表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/18

聖女の亡骸と、狂気の口づけ

 琥珀の匂いがまだ指に残っている。

 私とリリアーヌ様は、礼拝堂の奥――安置室に横たわる聖女の亡骸を前にしていた。


「……本当にやるんですか」

 乾いた声で問うと、彼女は唇の端を艶やかに歪めた。


「あたりまえじゃない♡ おつまみは新鮮なうちにいただかないと」


 セラフィーヌの顔は、死んでなお清らかだった。ヴェールに包まれた肌は白磁のようで、まるで眠っているみたいに美しい。

 だが次の瞬間――。


「あら? バカ女も黙っていればかわいらしいものね♡」


 リリアーヌ様は、頬に指を這わせ、唇を寄せた。

 ……死体に。

 濃厚な口づけが落とされ、血の気のない肌に紅が移った。


「っ……! ちょ、ちょっと何やってるんですか!」


「うふ♡ 冗談よ」


 くすくす笑ったかと思えば、手にした短剣が一閃――。

 刃は迷いなく、聖女の眼窩に突き立てられた。血が飛び、ヴェールが濡れる。

 その惨たらしさに吐き気を覚えながらも、私は目を逸らせなかった。


「あら♡ 手が滑っちゃったわ」


「……わざとですよね」


「うふふ♡」


 彼女はうっとりと血に濡れた頬を傾ける。心底愉悦に震える顔――狂気とエロスが同居するその表情に、思わず息を呑んだ。


「それじゃあ、仕上げるわよ」


 リリアーヌ様は、聖女の首を静かに刎ね落とした。

 美しい顔が床に転がり、濡れた音を立てる。


 ――これで準備は整った。

 聖女の遺体から毒を検出されれば、犯人探しは始まる。だが首をすげ替えてしまえば、真実はどこにも辿りつかない。犯人なんて存在しない――それが私たちの主義だ。


「じゃあ、あなたはそちらをお願いするわ。……怖かったら遠慮なく言ってね♡」


 リリアーヌ様の視線が向く。

 その先――猿轡をかまされ、椅子に縛られた令嬢エマがいた。

 本来なら今日、断罪で晒されるはずだった少女。だが、ここにいるのもまた計画のうち。


「大丈夫です。一人も二人も変わりませんから」


「んんーっ……!」


 エマは必死に身をよじる。リリアーヌ様は楽しげに目を細めた。


「あら♡ 何か言いたそうね。少しおしゃべりさせてあげるのも面白いかしら」


 彼女が顎で合図し、私は猿轡を外した。


「リリアーヌ様!! ありがとうございます!!」


 空気がひび割れたみたいに、その声は安置所に響いた。

 感謝。助命を嘆願する声でも、罵倒でもない。まっすぐな、感謝の叫び――。


 私は手の中のナイフを握り直した。

 柄が汗で滑りそうになる。刃先は静かな光を吸い込み、揺れた。喉が乾く。指が、震える。


(助けてくれてありがとうございます? ――誰が、何を?)


 エマの目は涙で濡れていた。恐怖はある。けれど、それだけじゃない。期待と、信仰に似た熱が灯っている。

 縄で痣だらけの手首を揺らしながら、彼女はノエルである私ではなく、リリアーヌだけを見上げていた。


「わ、私はわかっておりました。聖女の断罪は“見せ物”……本当の裁きは、こちらで行われるのだと。だから――ありがとうございます。人目のないところで、わたくしの言い分を聞いてくださるのだと……っ」


 違う。

 違うのに。

 口を開けば、砂を噛むような音しか出ない。喉が拒む。


「ノエル」

 背後から、絹を裂くみたいな声が降りてくる。

 リリアーヌが、愉しげに首を傾けて私を見ていた。ヴェール越しでも分かる。目が笑っている。艶やかな唇の端は、危険な弧を描いていた。


(やめてくれ――その顔は、駄目だ)


