別室
白衣姿の青年はマイクのスイッチを切り、長机に腰を預けて二十も歳が違う男性に笑いかけた。
「催眠を解いた後は、同じ要領で今までの出来事を忘れるよう、もう一つ予めかけておいた暗示を解いてしまえばいい訳です」
「副作用は無いのでしょうか?」
医師は笑みを湛えたまま、その場を離れた。
「何も彼らが最初の被験者というわけではありません。実験に次ぐ実験を重ねて人体に影響が無いことを確認しています」
靴音が途絶え、代わりに照明が点いた。
「どうです?記憶に関して言えば、複数の人間分継ぎ合わせることができます。警察内部は勿論、政界中枢の汚職摘発から情報操作までこの新薬があれば全て可能です。まぁ、見方を変えればいかようにでも利用できるわけです。捜査のいろはすら知らない素人を熟練の刑事に仕立て上げることだってね」
若い医師は大きく回りこんで、真新しい机に両肘を休ませた。『井口雅伸』と書かれたネームプレートが照明の光に反射するのを警視は見逃さなかった。慣れた手つきで煙草を取り出し、紫煙を燻らせながら青年は何かを含んだ笑みを今度は浮かべた。
「見返りは大きいと思いますがね?これは価値のある投資・・・」
その時だった。
ドアが壊れんばかりに跳ね開けられ、その衝撃音が言葉を遮った。
先程の看護士達が部屋に足を踏み入れると、素早く辺りを見回した。その体格の良さは通常の看護士であるとは到底思えなかった。唐突な出来事に驚き、警視は思わず腰を浮かした。だが、彼らはデスクで契約交渉を始めようとしていた白衣姿の青年に視線を投げ打つと、素早く彼の周りを包囲した。一人が彼を羽交い絞めにし、そしてもう一人が口から煙草を奪い取ると冷たく言い放った。
「ここは禁煙だ」
その看護士は煙草の火を青年の手の甲に押し当て、火を揉み消した。部屋中に悲鳴が木霊した。その悲鳴が皮膚の焼ける匂いを増長させているような気がしてならず、警視は思わずポケットから出したハンカチで口元を覆った。青年は何か喋ろうとしたが、別の看護士が彼の顎を万力のような手で押さえつけた。
予想もしなかった出来事に唖然としていた警視がふと我に帰って仲裁に入ろうとした時、もう一人の男性が部屋に姿を現した。警視はドアの方に気を取られ、そして唖然とした。部屋に入ってきたのはあの被疑者を演じさせられていた男性だった。
その男性は足掻き続ける青年の耳元に何事か囁いた。
その瞳から生気が見る間に抜け落ち、青年は抵抗を止めた。そして、彼は看護士達に半ば担がれるようにして部屋から姿を消した。
ネクタイを締め直した男性はいつの間にか青年から剥ぎ取られた白衣を羽織っていた。ネームプレート確認し、顔を上げた時には既に微笑が浮かんでいた。
その場に突っ立ったままの警視を前にしてその男性は青年が座っていた椅子に腰をかけた。
「初めまして。井口と申します。どうぞお掛け下さい」
そう言って男性は倒れたキャスター付きの椅子を勧めた。
警視はその倒れた椅子と笑顔を絶やさない男性を見比べた。疑問はいくらでも湧いてくる。
…戦争、人為事故、暴動、世の中悪いことを数えればそれこそいとまは無いが、そもそもの間違いは科学者達がこう便利なものを発明し続けることにあるのかもしれない…