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チョコレート・ルビー・ブレンド

 呼吸できることの素晴らしさを本当に理解してる人って、法都にいったい何人くらいいるんだろうなァって考えちゃったりして。なんの苦労も恐れも知らずに、ただ漠然と吸ったり吐いたりできるってことをさァ。ありがたみを知らないんだよねぇ、みんな。あなたもそう思わない? そうでしょ? うん。でね、こないだ行ってきたよ、えーっと、病院に。この前教えてくれたところ、なんて病院だっけ? 呼吸とかがうまくできない人たちが集まる病院。心臓とか肺も? まぁいいや。でね、うん。行ってきた。病院って嫌いなんだけどぉ、がんばって行ってきたよ。すごくね……悲惨だったぁ。もう、思い出しただけで、ヒィッ! って。トリハダもの。耳からね、聴覚から責めてくるっていう。もう廊下をただ歩いてるだけで、そこら中の部屋から、ゲホゲホ、とか、ゴホゴホ、とか聞こえてくんの。みんな声がおかしいしさぁ……。かすれてるっていうか、ザラザラ。そんなの聞いてると、鼓膜をおろし金で、こう、軽く引っ掻かれてるみたいな、痛いっていうか、痒いっていうか。ううっ、またゾワッときたぁ。ほんとキモかったよぉ。それに、そんなのを病院にいる間中ずっと聞いていたら、こう……わたしまで胸が悪くなってきたような気がしてきてさぁ。喉の奥とか胸の内側が、ほんの少し熱くなって、炎症が起きてるみたいな。扉一枚向こうの病気の人たちから、なんだか変なウィルスでも感染されちゃったのかな? なぁんて、そんなふうに思ってみたりね。でも、普段よりタンが絡まったのは本当なんだよ。だから、本物の人たちに負けないくらい、ウンウンとかゲホゲホとか、わざと大きな声でやったりしてね。他の患者とセッションよ。咳の。タイミングと音程合わせて輪唱とかしちゃった。病みたる大合唱ってわけねぇ! とか、1人で考えて、なんだかおかしくなって、ゲラゲラ笑ってたら、看護婦さんに睨みつけられてさぁ……。まあね。精神病院じゃないから、仕方ないよね、なァんて。アハ。アハアハ。


 うろうろしていて、気がついたら人気の少ない病棟に来ちゃって、扉の覗き窓から病室を覗いてみたら、女の子がベッドで横になってるの。覗いてた私に気づいてね、そしたら、おいでおいでって手招きするの。1人で退屈してたんだってさ。その子はベッドで毎日寝たきりなんだって。ベッドから起きるのは看護婦さんに連れられて、週に一回の外出だけ。それも、自分では歩けないから車椅子に乗せられて、病院の外周をぐるぐるっと回って、おしまいなんだ。かわいそうだねぇ。

