第14話「想定外の甘さ」
「ふふっ。悪かったわ、驚かせちゃって。急にそんな事言われたら、誰でも驚くわよね」
「いえっ………!こちらこそいきなり大声を出したりしてすみませんでした!」
まさかまさか、あの天音夜椰さんが早坂君のお姉さんの小百合さんだったなんて……!!
もう少し年輩の人を想像していたのに、こんな若くて綺麗な人が書いていたとは思いもしなかった。
天音夜椰さんは、マスメディアでもよく彼女の本がとりあげられているし、熱狂的なファンもたくさんいるほどの人気の小説家だ。
かくいう私もテレビで紹介されているのを見て、最初はちょっと惹かれてなんとなく読み始めただけだった。
────そしたら見事にはまってしまったわけだけど。
だから私にとって雲の上のような、すごく憧れていた人が目の前にいるという現実味のない事実に実感がわくはずもなく、脳内は当然の事ながらパニック寸前だった。
「全然いいのよ〜大体このバカが葵衣ちゃんを吃驚させようと、勿体ぶってさっさと言わないからいけないんじゃないの!私は早く葵衣ちゃんに会いたくってしょうがないって言ってたわよ、ずっと!!」
小百合さんがそう言って早坂君を一瞥する。
「……だから姉貴を紹介したくなかったんだよ。こんな騒がしいのが身内にいるなんて知られたくないに決まってるだろ」
早坂君も小百合さんに冷たい視線を投げ返す。
小百合さんは綺麗に整えられた眉をぴくっと動かし、「ふ〜ん、そんな事言っちゃっていいのかしら」と呟いて不敵な笑みを浮かべた。
…す、すごいっ、小百合さん……!
あの冷眼に動じないなんて…!!
もしあの視線が自分に向けられていたら………と想像するだけで今でも背筋がぞっと冷えるぐらいなのに!!
顔立ちが整いすぎているだけに、あの視線の威力は絶大なものを発揮するのだ。
「本当に見ていて可哀相だわぁ〜……こんなにあからさまなのに葵衣ちゃんに全然気付いてもらえてないんだものぉ……やだ、あまりに不憫すぎて涙が出てきたわ」
「なっ………!?」
早坂君が目を見開く。
わ、わたしが気付かない………?
な、なんのことだろう……?
「あらぁ?私が気付いていないとでも思ってたの?隠しているつもりだったわけ?こう見えても、小説書いているだけに洞察力と勘は人一倍優れているのよねえ。ふふっ、滅多にアンタは自分のことは話さないから、私のファンの子の事を聞いたときはてっきり男の子だと思っていたんだけど…。まさかこんな可愛らしい女の子だったとは……ねえ?」
小百合さんがなぜか同意を求めるように、微笑みながら私を見る。
なっ、なんでここで私に話をふるんですかっ!?
思わずそう言いそうになった言葉を呑み込んだ。
間違っても「可愛い」などといった単語が自分に似合わないことは自分でも百も承知だし、小百合さんがお世辞で言ってくれていることも分かってはいるのだが……。
こんな美麗集団の中でそんな聞き慣れない単語を言われても、もはや惨めとしか言いようがない。
「うん、葵衣ちゃんって今もフツーに可愛いと思うけど、磨いたらもっと大変なことになりそうだな」
と彰さんも私を見て言いながら、なぜか加勢してくる。
お、お二人の目は節穴ですか!?
大声で叫びそうになるのをぐっとこらえる。
返答の言葉が思いつかず助けを求めようと早坂君を見るが、早坂君はこちらを見ようとはせず仏頂面で黙り込んでいる。
ああ………なんか頭が痛くなってきたような気が………
「彼女、結構鈍感そうだし態度にはっきり示さなきゃ一生気付いてもらえないかもよ?ははっ、にしてもあのお前がねえ……」
「黙れ。兄貴、それ以上なんか言ったらぶっ殺すからな」
早坂君が不機嫌そうにぎろっと彰さんを睨みつける。
……というか三人とも何の話をしているのかさっきからさっぱり掴めないんですが。
「おーこわっ、んな睨むなよな」
彰さんはおどけたように言い、腕時計に目を向けると、
「……っと、俺もう仕事に行かなきゃ。姉貴も原稿仕上げなくていいのか?締め切り明日までなんだろ?まーた、担当の荒井さんに怒られてもしらないからなー」
「あら、いいのよ。彼女は怒ることが生き甲斐なんだから。彰は今日は同伴じゃないわけ?」
「ああ、だってこんな面白いことがあるって知ったら行けるわけないだろ?待たせたら先方に悪いしね」
こんな夜遅くから彰さんは仕事?
