表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

第三話 穴を渡る者

私がその穴を渡る役目を与えられたのは、

それが危険だからでも、栄誉だからでもなかった。


誰でもよかったのだ。


開通から三日が過ぎ、

祝宴は一度も開かれず、

会議では「次に何をすべきか」だけが、

何度も、しかし決して決まらずに繰り返された。


だから私は選ばれた。


記録係で、

兵でも技師でもない。


戻ってきて、

見たままを書けばいい。


それだけの理由だった。


穴の前に立つと、

長い年月が冷えた空気になって

流れ出してくるのが分かった。


鉄の匂いは、ほとんどしなかった。

石と水と、人の汗が混じった匂いだけが残っている。


一歩、踏み出す。


足音が返ってくるまで、

思っていたより時間がかかった。


それほど、この穴は広かった。


壁は滑らかだった。

何千年ものあいだ、

同じ場所を同じ角度で叩き続けた痕跡が、

むしろ礼儀正しいほどに整っている。


私は歩きながら、

なぜ掘ったのかを考えようとした。


だが、思考はすぐに行き止まった。


誰かが望んだ。

誰かが続けた。

誰かがやめられなかった。


それ以上の理由は、

この穴のどこにも刻まれていなかった。


途中、灯りを消してみた。


闇は深く、完全だった。

向こう側も、こちら側も、

同じ重さで消えた。


私はその闇の中で、

「勝った」という言葉を思い出そうとしたが、

意味が浮かばなかった。


しばらく歩くと、

風の流れが変わった。


空気が、

外の匂いを帯びはじめる。


光が見えた。


私はなぜか、

そこに敵がいると思っていた。


だが、出口の先にあったのは、

静かな高原だった。


羊がいた。

草を食み、

こちらを見るでもなく、

また首を下げた。


人の姿もあった。


武器らしきものは持っていない。


彼らは私を見て、

驚きはしたが、

恐怖の顔ではなかった。


ただ、

「来たのか」

とでも言いたげな表情だった。


言葉は通じなかった。


だが、それで困ることもなかった。


遠くに、鍛冶場が見えた。

赤くなった青銅が、

柔らかな音を立てて叩かれている。


その音を聞いたとき、

私は初めて理解した。


この国は、

奪われなかったのではない。


奪われる前提で、

生きていなかったのだ。


私は戻った。


戻って、記録を書いた。


向こう側には、

奪うべきものはなかった。

恐れるべき敵もいなかった。


あるのは、

こちらが忘れてしまった

生き方だけだった。


穴は、今も開いたままだ。


渡る者は、ほとんどいない。


渡った者は皆、

以前と同じ言葉を、

少しだけ使えなくなる。


私も、その一人だ。


それで十分だと、

どこかで思っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