第26話「忘れ物と残したもの」
まるで霧がかかったような葵衣のもやもやとした心情とは裏腹に、皮肉にも空は
「もう梅雨明けなのか?」と疑いたくなるほど見事に雲一つない綺麗な水色に染まっていた。
渡り廊下を歩いていた葵衣はそんな景色を眺めながら、小さくため息をこぼした。
はああぁ〜………
一体これからどうしたらいいんだろう?
いくら悩んでもあれから答えを出すことが出来なかった。
―――いや、いくら考えたところで私に決定権など端からあるわけがないのだけど…。
口を挟む隙もなく、彼にそうきっぱりと宣告されてしまったことに抗えるわけもなく……
「はああぁ〜……」
口から出てくるのはもはやため息でしかなかった。
すると隣を黙々と歩いていた恵理が堪り兼ねたようにいきなり
「暗いっっ!!」
と廊下の真ん中で大声を上げた。
その声に驚いて、すれ違っていった生徒たちが目を丸くして一斉に振り返った。
それはもちろん私も例外じゃなく――…
「え、恵理?どうしたの?」
慌てて尋ねると、正面を見据えていた恵理の目がぎろりとこちらを睨みつけてきた。
「どうしたの?じゃないわよ!寧ろ、こっちの台詞よそれは!なんでさっきからそんなに辛気くさいの?折角晴れたっていうのに、アンタがそんなんじゃこっちまで気分が重くなってくるじゃない!」
「ご、ごめんなさい……!」
ああ……またやっちゃった……
恵理が隣にいるのに自分の世界に入って勝手に暗くなって……自己嫌悪で胸がいっぱいになる。
「…で?」
「え?」
「え、じゃないわよ。そのアンタを辛気くさくさせてる原因は一体なんなのかって聞いてるの」
恵理の真剣な、そしてどこか気遣うような瞳にじーんと一気に胸が熱くなった。
てっきりこんな自分に呆れて怒らせちゃったかと思いきや、態度にはあまり出さないけれどなんだかんだ言って心配してくれているのだ……。
だけど、まさかその原因が早坂君だなんて口が裂けても言えるはずもないし…
「う、ううん……えっと、もうすぐ…えぇーと、なっ、夏になっちゃうなって!」
「…は?」
ぽかんとした表情を浮かべて、恵理が動きを停止させた。
うわぁ―――!!
どっどうしよう!!また何も考えずに変なことを言っちゃった……!
苦し紛れのつもりの言い訳が、これでは全然言い訳になってないではないか!
「夏?なに、アンタ夏が嫌いだったの?」
そんなの初耳なんだけど、と怪訝そうに尋ねてくる。
で、ですよね……
恵理にそう言われて思わず頷いてしまいそうになった。
だって自分でもそんなの当然のことながら初耳なのだ。
「えっと……き、嫌いっていうか今の時季よりは断然す、好きなんだけど…えっと…でも、暑くなっちゃうのは嫌だな、と思いまして」
今度こそちゃんと言い訳になっているのか?という疑念を胸に抱えつつ無理に笑顔をつくってにっこり笑ってみせると、恵理の眉間にぎゅっとしわが寄る。
「確かに私も暑いのは好きじゃないけど……って、まさかアンタがため息ばっかりついてたのってそんな理由で?」
本当は違うのだが……
申し訳なく思いつつ首を縦に振ってみせると、恵理は呆れたように息を吐き出した。
「はぁ…、さすがというか何というか…。」
「う、うん。ごめんね心配かけちゃって……」
「いいわよ別に。今に始まったことじゃないんだし……」
恵理が苦笑まじりに笑って言う。
「それよりも早く行かないと売り切れちゃうわよ?男子たちに全部とられるわけにはいかないんだから」
そ、そうだった!
そもそも今廊下を歩いているのは、私がパン販売に行くのに恵理に付き合ってもらっているからなのだ。
「次の5限は体育だから早めに食べ終えて更衣室に行かなきゃならないし…。しかも今日はマラソンだっていうから、あんまりギリギリに食べてもわき腹が痛くなるだけよ」
「マ、マラソン!?」
マラソンってまさか10周マラソン……!?
あの校庭の長いトラックをこれから、しかも昼食のあとに走るというのか?
