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猫の事務所と消えた書記(原作『猫の事務所……ある小さな官衙に関する幻想…』宮沢賢治)

作者: 双瞳猫

宮沢賢治の『猫の事務所』が持つ、組織内の理不尽さや社会の縮図としての深みに、王道の探偵ミステリーの要素を加えて再構築を試みました。

原作の持つ幻想的で少し物悲しい世界観を尊重しつつ、新たな探偵キャラクター・又旅譲治の視点を通して、事件の謎と、その奥に潜む猫たちの心の闇を描きます。

どうぞ、新たな「猫の事務所」の物語をお楽しみください。

 一

 猫の第六事務所は、猫の歴史と地理を調べる、小さな、そして由緒ある官衙でありました。

 事務所の長は、大きな黒猫の事務長。その下には三人の書記がおりました。


 一番書記は、雪のように真っ白な毛並みを持つ、たいへん気位の高い猫でした。彼はいつも糊のきいた襟飾りをつけ、インクの染みひとつない手で、美しい筆跡の書類を仕上げるのでした。

 二番書記は、獰猛な虎を思わせる縞模様の猫で、いつも不機嫌そうに喉を鳴らしては、誰彼構わず牙を剥きました。彼の仕事は乱暴で、書類にはしばしば泥のついた足跡が残されておりました。

 三番書記は、これといった特徴のない三毛猫でした。彼はいつも一番書記と二番書記の顔色を窺い、右と言われれば右を向き、左と言われれば左を向く、そういう猫でありました。


 そして、もう一匹。四番目の書記がおりました。

 彼の名は、かま猫。竈の煤で汚れたような、むくつけき姿の猫でした。彼は生まれつき体が弱く、咳をすれば「けむりだ、けむりだ」と他の書記たちに笑われ、寒さに震えれば「みっともない」と罵られました。しかし、このかま猫、仕事にかけては誰よりも正確で、どんなに複雑な地理の調査や、難解な古代猫語の翻訳も、たちどころに片付けてしまうのでした。


 その有能さが、かえって他の書記たちの嫉妬と憎悪を掻き立てていることに、事務長は気づいておりましたが、見て見ぬふりをしておりました。事務所の体面と秩序を保つこと、それが彼の最も重要な仕事だったからです。


 その朝も、いつもと同じように始まるはずでした。しかし、事務所の扉を開けた事務長は、奇妙な静寂に気づきました。いつもならば一番早く来て、ストーブの準備をしているはずのかま猫の姿が見えません。


「なんだ、あいつは。とうとう寝過ごしたか」

 二番書記が吐き捨てるように言いました。

「病気でもしたんじゃないですか。もともと弱い猫でしたから」

 一番書記が、自分の白い手先を舐めながら、軽蔑を隠さずに言いました。


 事務長は、何か胸騒ぎを覚えながら自分の席に着きました。そして、磨き上げられた黒檀の机の上に、一枚の紙が置かれているのを見つけたのです。それは上質な羊皮紙ではなく、荷造り用の安っぽい紙切れでした。乱暴な文字が、インクを飛び散らせながら書きつけられています。


 かま猫は預かった。

 明日の正午までに、最高級の煮干し百匹を用意しろ。

 さもなくば、その煤けた命はないものと思え。


 事務所の空気が、一瞬にして凍りつきました。

 これは、ただの欠勤ではない。誘拐です。しかも、事務所の内部にまで入り込んで脅迫状を置くという、大胆不敵な犯行でした。


「ひ、ひどい……」三番書記が小さな声で震えました。

「ふん、自業自得だ。あんな奴、どこかの野良猫に食われてしまえばいい」二番書記は悪態をつきましたが、その目は不安げに揺れていました。

 一番書記は黙っていましたが、その白い顔は青ざめて見えました。


 事務長は、全身の毛が逆立つような恐怖と、それ以上に強い屈辱を感じていました。自分の管理する事務所で、このような不祥事が起きた。これが外部に知れれば、自分の地位も権威も失墜してしまいます。警察猫に届け出るなど、もってのほかでした。


