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硝煙の契約

 馬車の中には、戦いの余韻がまだ漂っていた。

 石畳を噛む車輪の音が、夜気の奥へと消えていく。

 それでも胸の奥では、先ほど目撃した魔法陣の光がなお焼きついて離れない。


 ――帝国ですら把握していない術式。

 王国を蝕もうとするのは、帝国と教会だけではない。

 舞台袖には、別の“演出家”が潜んでいる。


 沈黙を守っていたセドリックが、やっと口を開いた。

 左目を覆った血布から滲む痛みを隠しきれず、声は低く掠れていた。

 「……私は、一体どうすれば……。いや……未知の黒幕がいる以上、協力せざるを得ない」


 その言葉に、車内の空気が一瞬凍りつく。

 帝国の人間が“協力”を口にしたのだ。だがその声音には、救いも温もりもない。

 ただ自分の敗北を認めざるを得なかった男の、理屈だけの声だった。


 「まあ♡」リリアーヌが紫煙をくゆらせ、愉快そうに目を細める。

 「あなたはしくじったのよ。帝国にはもう居場所なんてないでしょう? 協力するしかないじゃない。手柄のためにも……そして、あなたの“本当の目的”のためにも♡」


 「……っ」

 セドリックの眉が震えた。

 葛藤が露わになる。自らの立場を否定したいのに、否定できない。

 彼はやがて、苦渋を噛み殺すように無言でうなずいた。


 (……本当の目的?)

 リリアーヌの声音に含まれた“何か”が耳に残った。

 (私たちの契約とは……違うのか? 彼女はセドリックの裏まで見通している?)

 胸の奥に疑問が沈殿する。


 隣でエマが膝をつき、リリアーヌに顔を向けた。

 燃えるような瞳。唇から熱が滴るような声。

 「リリアーヌ様。私は……あなたの剣です。この身も命も、どうぞお使いください」

 形式と誓いを込めた、完全な忠誠の言葉だった。


 リリアーヌは唇を艶やかに弧にし、紫煙の奥から瞳を覗かせる。

 「いい子ね。舞台の幕が上がる時、あなたは必ず私の隣に立つのよ」


 その一言で、エマは陶酔に沈み、剣の柄を震える手で握り締めた。


 私は――胸の奥で、自分に言い聞かせた。

 (私は正義じゃない。契約に従うだけだ。最後まで、筋を通す。それだけだ)


 リリアーヌはブランデーのグラスを揺らし、愉悦を刻むように微笑んだ。

 支配者の笑み。全てを見通し、すべてを舞台に引きずり出す女の貌だった。



 やがて馬車は止まり、私たちはアジトに身を移した。

 リリアーヌが手配していた隠れ家――石造りの廃館を改造した拠点だ。

 ひび割れた壁に薄暗いランプが掛けられ、香が焚かれ、薬草と血の匂いが混ざっている。

 慰安室の荒れた匂いを洗い落とすには十分だったが、それでも漂うのは退廃の気配だった。


 治療室に並んだベッドで、セドリックは眼帯を巻かれていた。

 眼鏡の端整さは失われ、代わりに影の鋭さが顔に刻まれている。

 エマは軽傷ながら、満ち足りた顔で剣を磨いていた。

 私は短刀の刃を布で拭い、無言で手入れを続ける。

 リリアーヌは椅子に腰かけ、ブランデーを傾けていた。


 「……帝国は王国を内側から崩す計画を進めている。教会とも既に繋がっている」

 セドリックの声が静寂を破る。

 「だが――今回現れた術式は、帝国の掌握外だ」


 私は無言でうなずく。

 「帝国が想定していない“誰か”が、舞台を仕切ろうとしている」


 胸の奥が冷えた。

 (帝国の手でもない……なら、別の勢力がこの舞台を書き換えようとしている?)


 沈黙を破ったのはエマだった。

 「敵が多いなら、私たちも群れを作るべきです」

 彼女の瞳は熱に潤み、リリアーヌにのみ焦点を結んでいる。


 私は心の中で応じた。

 (大きい組織に対抗するには……私たちも“組織”にならざるを得ない)



 「その前に」セドリックが口を挟む。

 「圧倒的に情報が足りない。帝国の策も、教会の企みも、そしてあの未知の黒幕の正体も。今のままでは戦いようがない」


 その言葉に、リリアーヌが唇を濡らした。

 「情報がなければ舞台は始まらない……そういうことね♡」


  「心当たりがある」セドリックが続ける。

 「聖女の友人だった女だ。名はアナベル。情報通で……帝国のことすら勘づいている可能性がある。だが彼女の動きは、君たち以上に読めない」


 「聖女の友達!?」エマが椅子を蹴りそうな勢いで立ち上がる。

 「そんな人間が仲間になるはずない! 裏切りに決まってる!」


  私も反射的に反発した。

 「敵だとしか思えません」


 セドリックはゆっくりとうなずいた。

 「その通りだ……聖女暗殺を事前にリークして、警備を強化させたのは彼女だ。しかも聖女とは、二人きりで何度も接触していた記録がある。……今回の襲撃にも、何らかの関与があるのは間違いない」

 胸に冷たいものが走る。

 (……避けては通れない。仲間にするにせよ、敵に回すにせよ――アナベルの存在は、必ず舞台に絡んでくる)


 胸の奥で記憶が疼いた。

 (いや……確かに。ゲームでも、表の舞台で必ずイベントの起点は彼女だった。裏の舞台でも、全ての鍵を握っている可能性は……)


 リリアーヌが喉を震わせ、愉悦に濡れた声を洩らした。

 「楽しくなりそうじゃない♡ 味方でも敵でも構わないわ。むしろ敵だったら……もっと面白いじゃない♡」


 エマは愕然とした顔でリリアーヌを見上げ、やがて狂気の色を帯びて頷いた。

 「……リリアーヌ様がそうおっしゃるなら」



 リリアーヌがゆっくりと立ち上がった。

 黒ヴェールをわずかにずらし、赤い唇を覗かせる。

 「舞台を続けるなら、役者はもっと必要だわ」


 その声に、エマが恍惚と答える。

 「リリアーヌ様のお望みなら……どこまでも」


 セドリックは冷たく切り捨てるように言った。

 「愚かな道化を増やしても意味はない。ただ――戦力は必要だ」

 その言葉に感情はなかった。ただ合理の刃だけが響いていた。


 私は胸の奥で呟く。

 (仲間が増える……まだ見ぬ役者が舞台袖に控えている)



 アジトの窓の外で、夜鐘が重く鳴った。

 四人は沈黙の中で、それぞれの決意を胸に刻む。


 誰もその夜を“始まり”とは呼ばなかった。

 だが後に――

《硝煙の契約コントラット・ディ・ポルヴェレ》と呼ばれる狂気の舞台は、ここから幕を開けたのだった。

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