「そうよ。聞いてなかったの?今朝、体育委員が言ってたじゃない。でも10周走り終わったらまた体育館でバレーみたいだから、きっとすぐに終わるわよ……ってほら!着いたわよ」
恵理の言葉につられて視線を正面に向けると、すでにパンが販売されている前には人だかりが出来ている。
慌てて列の最後尾に並び売れ残っているパンを眺めながらも、意識はすでに5限に飛んでしまっていた。
さ、さいあくだ………
ただでさえ体育は苦手だというのに、追い討ちをかけるようにマラソンとは……
普段真面目な生徒である葵衣が保健室でサボってしまおうかと真剣に考えるほど、葵衣にとってマラソンは昔から大の苦手な種目だった。
玲ちゃんが朝練でグラウンドを走っている姿を教室の窓から眺めていてもすごいなぁとただただ感心するだけで所詮、他人事でしかなかったのに……よもや自分が走ることになろうとは。
もう、やだ……
泣きたい……
早坂君に、マラソンに……頭が痛くなってくるほど問題が山積みである。
葵衣は誰も近寄れないぐらいどんよりとした空気を背負ったまま、無意識のうちにまた小さくため息をついていたのだった。
***** ***** ***** ***** *****
「はあぁ〜っ!疲れたぁ…もうさっそく足腰筋肉痛だよ!」
「確かに……マラソンやるだけで疲労感が全然違うわ」
「……。」
「っていうか、玲。アンタ、化け物?」
恵理と由里香と私のぐったりとしている様子を見て、玲ちゃんは隣で苦笑いしている。
ホントに、さすが玲ちゃんというか……
あれから昼食後に行ったマラソンは吐いてしまいそうになるぐらい本当にキツいものだった。走り終えたあとなんて、本気で地獄を垣間見たような気がしてならなかったし……。何人かの生徒たちも途中で気分が悪くなって保健室に行ってしまい、運動音痴の私がここにこうやって無事に(あまり無事じゃないが)立っているのはもはや奇跡としか言いようがない。
なのに、ほとんど女子たち全員がマラソンで疲れはてて全くバレーの練習にならなかったにもかかわらず、唯一玲ちゃんだけが走り終えたあとも男子並みに平然としていたのだ。その様子には、体育の教師も思わず目を見張ってしまったほど。
だから〈化け物〉は言い過ぎにしても、恵理の言葉には頷けるものがあった。
「男子なんてホントに驚いてたよねぇ。特にあいつ、今井だっけぇ?あの顔はまじで傑作だった!」
何かを思い出したかのように由里香がぷぷっと吹き出した。
玲ちゃんも「あー…」とは呟いているが、なんとも微妙そうな顔をしている。
いまい………?
話からして同じクラスの子、かな……?
「あの、今井って……」
「あーハイハイ。葵衣のことだから今井が誰か分かんないのね。前聞いたときですらなぜか地味軍団しか名前が出てこなかったぐらいだし……今井っていうのは…うーん、まぁ一言で言っちゃえば玲のファンよ!」
「ファン?」
「ちょっと、由里香!」
得意げに言う由里香に、クールな玲ちゃんが珍しく焦ったような声で制止しようとするが、由里香はさらっと流して話を続ける。
「つまりは玲にベタ惚れなわけ。これはもうクラスでも公認の事実よ?今井はさ、ちょっとでも格好いいところを玲にアピールしようと毎日奮闘してるのに、当の意中の相手がこんなに格好いいんだもん。そりゃあ男としては落ち込むよねぇ」
「ゆ、ゆりか!!」
玲ちゃんの顔は今にも沸騰しちゃうんじゃないかってぐらい真っ赤になっていて、いつもの玲ちゃんからは想像つかないようなそんな様子が可愛くて私はつい笑ってしまった。
そっかぁ〜そうだよね。
玲ちゃんにファンがたくさんいる事はもとから知っていたけど、玲ちゃんはこんなに格好よくて可愛いんだもん。そりゃあ、その今井君って男の子も好きになっちゃうに決まってるよ!
「はいはい〜照れちゃって可愛いなぁ、玲は!」
由里香はニヤニヤしながら、手にしていた体育館履きの入った袋でバシッと玲ちゃんの背中を叩いた。その瞬間「うわっ」と叫んで玲ちゃんが吃驚したように由里香のほうを振り向く。
「ちょっ……由里香!?」
「このぉーっ!羨ましいぞ、玲!」
そんな二人のやりとりを笑って見ながら、ふと何か忘れているような気がして首を傾げた。
あれ……?
なにか、わたし忘れてる……?
「…あっ!」
自分の手のひらをじっと見つめて、その瞬間急に思い出した。
(く、靴がない!!)
ど、どうしよう…!
体育館履き、体育館に置いて来ちゃった……!!