 女の子がお喋りの相手になって欲しいって、ガラガラでかすれた声で言うの。とても小さい声で。おばあちゃんより聞き取りにくい声。わたしの妹と同じ年だなんて、全然そんなふうに思えなかったわ。聞き取りにくいから、わたし、女の子のベッドに座ってね、彼女のすぐそばまで寄って、そんでお喋りしたの。でね、ベッドに座ったら、なんか変な臭いがするわけ。なんかね……外に置いといた水槽に、雨水が溜まったやつ。あれが夏になると、すごい臭いするじゃん? 知らない? そっか。まぁ、そういう、水が腐った感じ。あー、魚屋さんの魚が古くなったみたいな臭い。夏とかに。そう。わかった? うん。くさいの。すごく。女の子と喋りながら、まぁ、きっとこの子に由来する臭さなんだろうなぁって考えてたんだけど。そしたら女の子の首に、なんかマジックみたいな黒い線で模様が描いてあんの。なにそれ? って聞いたら襟元をペロッてして、喉と胸の真ん中のとこに魔法陣が描いてあるの。それってね、魔術で肺の中の空気を入れ替えてるんだって。それやらないと、自分の力で呼吸するだけじゃ全然足りなくて、息が続かなくて、苦しくなって死んじゃうんだって。彼女の言うとおり、魔法陣に顔を近づけると、体温くらいの生あたたかい空気が、するうって顔にかかったの。そのとき解ったんだ。さっきからの、この臭い。『彼女の体内』のか。そっか、『やっぱり』って。その子の病気って、肺の細胞がちゃんと働かなくなって、どんどん腐ってくんだって。そりゃあ、臭いわけだよね。あんな臭い息を吐き続けながら、彼女ったら一日中、ほとんど1人で、ベッドに居なくちゃいけないの。両親は共働きだし、仲の良いお医者さんや看護婦さんも、付きっきりで診てくれるわけじゃない。でねでね、彼女といつも一緒なのは空気清浄機だけえ、って。アハッ! 泣けるねぇ、かっわいそうだねぇ。そんなの、悲惨じゃあん。でさ、わたし聞いたの。なにがしたいか。そう、今いちばん何がしてみたい? って。なんだと思う? 『自分の足で歩くこと』なんだってさあ! ベッドの上から起き上がるだけで息が切れて、動悸が5分も治まらないんですって。かわいそう。かわいそ過ぎて涙が出ちゃうよぉ。ねぇ、わたし思うんだけど、『幸せ』って、健康な肉体を持つ人にしか得ることのできない、神様からの贈り物なんだよね。うんうん。あの女の子を間近で見て、わたし、心底からそう思ったよ。うん。五体満足。これって大切なことなんだねぇ。よかったぁ、わたしは今まで、たいへんな病気をしたこともないし、大きなケガだってないし、これからもないだろうし。毎日毎日、幸せでいっぱいだもん。


 本当はもっと長期的に経過を観察すべきだったんでしょうけど、ちょっとね。わたし怖くなっちゃって。彼女のことが。ううん、仕返しとかじゃなくて。なにそれやだ、冗談のつもり? アハ。彼女ったらね、将来は魔女になりたい、だなんて言い出すんですもの。びっくりしちゃった。だから早めに死んでもらった。うんそう。殺したの。だって彼女の目を見たら、自分の境遇に絶望とか諦めとか全然感じてなくて、宝石みたいにキラキラした夢の光しかなかったんだもん。目だけ見たらね、体の中が腐っていることなんて、少しも気取れないくらい、きれいに透き通ってて、わたしには想像もできないほど力強い希望を持っているんだって感じた。そしたら、わたし、病床の、明日だって確実に迎えることができるのか、そんなことも分からないような、骨と皮だけの彼女のことが、すごく怖くなっちゃった。

 命って、人生の、あるラインを超えるまではずうーっと、疲れなんてこれっぽっちも知らない勢いで、右肩上がりで上昇していくだけなんだ。その力を、こんな痩せっぽちの女の子ですら持っているんだって、解ったから。だから彼女はきっと魔女になるって思った。魔女になれるって。わたしが止めなかったら、きっとね、あの子はベッドから起き上がって、自分の足で歩けるようになれただろうし、魔女にもなってたよ。彼女の「生きたい」っていう心を否定したわけじゃないんだよ? 例えば、例えばお花屋さんになりたいなぁ、とか、ケーキ屋さんになりたいなぁ、とか、そんなだったらよかったのに。応援してあげたのに。「魔女になりたい」っていう心が許せなかった。そして、その夢が将来きっと叶うって判って、怖くなっちゃったの。だから『チョコレート・フォンデュ』の試験体になってもらったのよ。そうなの。


 全部終わったあと、もう一度病院に行ってみたんだ。そしたら彼女の部屋の前の廊下で、お医者さんと看護婦さんと、きっと彼女のパパとママだっていう人たちがいて、みんな、すごく暗い顔してた。うつむいてたわ。泣いたり、泣きそうな顔だったり。

 だから病院って嫌いなのよ、わたし。病院の空気ってさァ、髪の毛とか服の裾とか、なんだか湿気った気がして、普段より、ずっと重く感じちゃう。

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