「同伴」ってなに?
「ふふっ、そうね。葵衣ちゃん、私は二階で原稿を仕上げなきゃいけないから、もしどっかの誰かさんにいかがわしい事でもされそうになったら遠慮なくいつでも助けを求めにきなさい。」
「は、はいっ………って、え?」
助けってなんの助け………?
「姉貴!いい加減にしろよ…あの担当の人呼ぶぞ!」
「えぇっ!!?ち、ちょっと冗談じゃないわよっ!!じゃあ、そういう訳だから葵衣ちゃんっ!危なくなったらすぐ来なさいね!!」
そう言い残して、小百合さんは慌ててリビングから姿を消した。
「俺も行くな。アフターからは逃げらんないからたぶん帰りは明日になるな。つーわけで、健人。俺、明日朝飯いらないから」
「さっさと女誑〈タラ〉し込みに行けよ、クソ兄貴」
「そうさせて貰うよ。健人、いくら二人きりだからって我慢しろよ?」
「節操なしの兄貴と一緒にするな」
「くすくす……どうだかなあ〜?じゃあ葵衣ちゃん、また今度ね〜!」
そう言って彰さんも出掛けてしまい、先ほどの騒ぎがまるで嘘だったかのようにしんと静まり返ったリビングに早坂君と二人っきりで残された。
急にまた気まずい空気が押し寄せてくる。
早坂君の様子をバレないようにそっと窺うと、苦虫をかみつぶしたような顔をしていてとても話しかけるような雰囲気ではなかった。
ううっ、ど、どうしよう……。
「あ、あの………、早坂君」
それでもいたたまれない雰囲気に押しつぶされそうになりながら、なんとかして意を決して口を開いた。
「彰さんってなんのお仕事をしているの?」
「……………なんで」
「え?」
「なんで兄貴は〈彰さん〉なわけ?」
「えっ!?だって皆〈早坂〉だからややこしいかな……って」
「健人」
「へっ?」
「いつまでも俺とは他人行儀でいるくせに初対面の兄貴のことは名前で呼ぶんだ?俺のことも呼び捨てにしろよ」
「は、はいっ!?無理に決まってるよ、そんなの!!早坂君のことを呼び捨てに出来るわけないじゃないっ」
なにを言っているんだ、この人は!!!
呼び捨てなんかした日には、確実にファンの子達に殺されるに決まっている。
早坂君はその恐ろしさが分からないからそんなことが言えるに違いないのだろうが……。
「とっ、とにかく無理なものは無理です!!絶対ムリっっ!!」
「………へえ………」
早坂君がすうっと目を細めた。
ぎくりと体が強張り、慌てて目をそらす。
な、なんだかマズい空気………?
心なしか更に機嫌が悪くなっているような………。
ふいに目の前に影が差して、不審に思い顔をあげた途端───────
なにか唇にあたたかく柔らかいものが触れた。
………………………え?
一瞬何が起きたか分からず、目を大きく見開くと、なぜか目の前に早坂君の端正な顔があった。
「はっ、はやさか─────んぅっ!?」
それが早坂君の唇だと理解する前に、また唇をふさがれる。
「ちょっ………んっ、…………っ……」
ちゅっちゅっと何度も啄むように口付けられ、あまりの甘い口付けにだんだんと意識が朦朧としてきた。
一体今何が起こっているの──……?
「今度から名前で呼ばなかったら罰を執行するからな」
唇が離れてその言葉を耳にした直後、私はいつのまにか意識を手放していた。