「諸君、このことは絶対に他言無用だ」

 事務長は、威厳を保とうと必死に声を絞り出しました。

「これは、我々事務所内部の問題として、内密に処理する」

 彼はそう宣言すると、受話器を取り、震える手で旧知の番号を回しました。この厄介な事件を、世間の目に触れさせずに解決できる猫は、一匹しかいなかったのです。


 二

「なるほど、これは厄介なことになりましたな」


 低い、しかしよく通る声でそう言ったのは、探偵の又旅譲治またたび・じょうじでした。

 彼は、艶のある灰色の毛並みをした、年の頃は定からない猫でした。その両目は、磨かれた翡翠のように深く、すべてを見透かすような鋭い光を宿しています。事務長とは若い頃、同じ官衙で働いていた縁で、今は探偵として数々の難事件を解決していると評判でした。


 又旅は、脅迫状をピンセットでつまみ上げ、陽光にかざしたり、鼻を近づけて匂いを嗅いだりしていました。

「事務長殿。まず、確認したいことがいくつかあります。このかま猫君は、昨晩、何時まで事務所に?」

「うむ。昨日は古代猫族の移動経路に関する報告書の締め切りでな。かま猫は夜遅くまで残業していたはずだ。他の者たちは、定時で帰ったが」

 事務長は、又旅の落ち着き払った態度に、少しだけ安堵を覚えていました。


「では、聞き込みを始めましょう。まずは、一番書記殿から」

 又旅はそう言うと、事務長室の隣にある書記室へ向かいました。


 白い毛並みの一番書記は、又旅の姿を見ると、あからさまに警戒の色を見せました。

「探偵……ですか。事務長も大袈裟な。ただの家出でしょうに」

「家出にしては、物騒な置き手紙が残されておりましてな」又旅は穏やかに応じました。「一番書記殿、あなたは昨日、定時で退勤されたとか。その後はどちらへ?」

「まっすぐ家に帰りましたよ。妻と夕食をとり、その後は書斎で読書を。誰にも会っておりません」

「そうですか。あなたは、かま猫君のことをどう思っていましたか?」

「どう、とは?」一番書記は少し声を尖らせました。「仕事はできましたが、それだけです。身なりは汚く、咳ばかりしている。正直、我々のような由緒ある事務所には、ふさわしくない猫でしたな」

 その言葉とは裏腹に、彼の視線が机の上の万年筆に一瞬だけ注がれたのを、又旅は見逃しませんでした。それは、月長石を削り出して作られた、美しい乳白色の万年筆でした。


 次に又旅が声をかけたのは、虎猫の二番書記でした。彼は机に足を放り出し、又旅を睨みつけてきました。

「あん? 俺に何か聞きてえのか、探偵さんよ」

「ええ、少々。あなたは昨日、かま猫君と何かありましたかな?」

「ああ? ああ、あったぜ。あいつが俺の報告書を勝手に手直ししやがったんだ。『ここの地理考証は不正確です』だと。生意気な! だから、夕方、事務所の裏で少しばかり懲らしめてやったのさ」

 二番書記は、自慢げに右の拳を掲げて見せました。その爪が鋭く光ります。

「それは、何時ごろのことです?」

「五時過ぎだったかな。その後は、仲間と一杯やって帰った。俺が脅迫状なんぞ書くと思うか? 気に入らねえ奴は、直接ぶん殴るのが俺のやり方だ」

 乱暴な物言いでしたが、その言葉に嘘はないように思えました。


 最後に、三毛猫の三番書記の番でした。彼は、又旅が近づくだけで、びくりと肩を震わせました。

「わ、私には、何も……」

「落ち着いてください。ただ、あなたの知っていることを教えてほしいだけです。昨晩、あなたは少し事務所に残っていたとか?」

「は、はい。忘れ物をしてしまって……。私が戻った時、事務所にはかま猫さんだけがいました。彼は……とても疲れた顔で、古い資料の山を眺めていました」

「古い資料?」

「はい。一番書記さんに、『書庫にある古代猫文明史の資料を整理しておけ』と命じられた、と言っていました。あんな膨大な量を一人でなんて、ひどい話です」

 三番書記は、罪悪感からか、俯いてしまいました。

「そうですか。貴重な情報、ありがとうございます」

 又旅は礼を言うと、書記室の中央に立ち、ゆっくりとあたりを見回しました。嫉妬、軽蔑、暴力、そして無関心。この狭い空間に渦巻く負の感情が、まるで澱のように空気を重くしているのを感じました。


