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運命の不協和音

作者: オルティア

読者の皆様に楽しんでいただけますように。

こちらは本編の前日譚でR18を含みません。


本編はムーンライトノベルズに掲載しています。

本編はR18を含みますので、苦手な方はご注意ください。

ヒカリは、ホテルの個室で窓の外を眺めていた。都会の空は、厚い雲に覆われ、鉛色の光がアスファルトの街路をぼんやりと照らしている。ヒカリの心もまた、この景色のようにくすんで、希望の光などどこにも見当たらなかった。まるでこの景色が、この後の未来を暗示しているかのように。


今日は、彼女の人生計画にはなかった日だ。


いや、そもそも彼女に「人生計画」などという大それたものは存在しなかった。ただただ、与えられたレールの上を、感情を持たない人形のように歩んできただけだ。


「一生、独身でいい」


そう心に決めていた。誰かを愛することも、誰かに愛されることも、自分には縁のないことだと、とっくの昔に諦めていたからだ。


高校卒業後、東京の大学に進学したかったヒカリに、両親は「家業を継ぐ人間として、地元の大学を出てほしい」と告げた。彼女がどれほど熱心に研究したい分野について語っても、両親の顔に浮かんだのは「そんなことよりも、世間体の方が大事だ」という、冷たい無関心だった。


「ヒカリは、私たちにとっての宝物なんだから」


そう言って両親はヒカリの頭を撫でたが、その手つきは、まるで高価な調度品に触れるかのようだった。愛ではなく、所有欲。幼い頃から、両親の愛情と呼べるものが、ヒカリの存在を通じて得られる「地位」や「名誉」にしか向いていないことを、彼女は知っていた。中堅企業を経営する両親にとって、娘は家同士の結びつきを強めるための、価値ある「道具」だった。そして今日、その道具としての価値を最大限に発揮すべき日が来てしまったのだ。


「どうせ、この人も同じだ」


自分に言い聞かせながら、ヒカリは硬い革靴の音が部屋に近づいてくるのを感じた。ノックもせず、ドアが開く。音もなく入ってきたのは、マサトという男だった。全国区の大手企業「一条グループ」の御曹司。彼の情報は、週刊誌のゴシップ記事のように、ヒカリの両親から耳にタコができるほど聞かされていた。


マサトは、ヒカリの顔すら見ようとせず、無造作に席についた。彼は分厚い高級革靴を床に叩きつけるようにして座り、手に持ったスマートフォンに視線を落としたまま、親指をせわしなく動かしている。仕事のメールをチェックし、時折、短く返信を打ち込んでいるのだろう。ヒカリは、そんな彼の様子を、まるで自分がこの空間に存在しない透明人間になったかのように感じていた。彼の世界は、この小さな電子機器の中にしか存在しないかのようだ。


部屋には、二人の間を隔てる分厚いテーブルと、気まずい沈黙だけが横たわっていた。窓の外では、街路樹の葉が風に揺れ、乾いた音を立てている。ヒカリは、その微かな音だけを頼りに、自分の存在をかろうじて確認していた。


「初めまして。」


唐突に、マサトが口を開いた。彼の声は、低く、感情を含まない。スマートフォンから一度も顔を上げることなく、まるで独り言のように呟いた。ヒカリは、その無礼さに驚くことも、怒ることもなかった。むしろ、予想通りの展開に、わずかな安堵を覚えた。


「…初めまして、ですね」


ヒカリは、喉の奥から絞り出すように返事をした。自分の声が、こんなにも震えていることに驚いた。


「単刀直入に言う。俺は、結婚するつもりはない」


マサトの言葉に、ヒカリは内心で小さく息を吐いた。やはり、この茶番劇はすぐに終わる。そうすれば、またあの無味乾燥な日常に戻れる。そう思っていた。しかし、マサトの言葉はそこで終わらなかった。


「俺は、親から結婚を急かされている。一条グループのトップを継ぐためには、堅実な家庭を持つことが必須だと。このお見合いがダメだったら、次から次へと見合い話が続くことになる」


彼は初めてスマートフォンから顔を上げ、ヒカリの顔…ではなく、彼女の背後の空間を見つめた。その瞳には、ヒカリの姿は映っていなかった。


「お互い、親が面倒臭いんだろ。話は聞いている。君も、俺と同じで、親の道具にされている。違うか?」


その言葉は、まるで鋭いナイフのように、ヒカリの心の奥底に突き刺さった。彼の言葉は真実だった。でも、その真実を、こんなにも無遠慮に、無関心な態度で突きつけられるとは。ヒカリは、握りしめた手に、爪が食い込むのを感じた。