「葵衣?どうかした?」
恵理が私の様子に気がついたのか、足を止めて尋ねてくる。
「ごめんっ!体育館に忘れ物して来ちゃった……!さきに戻ってもらってもいい?」
「え、ちょっ……葵衣!?」
「すぐ取ってくる!!」
恵理の呼びかけを背にして、私は慌てて体育館に向かって走り出した。
* * * * *
え〜っと……どこに置いといたんだっけ……。
確かこのあたりだったような気が……
体育館の靴ばこの辺りをきょろきょろと見渡すと、端っこに無地の袋があるのを発見した。中から靴をとりだして名前を確認すると、確かに〈白崎葵衣〉と明記されている。
あ、あったぁ〜!!
袋を腕に抱えてほっと一息つく。
もしもなかったら……と不安だったのだが、そんな心配も取り越し苦労に終わったようだ。
体育館履きは以外にも値段が高かったりする。しかも最近では、違ったメーカーのものに変えたとかで今までのより更に値が張るとか……。
もしこのまま見つからなくてもう一足買わなきゃならないなんてことになっていたら、かなり痛い出費であったに違いない。
本当にあってよかった……。
「よし……戻らなきゃ」
顔を上げてそのまま体育館をあとにしようとしたその時、扉の奥から小さくだがボールが弾むような音が聞こえてきた。
あれ……?
誰かいる……?
早く戻らなければいけないことは分かっていたが、なんだか気になってそっと窺うように扉を開いた。
「あれ!?」
いきなり真正面から声が聞こえてきて、思わずびくっと肩を震わせる。
だ、だれ!?
「ひゃっ」
目の前に突然現れたのは、どこかで見たことのある顔だった。
バスケットボールを抱えた少年は嬉しそうににっと笑うと
「なんだ、誰かと思ったら白崎さんじゃん」
と言って、指の上でボールをくるくると回し始める。
私はその器用さに目を奪われつつ、彼の名前を必死に思い出そうとした。
えっと、た、たしか……
――早坂君のいつも隣に並んでいる背の高い明るい男の子。
自分の頭の中ではそういう風に位置づけされていた。映研で自己紹介を済ませたときのことまで記憶をフル回転で巻き戻していく。
「あ………えっと、芳沢くん?」
そうして思い当たった名でおそるおそる呼びかけてみた。
ど、どうしよう……もし間違ってたりしたら……
「――うん、正解♪俺の名前、覚えててくれたんだね」
満足そうに微笑んだ顔を見て、名前を間違えずに言えたことに小さく胸を撫で下ろす。
はあ〜……
なんで自分は人の名前、特に男の子の名前を覚えるのがこんなに苦手なんだろう?
「にしても白崎さん、こんなところでどうしたの?もしかして忘れ物とか?」
「う、うん。靴を忘れちゃって…」
「そりゃ災難だったな。で、見つけられた?」
こくりと頷くと、良かったねと芳沢君は笑って言ってくれた。
「……?」
あれ………?
今………
芳沢君が陰になっていてほとんど見えてなかったけれど、芳沢君の肩の上の隙間から見えるゴールのネットが動いたような気が……
そういえば芳沢君はここにいるのにボールの音だってさっきから止んでない……
その事実に気づいた瞬間、悪寒が稲妻のごとく背筋を走った。
一瞬にして脳裏を掠めていった自分の考えを、頭を振って思いっきり否定する。
ま、ま、まさかそんなわけがない…!
そんなタイミングよくいるはずが―――
「おい、健人!そろそろバスケやめねーと次の授業始まるぞ!」
ぴきっと体が固まった気がした。
け、ん、と……?
芳沢君の体がふと横にズレた瞬間、邪魔していた壁がなくなり二つの視線がかち合った。
獣のような冷たくて鋭い眼差しに葵衣の体は金縛りにあったように動けなくなる。
はっ、早坂くん…………!!
今にも逃げ出したくなる衝動。これはもはや野生動物の勘として本能的に働いたものに違いない。
明らかに不機嫌そうな表情で早坂君はじっとこちらを見つめている。
「おい、健人?」
芳沢君もいつもとどこか違う彼の様子に不審そうに尋ねるが、決して視線が外されることはなかった。その強い視線に次第にがくがくと足が震えてくる。
だめ………!
やっぱりこわいっ……!!
―――次の瞬間。
葵衣はその場から全力で逃げ出していた。
「えっ!?――白崎さん!?」
驚きのこもった芳沢君の声にも答えず、全力疾走で走り続ける。その速さはマラソンの後だとはとてもじゃないけど思えなかった。運動音痴であるはずの私の中で最速とさえ言えるかもしれない。
だけどそんなことにも気づかないほど、頭の中は恐怖と混乱に支配されていた。
――そう。
この時とった自分の行動がどんな結果を招くことになるのか考えもせずに………