第15話「悩める子羊」
「あおいっ、葵衣!!」
「ふぇ?」
隣から由里香に小突かれて顔を上げると、さとちゃんがにっこりと笑って教壇からこちらを見ていた。
「え……?」
「二週間後から試験があるっていうのに、白崎はぼーっとしちゃって余裕だなあ?」
あれ……今、授業中……?
いつのまに休み時間が終わったの?
「俺が説明してたこと全く聞いてなかったな?そんなに俺の授業ってつまんない?」
さとちゃんはそう言って両手で顔を覆い、しくしくと泣き真似をする。
ど、どどどうしよう……
さとちゃんをもしかしなくても傷つけた……?
「そっ、そんなことないです!!ち、ちゃんと聞いてました!先生の授業は全然つまんなくなんかないですっ」
私は慌てて必死に弁明した。
さとちゃんの目が怪しく光ったことなど全く気付かずに………
まさに『後悔先に立たず』とはこのことだった。
「そっかー聞いててくれたのかあ……」
「え?」
さ、さとちゃん………?
先程まで纏っていた憂いを帯びた空気はどこへ………?
なんでそんなに楽しそうなんですか……?
「じゃあそんな白崎には34ページの4行目から訳して貰おうかな♪俺の言っていたこと聞いてたんなら勿論訳せるよな?」
「へ……………」
ええっ!?
もしかしてハメられた……!?
「おい、さとちゃんっ!そこは難しいから俺が訳す、ってさとちゃんがさっき言ってたとこじゃねーか。それじゃいくらなんでも白崎がかわいそうだってー」
クラスメイトの男子が庇ってくれるが、「あれ?そうだったっけなあ?」とか言ってさとちゃんは全く聞く耳を持たない。
はあ………しょうがないよね。
聞いてなかった私が悪いんだし……
さとちゃんは普段は面白いし優しいから人気の先生だけど、自分の授業を聞いていなかった生徒には途端に情け容赦無くいじめの対象にするのだ。
「さとちゃんのS!!いじめっこ!!」
「Sで結構。なんたって俺苛めるのは大好きだし?ほらっ、早く訳してよ白崎。4行目から」
「はい……………」
私は観念して教科書に目を移した。
4行目………?
あっ、ここか………
Frustrated by the continuing………
「……『絶え間ない暴力と事態の進展の無さに苛立ち、パレスチナ人の中には新しいリーダーを求める者もいた。1987年、人気のある指導者で反対派勢力のリーダーがハマスという組織をつくった』」
一瞬空気が静まり返ったが、すぐに「おぉーっ」という歓声で教室内が湧き上がる。
さとちゃんは呆然とした表情をしながらも、
「………うん、俺が悪かった。相手が白崎だということをすっかり忘れてたわ。さすが優等生だな……その訳で完璧だぞ。おい、お前ら今の白崎の訳ちゃんと聞いてたかー?………って、そこっ!!加藤っ!!!居眠りするなっ!!!」
と注意の矛先が他のクラスメイトに向き、私はほっとして席に腰を下ろした。
と、とりあえずピンチ脱出…………かな?
ああ………でもやっちゃったな。
いつも授業だけは真面目に聞くようには心掛けていたんだけど………
正直、頭の中は早坂君のことでいっぱいいっぱいだった。
あれは夢だったのだろうか……?
それとも私が勝手に作り出した妄想……?
そう考えてから、顔がさっと青ざめる。
早坂君と私がき、き、キスしたことが妄想だとしたら、私ってとんでもなく変態さんなんじゃあ……?
大体ふと気が付いたときには自分の家にいたし……
どうやって帰ってきたのかも全然記憶にない。
お母さんにも尋ねたけど、お母さんが帰宅したときには私はもう家にいたって言うし……
あーっ、もうっ!!
頭がこんがらがって訳分かんないよぉ…
きっともうあれは夢だ!!
そうに違いない。
それによくよく考えてみれば早坂君が私なんかに手出しするわけないじゃない。
早坂君の周りには綺麗な女の子達が余るほどいるし……
うん、間違ってもないな(キッパリ)
なんか自分で言ってて虚しくなってきたけど……
でも、夢だとしたらどこまでが夢……?彰さんや小百合さんのことも全て……?
でも鞄の中に天音夜椰さんの新刊が入ってたし………。
どうしよう…やっぱり早坂君に聞きにいこうか?
でもなんて聞けばいいの?
昨日はどこまでが夢でどこまでが現実ですか?って?
それとも早坂君と私はキスしましたか?とか??
うわああぁぁぁあああっっっ!!
ぜ、ぜったいに無理むり…!!
そんな事聞いたら恥ずかしくて死んじゃうよぉ…!!
ホントに変態以外の何者でもないって……
あ〜もうっ、どうしたらいいの!?
「ちょっと、葵衣!なに百面相してるの??今日なんか変だよぉ?」
「………」
「いつも授業真面目に受けてる葵衣が注意されてるし……なんかあった?まさか恋煩い?んなわけないよねぇ……葵衣に限って。………葵衣?ねぇ、聞いてるっ?」
「………ん?」
由里香………?
「『ん?』じゃなぁあい!!!ちょっとマジで大丈夫なわけ!?今日の放課後の歓迎会のことちゃんと覚えてる!?」
「かんげいかい?」
そういえば今日って月曜……………って、あっ!?
すっかり忘れてたけど、図書委員は先週で終わっちゃったから早坂君と放課後に会うことももうなくなっちゃうの!?
ずきん…
おかしいよ、私………なんでこんなに胸が痛むの?
ああ、そっか。
もうこれで完全に早坂君とは別世界ってことになるんだ。
どうって事はないよ……ただまたもとの生活に戻るだけじゃない。
私は今にも自分が泣きそうになっている事も、心配そうに見つめる親友三人の姿にも気付かずに、小さくため息をついた。