「さて、事務長殿」

 又旅は事務長室に戻ると、静かに言いました。

「犯人の見当は、ほぼつきました。ですが、確証を得るために、そして何より、かま猫君を救出するために、もう一箇所、調べる必要があります」

「そ、それはどこだ?」

「書庫です」

 又旅は、翡翠の瞳を細め、答えました。


 三

 猫の第六事務所の書庫は、建物の最も奥まった、陽の当たらない場所にありました。高い天井まで届く書架には、猫族数千年の歴史と地理に関する古文書や地図が、隙間なく詰め込まれています。黴と、古い紙と、乾燥したインクの匂いが混じり合った、独特の空気が漂っていました。


「全員、書庫に集まっていただきたい」

 又旅の呼びかけに、事務長と三人の書記たちは、訝しげな顔をしながらも、ぞろぞろと書庫へ入ってきました。


「こんな場所で、一体何を……」

 事務長が不満げに呟いたその時、又旅は静かに口を開きました。

「これから、この事務所で起きた『かま猫誘拐事件』の真相について、お話しします」


 書庫の重い静寂の中、又旅の声だけが響き渡ります。

「まず、脅迫状ですが、これは犯人による偽装工作です。目的は、あたかも外部の者の犯行であるかのように見せかけ、捜査を攪乱することにありました」

 彼は、ピンセットでつまんだ脅迫状を皆に示しました。

「この脅迫状に使われているインク。これはただのインクではありません。『月光インク』と呼ばれる、月長石の粉末を混ぜて作られた特別な品です。光の加減で、まるで月明かりのように淡く輝くのが特徴です。そして、このインクは限定生産品で、この事務所ではただ一匹の猫しか所有しておりません」


 その言葉に、一番書記が息を呑むのが分かりました。彼の額には、脂汗が滲んでいます。


「――一番書記殿。あなたの机の上にあった、あの美しい万年筆。あれに入っているのが、この『月光インク』ですね?」


 又旅の鋭い視線が、白猫を射抜きました。

「な、何を言うか! 私が持っているという証拠がどこにある!」

「証拠ならありますよ」

 又旅は動じません。

「あなたの白い毛並みは、確かに美しい。しかし、それゆえに、ごく僅かなインクの染みも目立ってしまう。あなたの右の前足、その指の間に、月光インクの微細な粒子が付着しているのを、私は見逃しませんでした。おそらく、脅迫状を書いた際に、焦って拭き取ったのでしょうが、完全には落としきれなかったようですな」


 一番書記は、はっとしたように自分の前足を見つめ、そして絶望的な表情で顔を覆いました。


「しかし、インクだけでは、あなたが犯人だと断定するには弱い。重要なのは、かま猫君がどこにいるか、です」

 又旅は、書庫の最も奥、分厚い『古代猫文明史』が山と積まれた一角を指さしました。

「三番書記殿の証言によれば、かま猫君は昨日、一番書記殿の命令で、この資料の整理をしていた。しかし、これは奇妙な話です。この資料群は、来年度の予算が確定してから整理する予定だったはず。なぜ、締め切りを控えた昨日に、急ぐ必要のない作業を命じたのか」


 又旅は、資料の山をゆっくりと押しました。すると、ぎい、という鈍い音を立てて、書架の一部が壁ごと回転し、その向こうに黒い闇が口を開けたのです。隠し扉でした。

 中からは、むっとするような埃っぽい空気と共に、かたい金属の扉が見えました。


「この事務所の古い設計図を拝見しました。この書庫の裏には、かつて貴重な古文書を保管していた、小さな耐火金庫室がある。今はもう使われておらず、換気装置も壊れている。そして、この扉の鍵を持っているのもまた、事務所の備品管理を担当している、あなただけだ。一番書記殿」


 観念したのか、一番書記は震える声で話し始めました。

「……そうだ。私がやった」

 それは、絞り出すような、か細い告白でした。

「殺すつもりは、なかったんだ。ただ、少し懲らしめてやろうと思っただけで……」


「懲らしめる?」又旅は冷たく問い返しました。「あなたは、かま猫君の有能さに嫉妬していた。彼が次々と功績を上げるたびに、自分の地位が脅かされるのではないかと恐怖した。だから、彼をこの換気の悪い部屋に閉じ込め、数日間苦しませることで、彼の評判を落とし、二度と自分に逆らえないようにしようと考えた。違いますか?」


「あいつが……あいつが悪いんだ!」一番書記は、狂ったように叫びました。「煤けた汚い猫のくせに、私より仕事ができるなんて、許せなかった! 私のプライドを、いつもズタズタにしてくれた! だから……だから……!」