「だから、提案がある」


マサトは、まるでビジネスの契約条件を読み上げるかのように、淡々と告げた。


「契約結婚しないか?お互いの生活に干渉しないこと。それが、唯一の条件だ」


彼は、ヒカリの反応を待つこともなく、再びスマートフォンに視線を戻した。その横顔には、一切の感情が見られなかった。この男にとって、この結婚は、面倒な親の干渉から逃れるための、単なる「契約」なのだ。愛も、情も、何もかもが存在しない、無機質な取引。


ヒカリの心に、深い絶望の波が押し寄せた。両親からの愛も、この目の前の男からの愛も、自分には縁がないものだと、改めて突きつけられた瞬間だった。


(ああ、この人は私に全く興味がないんだ)


幼い頃から、両親の期待に応えるために、良い子でいなければならなかった。テストで良い点を取れば、両親は「さすが私たちの娘だ」と誇らしげに語った。でも、それは彼女の努力を称賛しているのではなく、彼女の存在が、彼らの「名誉」を高めていることを喜んでいるだけだった。本当に彼女が好きなもの、心の奥底で求めているものには、誰も耳を傾けてくれなかった。


「もう、いいや」


そう思った。愛のない家庭から、また愛のない結婚へ。自分は、一生愛を知らずに生き、死ぬのだろう。この乾いた人生に、もはや色を付ける努力をする気力も残っていなかった。どうせもうそんな人生しか残ってないのなら、誰と結婚しても同じだ。愛がないなら、いっそ最初から愛のない「契約」の方が、傷つくこともない。


「分かりました」


ヒカリは、そう言って、目の前に置かれたコーヒーカップに手を伸ばした。湯気で少し曇ったカップに、映るはずのない自分の顔をぼんやりと見つめながら、一口、口に含む。そのほろ苦さが、彼女の心をじんわりと満たしていく。


ヒカリは、マサトに背を向け、窓の外に広がる自由な世界を見つめた。そこには、ヒカリが決して手に入れることのできない、鮮やかな日常が広がっているように見えた。行き交う人々、楽しそうに笑うカップル、親に手を引かれて歩く子供。彼らは皆、それぞれの「愛」の中で生きている。ヒカリの人生は、まるでその景色を写したモノクロの写真のようだった。


その返事を聞いたマサトは、初めてスマートフォンをテーブルに置き、ヒカリの方を見た。その瞳は、彼女に何の関心も抱いていないことを雄弁に物語っていた。彼は、自分に全く関心を示さないヒカリの態度に、わずかな苛立ちと、今まで感じたことのない違和感を覚えていた。彼の周りの女性は皆、彼の一挙手一投足に注目し、彼の言葉を待っていた。彼らは、彼の地位や財力、そして何より彼の存在そのものに、魅了されていると彼は信じていた。


しかし、この目の前の女性は違った。彼女は、彼が「契約結婚」という常軌を逸した提案をした後も、何の驚きも、反発も、ましてや興奮も見せなかった。ただ、静かに「分かりました」と答えただけだ。


マサトは、ゆっくりと立ち上がり、ヒカリの背中に近づいた。ヒカリは、彼には向き直らず、ただ窓の外を見つめたままだった。その背中からは、すべてを諦めた孤独が漂っていた。まるで、この世に一人きりになってしまったかのような、繊細で、それでいて強固な壁を築いているような、そんな背中だった。


その時、マサトは初めて、彼女の「顔」を見た気がした。正確には、彼女の顔は見えない。だが、その背中が、彼女のすべてを語っているようだった。彼女の瞳が、どれほどの絶望を映しているのか。彼女の心が、どれほどの孤独を抱えているのか。今まで、自分に自信があり、周囲の女性は皆、自分に興味を持つと信じていたマサトにとって、これは初めての経験だった。自分に全く興味を示さない彼女の姿に、彼は今までにない「不協和音」を感じていた。それは、彼の完璧な世界に、ぽつりと落とされた、小さな石のような違和感。


彼の胸の奥で、静かに何かがざわめき始めていた。それは、他人の感情に無関心だった彼が、初めて「他者」の心に触れた瞬間だったのかもしれない。

最後までお読みいただきありがとうございました。

登場人物たちの行動や感情はフィクションであり、実在の人物や団体とは関係ありません。

作品を楽しんでいただければ幸いです。

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