 心臓が痛い。

 さっき、彼女は“聖女の遺体”に口づけし、眼の穴へ刃を滑らせ、首を落とした。あの一連の所作は、罪悪という言葉では足りない美だった。私は引き、そして惹かれた。

 だが今――同じ熱が別の形で迫ってくる。目の前の女は生きている。私を真っ直ぐに信じている。助かったと思っている。私の動きひとつで、生から死に落ちる。


「……猿轡、戻しましょうか?」

声が頼りない。自分のものじゃないみたいだ。


「いいえ」

 リリアーヌは楽しそうに首を振った。

「聞けば聞くほど、あなたは殺しにくくなるもの。――ねえ、ノエル?」


 図星だった。

 刃が重い。

 さっき私は、祈りの手の形で毒針を押し込み、息の細った聖女の喉元を見送った。

 それは“台本を裏返すための仕事”だった。顔は見えなかった。祈りのヴェールが、私の視界から人間を    隠してくれた。

 今は違う。

 人の体温、人の声、人の言葉が、まっすぐ刺さってくる。


「リリアーヌ様……あの、わたくし、濡れ衣で……その……」

 エマの舌はもつれ、でも必死に並べる。

「秘宝の件も、わたくしではございません。噂でしかありませんが、王女殿下が酒席で――いえ、申し上げません。ですが、わたくしは……」


 言葉がノコギリの歯のように、私の手首を削いでいく。

 それでも、やるべきことは分かっている。分かって、いるのに。


「ノエル。手早くね」

 リリアーヌが指先で髪を払う。

 何もかもが舞台装置みたいに整っている。石台の上、冷えた白。床の端に広げた麻布袋。替えのヴェール。私のために用意された“役目”。

 私は一歩、エマへ近づく。刃が喉元の上、紙一重の高さで止まる。


「……痛くしない、のでしょうか」

 エマが問うた。怯えているのに、礼儀正しい。

「ほんの少しだけ――で、済むなら。わたくし、覚悟は……」


(やめろ、その言い方は。私の逃げ道を潰すな)


「ノエル」

 リリアーヌが、ずいっと覗き込む。

 至近で見る彼女の顔は、心底楽しそうだった。

 頬は上気し、瞳は熱を含み、唇は艶で濡れている。

 ゾクリと、背骨に冷たい電気が走る。嫌悪と陶酔の、境界線が崩れる。


「……どうして、そんなに楽しそうなんですか」

 吐き出した声は、自分でも驚くほど低かった。


「だって、あなたが可愛いから」

 即答。迷いが一つもない。

「一度手を染めた子が、二度目に震える顔――最高だと思わない? ほら。その指の震え、目の揺れ、呼吸の乱れ。ねえ、ノエル。あなたは今、“人間”よ。――この上なく」


 胸が焼ける。恥辱か、昂ぶりか。

 私は刃を下げ、床の石に刃先を軽く当てた。かちゃ、と乾いた音が響く。


「……私、やります。やりますから」

 言葉にして、自分を押し出す。

 エマの瞳が、私を映す。涙の膜が瞳を大きくし、縋るように震えた。


「どうか……お願い、いたします。ここから、出して――」


 私たちの計画では、“ここから出す”のは彼女の首。

 喉の奥が軋む。筋肉が固くなる。呼吸の音が、たがねで掘った溝みたいに耳に残る。


 刃を構える。

 肩の力を抜き、角度を測り、脈を外す位置を探す。

 近くで蝋燭がちり、と泣いた。


(できる。私にはできる。――さっきやった。あれは“正義”だった。これは“必要”だ)


 エマが、静かに目を閉じた。

 祈る形に指が組まれる。

 まるで自分が聖女になったかのように。


「……っ」

 腕の内側で、筋が反発する。

 刃が、わずかに下がる。

 視界の端で、黒いヴェールが揺れた。見られている。私は演じろ。舞台は続いている――分かっているのに、体が、動かない。


「ノエル?」

 甘い呼び声。優しくて、残酷。

 目だけで振り返る。

 リリアーヌは頬に手を当て、うっとりと私を眺めていた。

 その顔は、心底興奮した女の顔だった。

 色と熱でできていて、倫理が一滴も混じっていない。

 私は引いた。ぞっとするほど引いた。同時に、その美から目が離れなかった。


「……無理、です。今のままでは」

 やっと吐き出す。

「せめて――目隠しを。声を、聞きたくない」


「ダメよ」

 即答。

「震えるあなたを、ちゃんと見せて。――ねえ、可愛いノエル」


 喉が熱い。泣きたいのか、笑いたいのか、分からない。

 エマは目を開ける。黒目がちの瞳に、私の顔が歪んで映った。

「大丈夫ですわ。……きっと、こちらのやり方のほうが、正しいのですものね」


 ――やめろ。

 そんなふうに私を赦すな。

 赦されると、刃が振れない。罰としてやれるほうが、どれほど楽か。


 私は刃を上げ――止めた。

 呼吸が乱れ、視界が明滅する。

 床の上で、聖女の首が静かに眠っている。冷たい、完成された“死”。

 対して、ここにいるのは、温かい“生”。

 刃の先は、その境界線を越えるためにある。


「可愛いわね♡」

 リリアーヌが笑った。

 蕩けるような声。深い淫靡さと、子どもの無邪気が同居している。

「――あなたがやらないなら、私がやるわ」


 ヒールが石を鳴らす。

 黒い影が、私とエマの間にすべり込む。

 リリアーヌは私の手からナイフを奪い、愛おしむみたいに刃を撫でた。

 ヴェールの奥で瞳が細まり、口角が上がる。

 頬は薔薇色に染まり、呼吸は浅い。

 心底、愉しくて仕方がない――その顔。私はまた、引きながら惹かれた。


「待っ――」

 反射で腕を伸ばす。

 彼女は肩越しに笑い、囁いた。


「大丈夫よ、ノエル。あなたは“見ていて”。綺麗にやるから」


 刃が、炎を一筋すくって光った。

 エマの喉元に影が落ちる。

 石畳の冷気が、音を小さくする。

 蝋燭の火が、最後の瞬きをした。


――そして、刃が落ちようとした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