「だから、彼を陥れた。そして、他の者に疑いがかかるよう、わざと二番書記殿のやり口を真似たような、乱暴な脅迫状を捏造した。全ては、あなたの歪んだ自尊心を守るため。実に卑劣で、愚かしい計画ですな」


 又旅は、隠し扉の奥にある金属の扉に近づき、一番書記が落とした鍵束から一本の錆びた鍵を選び、鍵穴に差し込みました。重い金属の軋む音と共に、扉が開かれます。


 その薄暗い空間の隅に、かま猫がぐったりと横たわっていました。呼吸は浅く、体は冷え切っていましたが、まだ、かろうじて息はありました。


 四

 かま猫が無事に救出され、毛布にくるまれてストーブの前に運ばれた、まさにその時でした。

 事務所の重い樫の扉が、何の合図もなく、ゆっくりと開きました。


 そこに立っていたのは、黄金のたてがみを豊かに揺らし、威厳に満ちた眼差しで室内を見渡す、一頭の獅子でした。事務所の監督官である、獅子でした。

 彼の登場に、事務長も書記たちも、その場に凍りついたように動けなくなりました。


 獅子は、誰に言うともなく、しかし事務所の隅々にまで響き渡る声で、静かに言いました。


「ここは、猫の歴史と地理を研究する、神聖な場所のはずであった」


 その声は、怒りよりも深い、悲しみを含んでいるように聞こえました。


「しかし、今、私の目に映るのは何か。嫉妬に狂い、仲間を陥れる者。力に任せて、弱者を虐げる者。権威に媚びへつらい、不正に目をつぶる者。そして、それらすべてを己の保身のために黙認する者。一人の誠実な者をここまで追い詰めるような組織に、歴史を語り、地理を調べる資格など、もはやない」


 獅子は、ゆっくりと事務長を見つめました。黒猫の事務長は、ぶるぶると震え、その場にひれ伏すことしかできませんでした。


「本日をもって、猫の第六事務所を閉鎖する」


 その裁定は、雷鳴のように、すべての猫の心に突き刺さりました。

 一番書記は、その場で憲兵猫に連行され、北の果ての灯台守という、孤独な職務へ左遷されることが決まりました。二番書記と三番書記、そして事務長は、その監督不行き届きと、陰湿ないじめへの加担を問われ、官衙から追放されました。


 がらんとした事務所に、又旅譲治と、意識を取り戻したかま猫だけが残されました。

 ストーブの赤い光が、かま猫の煤けた横顔を照らしています。


「……気分はどうだね」

 又旅が、温かいミルクを差し出しながら尋ねました。

 かま猫は、こくりとミルクを飲むと、小さな声で「ありがとうございます」と答えました。その瞳には、深い疲労と、しかし、どこか吹っ切れたような静かな光が宿っていました。


「君は、これからどうするつもりだ?」

「わかりません。行く当ても、ありませんから」

 かま猫は、自嘲するように笑いました。


 又旅は、しばらく黙ってストーブの炎を見つめていましたが、やがて、ふっと口元を緩めました。

「それなら、一つ提案がある。私の助手にならないか」

「……え?」

 かま猫は、驚いて顔を上げました。


「君には、探偵に必要なものが備わっている」と又旅は続けました。「物事を深く観察する目。僅かな情報から本質を見抜く洞察力。そして何より、理不尽な状況に耐え抜く、強い心だ。私の仕事は、君のような猫の力を必要としている」


 かま猫は、又旅の翡翠の瞳をじっと見つめました。その深い色の中に、嘘や偽りがないことを悟りました。彼は、もう一度、深く頭を下げました。そして、今度ははっきりとした声で、こう言ったのです。


「はい。喜んで」


 こうして、猫の第六事務所は、その歴史に幕を下ろしました。

 そして、一匹の煤けた猫が、探偵の助手として、新たな道を歩み始めたのでした。それは、事務所の閉鎖という理不尽な結末から生まれた、ささやかで、しかし確かな希望の光でありました。(完)


本作をお読みいただき、誠にありがとうございました。

原作の持つ、救いのない結末に、ささやかな希望の光を灯したいという思いから、探偵・又旅譲治とかま猫という相棒バディの物語を紡ぎました。

組織の論理に翻弄される個人の尊厳というテーマは、賢治の時代も今も変わらない普遍的なものかもしれません。

彼らの今後の活躍に、少しでも思いを馳せていただければ幸いです。



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