはじめた好奇心の暴走は止まらない。
馬鹿げているとわかっていても、試してみたい気持ちはあっさりと常識の箍を外した。
……これでいこう。
選んだ文字を、一字一句間違いなく声にする。
「れ・で・ん・た・す・ら・だ・む」
言い終わりに十四型のブラウン管テレビを睨んだ。
やっぱり。
思わず拳を握る。
完勝に近い、陶酔を感じる。
それほどのことが起こった。
起こってしまった。
音もなく、約十キロのテレビが浮かび上がっていく。
ふわふわと、ヘリウムガスの風船と同じように浮かび、天井に当たって小さくバウンドして留まった。
「重力を制御している? それともまったく別のなにかが」
別のなにかだ。
心の中ではもう答えが出ている。
それだけ、異常なのだ。
今までの常識では答えがでない現象が目の前で起こっている。
もう止まれない。
引き返せない。
顔はゆるみっぱなしだ。
あまりにも異常な出来事に、興奮したまま思考だけが先を進む。
「力だ」
非常識的な、物理法則を無視した、別の次元に存在するであろう、力だ。
そして手にした本『極神大全』はその力に干渉し、引き出させ、現実化させる。
「でも」
疑念が閃く。
疑う心が見落としを指摘する。
リスクは、あるのか、ないのか。
力を引き出す際に、なにかが減っている可能性は?
あるな、普通。
思った直後、ある兆候が現れた。
「これだ」
確信すると同時に、視界が狭まっていく。
もう……。
「ダメだ」
堪えきれず、祐太朗は折りたたまれた畳み布団の上へ倒れ込んだ。