第25話「悪魔からのお告げ」
すでに夕暮れ時ではあったが、夏に差し掛かろうとしているせいか日が暮れるのが遅くまだ外は明るい。
恵理と由里香に途中で別れを告げると、私はさっそく市内の図書館に足を向けた。
最寄りの駅から歩いて約10分の距離にあるここの図書館は市内では一番大きいと言われている図書館で、200万冊あまりの本が所蔵されているらしい。
5年前ぐらいに建てられた割合新設のものだけど、私は小さい頃からよくこの図書館に通っていた。―――つまり小学生の頃からになるわけだけど。
滅多に見つからないような珍しい文献も多かったし何よりもこの暖かみのある雰囲気が大好きで、ついつい気付けば足が自然に向かってしまうのだ。
恵理が言うように
「本の虫」っていうのも、あながち間違いではないんじゃないかと最近特にそう感じてしまう。
平日なこともあって、広い館内は割合閑散としていた。来ている人たちのほとんどは学生のようだ。数人は机に向かってレポートのようなものを必死に作成している。
―――よし、これなら集中して勉強できそうかも…。
この図書館の何より便利な点は閉館時間が8時であることだ。遅くまで勉強することが出来るから学生にしてみればオイシイ話なわけで。帰り道も人通りが多いから安全だし……。
内心ほっとして私は無意識に小さく微笑むと、一番窓際の端っこの日当たりの良さそうな席に腰かけた。
鞄から筆ばこと参考書を取り出し、ノートを机の上に広げる。
英語と国語と地歴はどうにかなるとして―――……やっぱり山場なのは数学なんだよね。
ノートに記されている公式を見て、なんだかどっと気分が重くなった。
私は数学が昔からあまり好きじゃなかった。どちらかといえば
「嫌い」の部類に入るのかもしれない。
なんて言うのか英語とか地歴は暗記だけで補えるところが多いけど、数学は頭の回転が必要になってくるしどうしても暗記だけでは答えまで導き出せないのだ。
「閃き」なんて能力があればいいんだけど、そんなもの勿論もってないし………。
それでも中学までは何とかして平均点ぐらいの点はギリギリ取ってきた。―――本当にギリギリだったけどね。
だけど高校に入ってから一気に問題のレベルが高くなり、私の脳では理解不可能の域にまで到達してしまっているのだ。
はっきり言わずとも今回のテストはかなりヤバい。ヤバすぎる。
はあぁ〜〜………今日は一体何時に寝れるのかなぁ?
絶望の境地に立たされたような気分で宙を見上げる。
そしてゆっくり息を吐き出すと、私はノートに視線を落とし問題に取り掛かった。
***** ***** ***** ***** *****
だ、ダメだぁ〜〜全然解けない………。
バタっと机の上に倒れ込む。
いくら頭を捻って考えても、まったく公式の展開が見えてこないのだ。
シャーペンはさっきから同じ箇所でずっと止まったままだし……ちょっと進んだかと思ってもすぐに分からなくなって消しゴムで消す作業の繰り返しになっちゃうし……。少なくとももう始めてから30分は経過してしまっているはずだ。
どうしよう……このままじゃ今日一日数学だけで終わっちゃうよ……。
なんだか急に泣きたい気分になってくる。
所詮、数学に向いていないのだ自分は………。
いっそこのまま数学なんてやめちゃいたい…。そんな考えが一瞬脳裏をよぎっていく。
だけど今、数学を放り出してしまったらそれでこそ
「補習」になりかねないのだ。夏休みが数学漬けになるのだけはどうしても避けたい。合宿にも行きたいし……。
八方塞がりの状況に思わず溜め息がこぼれる。
机に顔をくっつけたまま窓に顔を向けると、顔に暖かい陽射しが当たってきた。陽射しを浴びているうちにだんだんと眠気が襲ってくる。
なんかポカポカして気持ちいいかも……。
朦朧とした頭でぼんやりとそんなことを考えていた時だった。
「おい」
いきなり頭上から聞こえてきた低い声。
びっくりして伏せていた顔を上げると、そこにいたのは―――……
「はっ、早坂君!!?」
えぇっ!?
な、なんでこんな所にいるの!?
「な、なんで………」
慌てて突っ伏していた体を起こす。
早坂君は無表情のまま私の前の席に鞄をどさっと置くと、淡々とした口調で答えた。
「俺、よくここに自習しに来るから」
そう言って椅子を引いて腰かける。
そういえば……と、私の家と早坂君の家が近かったことをふと思い出した。
「…お前は?」
「あ…え、えっと私も勉強しに…」
「ふーん……その割には随分眠そうだったけど?」
早坂君はそう言ってニヤリと笑った。
うぅっ……!出たよ、悪魔の微笑!!
それでいて格好良かったりするから更にたちが悪い。妙に癪に障るというか……。
なんだか急に悔しくなって、ムッとして言い返す。
「ちがうのっ!!数学に行き詰まって分からなすぎて眠くなっちゃっただけ!!」
……って、全然言い返せてないし!!
一体何を言ってるんだ、私は!!
しかも全く威張って言える内容じゃない……。
こんなことしか言えない自分が心底情けなくなってくる。
「数学分かんないのか?」
きっとバカにされるんだろうなぁ〜……と思いつつ諦めて素直に頷く。
だって本当に分からないんだもん……。
だが予想に反して、思いも寄らない答えが返ってきた。
「どこ?」
「…え?」
「どこが分かんないのかって聞いてんの―――教えてやるから」
え……。ええええぇぇ!!?
