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短編

善人の国

作者: かふぇいん

一度はおいで、とはよく言ったものだ。ぴったりとあつらえられた白い服に着替えて、男は思った。毎日決まった時間に運ばれてくる美味しい食事。この身分ならではの、病や老いとは無縁の生活。退屈しない程度の仕事と、趣味に使える十分な余暇。

 聞きしに違わぬこここそが、世にいう“天国”という場所だった。


 そう、会社からの帰宅途中、横断歩道を渡っていたところまでは覚えている。そして、気がつくとすっかりずたずたになった背広姿で、真っ白な扉の前にいたのだ。

「ははぁ、俺はたぶん死んだんだな」

 男は静かにつぶやいた。

「そのとおりでございます!」

 華々しい音楽とともに、目の前の扉が開いた。柔らかい光に包まれて、白い服を着た女が現れた。何人ともつかない風貌で、年すらもよくわからなかった。ただぼんやりと、出がけに見たテレビのアナウンサーを思い出した。

「あなたは大変にご理解が早くいらっしゃる」

 大変よろしい、と人懐こい笑みを浮かべ、白い服の女はこちらへと歩み寄った。

「では、あなたの手続きを担当いたします、イガラシと申します」

 馴染みはあるが当人にそぐわない名前で女は名乗った。差し出されるままに握手を交わし、いつの間にかあった椅子に座らされる。

「俺が死んだとして、ここは一体どういうところなんだ?」

 尋ねると、女はバインダー上の紙をめくり、こちらに目もくれず答えた。

「“天国”への入国手続きをするところですね。役所のようなところだと思ってくださいませ」

 女は顔をあげ、こちらを見る。

「では、無期限の滞在となりますね、今現在からそちらからの申し立て、または、滞在資格を失った場合にのみ、退去をお願いすることになりますが」

 女はにこりと笑う。

「まず、ご心配なさらなくて結構ですよ。あなたは生前悪事を働いたこともございませんので」

 はぁ、とだけ答え、男は頭を掻いた。そういえばそうだったかもしれない。だが、ここにいて座っている間にも、どんどんとこれまでの記憶は薄れていくのだった。

 その後、住む家と簡単な仕事を紹介され、晴れて天国の住人となった。


 何不自由ない暮らしが、どれくらい続いただろうか。そもそも時間の概念がないのだ。これで退屈でもすれば嫌になっただろうが、そういう人間のさがをよくわかっているのか、飽きが来る前に、愉快な出来事が用意される。引越しも何度となくしたし、生前およそ出来なかったであろう趣味にも手を出せた。何しろ、善人しかいないのだから、面倒の心配もいらない。

イガラシとは時々会うこともあったが、向こうもこちらの住人であるらしく、よほどのことがなければ強いて会いに行こうとも思わなかった。


 ある休日、ノックの音に気付いてドアを開けると、またバインダーを一つ抱えてイガラシが立っていた。

「何か用だろうか」

 尋ねるとイガラシはにこりと笑いつつ、頭を下げた。

「本日は、他でもありません、退去のお願いに来ました」

「退去?」

 思わず聞き返し、何かしただろうか、これまでの日々を思い返そうとした。イガラシはゆるゆると首を振る。

「あなたが何をしたわけでもありません。何一つ間違ったこともされていませんし、あなたの評価に関しては入国いただいた時と変わりありません」

ならば何故、とただ茫然と立ち尽くす。

「定員オーバーなのです」

 ただ一言イガラシは答えた。そして、ふらふらとその場に崩れ落ちた男に合わせ、屈みこんで続けた。

「ここは生前、善い人生を送られた方に終末までの良い暮らしをご提供する場でありまして、その良い暮らしの質を保ちますとおもてなし出来る数が必然と減ってくるのでございます」

「でも、俺は」

「何も悪いことはされていません。ただ、良いこともこれといってなさっていらっしゃらない」

 イガラシは確認するようにバインダーをめくった。そして、ため息をつく。

「我々としても苦渋の決定なのです。ここが天国である以上、皆さまには素晴らしい暮らしを提供しなくてはなりません。ですが、我々にも限界があります。そうしますと、どうしてもより天国にふさわしい方のみをご招待し、かつ、不公平のないよう住人の方の基準もそれに合わせる他ないのです」

 とっくの昔に止まっているはずの息が、今になってのどに詰まったようだった。イガラシは男の手を取って立ちあがらせる。

「もうしわけありませんね。ただ、あなたが初めて退去されるわけではありません。毎日たくさんの方が亡くなられますので、こうして今、順序がきてしまっただけなのです」

 状況は呑み込めたが、自分はいったいこの後どうなるのだろう。尋ねようにも言葉が出ず、ただ口がパクパク動いただけだった。

「ご心配はいりません。天国にいられなくなったからといって、すぐ地獄に落ちる、ということはありません。そもそも悪いことはされていないのですから」

 いつのまにか、後ろにあったはずの我が家は消え、はじめに来たような大きな扉の前に立っていた。

「新たに人生を始めてくださいませ。そして、そこできっと良い人生を送られましたら、また是非こちらにいらしてくださいね」

 扉が開き、ただ眩しい光だけがその先に満ちていた。

「そこを通られましたら、こちらでの記憶は一切なくなりますのでご注意を。くれぐれも悪事などをなさりませんよう。では、良い人生を!」

 とん、と背を押され、男は光の中へとまっさかさまに落ちていった。

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