第三話 穴を渡る者
私がその穴を渡る役目を与えられたのは、
それが危険だからでも、栄誉だからでもなかった。
誰でもよかったのだ。
開通から三日が過ぎ、
祝宴は一度も開かれず、
会議では「次に何をすべきか」だけが、
何度も、しかし決して決まらずに繰り返された。
だから私は選ばれた。
記録係で、
兵でも技師でもない。
戻ってきて、
見たままを書けばいい。
それだけの理由だった。
穴の前に立つと、
長い年月が冷えた空気になって
流れ出してくるのが分かった。
鉄の匂いは、ほとんどしなかった。
石と水と、人の汗が混じった匂いだけが残っている。
一歩、踏み出す。
足音が返ってくるまで、
思っていたより時間がかかった。
それほど、この穴は広かった。
壁は滑らかだった。
何千年ものあいだ、
同じ場所を同じ角度で叩き続けた痕跡が、
むしろ礼儀正しいほどに整っている。
私は歩きながら、
なぜ掘ったのかを考えようとした。
だが、思考はすぐに行き止まった。
誰かが望んだ。
誰かが続けた。
誰かがやめられなかった。
それ以上の理由は、
この穴のどこにも刻まれていなかった。
途中、灯りを消してみた。
闇は深く、完全だった。
向こう側も、こちら側も、
同じ重さで消えた。
私はその闇の中で、
「勝った」という言葉を思い出そうとしたが、
意味が浮かばなかった。
しばらく歩くと、
風の流れが変わった。
空気が、
外の匂いを帯びはじめる。
光が見えた。
私はなぜか、
そこに敵がいると思っていた。
だが、出口の先にあったのは、
静かな高原だった。
羊がいた。
草を食み、
こちらを見るでもなく、
また首を下げた。
人の姿もあった。
武器らしきものは持っていない。
彼らは私を見て、
驚きはしたが、
恐怖の顔ではなかった。
ただ、
「来たのか」
とでも言いたげな表情だった。
言葉は通じなかった。
だが、それで困ることもなかった。
遠くに、鍛冶場が見えた。
赤くなった青銅が、
柔らかな音を立てて叩かれている。
その音を聞いたとき、
私は初めて理解した。
この国は、
奪われなかったのではない。
奪われる前提で、
生きていなかったのだ。
私は戻った。
戻って、記録を書いた。
向こう側には、
奪うべきものはなかった。
恐れるべき敵もいなかった。
あるのは、
こちらが忘れてしまった
生き方だけだった。
穴は、今も開いたままだ。
渡る者は、ほとんどいない。
渡った者は皆、
以前と同じ言葉を、
少しだけ使えなくなる。
私も、その一人だ。
それで十分だと、
どこかで思っている。