心臓が大きく跳ね上がる。
あまりにも驚きすぎて心臓がバクバクと動き続けている。
お、教えてくれる……!?あ、あの早坂君が!?
な、なにかの間違いでは……と思わず耳を疑いたくなるような台詞である。
目の前の早坂君の表情は至って変わらぬままだ。
だけど、と思い直す。
いつもは意地悪だけど、早坂君は根はとても優しいひとであることを知っている。なんだかんだ言っていつも気を遣ってもらっているような気がするし……。
それに、早坂君は新入生代表をつとめたぐらい信じられないほど頭がいい。しかも噂によると全教科満点だったとか……。それを聞いたとはき本当にびっくりした。
格好よくて背も高くてスポーツも出来て頭も良くて実は性格も優しくて?
あ、ありえない………。
確かに自分だけではもうお手上げ状態だし数学を教えてもらいたい気持ちがあるにはあるけど……こんな完璧な人の手を煩わせていいはずがないのだ。
「お前……俺の言ってること聞こえてるのか?」
一気に不機嫌になった声色に慌てて我に返って頷く。
「聞こえてんならさっさとしろ!」
「で、でも迷惑じゃ―――」
「……いい加減にしねえと……俺を怒らせたいのか?」
ドスのきいた低い声に自分の体がピキっと凍り付いた。
鋭く突き刺さる視線にすぅっと背筋が冷えていく。
ひえぇっ!!や、やっぱり怖い……!!
「よ、よろしくお願いします……」
ダメです……もう完全にギブアップです……
私はこの方には一生勝てる気がしません。
がっくりとうなだれている私を尻目に
「ああ」と早坂君は満足そうに頷くと、
「…で、どこが分からないんだ?」と今度は吃驚するぐらい優しく聞いてきてくれた。
その目は
「もうそのギャップとかお願いだから勘弁してください!」って思わず叫びたくなるぐらい優しい色を浮かべていて。
私は思いっきり動揺しつつおずおずと問題の箇所を言うと、早坂君は信じられないぐらいの速さですらすらと問題を解き、一問一問丁寧に解説してくれた。私のとんちんかんな質問にも何度もちゃんと答えてくれて……。
数時間後にはあんなに分からなかった問題が早坂君のおかげでやっと解けるようにまでなっていた。
「あ、ありがとう早坂君!おかげですごく助かりました………」
本当に早坂君がいなかったらこんな問題絶対にひとりじゃ無理だった。
いくらしても足りないぐらい感謝の気持ちで胸がいっぱいである。
早坂君はこちらを一瞥すると、はぁっとため息をついた。
「別に……でも葵衣ってホントに数学だけは苦手なんだな」
「う、うん。いくらやっても解けるようにならなくて…」
私がそう言うと、なぜか早坂君は考えるように黙り込んでしまった。
どうしたんだろう……?
不思議に思って早坂君を見つめる。
伏せられた睫は男の子にしては長いなぁ〜なんてじっくり観察していると、ふと視線の先が早坂君の唇に突き当たった。
その途端、かあっと顔が熱くなる。
わたし、本当にこの唇とキ、キスしちゃったんだよね……?
嘘じゃなくて本当に………。
そこまで考えて急に恥ずかしくなって顔を俯ける。
うぅ〜〜……なんでか分からないけどまたドキドキしてきちゃった…
っていうかこんな事考えてる私ってやっぱり変態……!?
そんなことを悶々と悩んでいると、いきなり
「葵衣」
と早坂君に呼びかけられた。
ま、まずい……!
今絶対顔真っ赤だから変に思われちゃう……!
顔を上げられずに俯いたままでいると、早坂君が不審そうに尋ねてきた。
「お前、なんで下向いたままなんだ?」
早坂君が顔を覗き込んでこようとするので、慌てて顔の前で手をぶんぶん振ってごまかす。
「ほんと、き、気にしないで!それよりなにか私にあるんじゃ―――」
しかし次の言葉を耳にした瞬間、私は聞いてしまったことを激しく後悔した。
「ああ。お前明日から俺の家に来い。数学教えてやるから」
「え―――は、はい!!?」
いまなんとおっしゃいましたか、この方は!?
む、無理!!そんなの無理に決まってるじゃない!!
と、そのときまるでポンという効果音が聞こえてくるかのように思い出した。
あの巻き髪の美人集団のことを…。
ぎょろりと睨みつけられた目を思い出し、思わずぴょんと体が飛び上がる。
そっ、そうだよ!!なんで忘れてたの!?今日忠告されたばっかりだったのに――……
早坂君にはなるべく近寄らないって決めたばかりではないか!
早坂君の家に行って数学を教えてもらうなんて―――……
ジ・エンド。
おそらく社会的に抹殺されることはまず間違いないだろう。
あの集団に取り囲まれた自分を想像し、全身に寒気が走っていく。
絶対に、ムリ!!!あ、ありえないっ!!
これは何としてでも断んなきゃダメだ!!
よ、よしっ!
勇気を振り絞って、私は言葉を発した。
「あの――――!」
「言っとくけど、お前に拒否権はないから」
〈ドン!〉と大きな衝撃音が胸に響いた。先手を打たれて無情にも告げられたのはきっぱりとした遮断の言葉。
呆然として早坂君を見ると、早坂君は微笑んで言う。
「こんな時間まで付き合ってやって、しかも俺が教えてやるっていうのにまさか断るわけがないよな?」
目の前にはドス黒いオーラを放っている魔王と呼ぶにふさわしい笑顔。
くらりと目の前が真っ暗になるような思いだった。
世界の終焉を告げる鐘がどこか遠くの方から聞こえてくるような気がした。