聖女の亡骸と、狂気の口づけ
琥珀の匂いがまだ指に残っている。
私とリリアーヌ様は、礼拝堂の奥――安置室に横たわる聖女の亡骸を前にしていた。
「……本当にやるんですか」
乾いた声で問うと、彼女は唇の端を艶やかに歪めた。
「あたりまえじゃない♡ おつまみは新鮮なうちにいただかないと」
セラフィーヌの顔は、死んでなお清らかだった。ヴェールに包まれた肌は白磁のようで、まるで眠っているみたいに美しい。
だが次の瞬間――。
「あら? バカ女も黙っていればかわいらしいものね♡」
リリアーヌ様は、頬に指を這わせ、唇を寄せた。
……死体に。
濃厚な口づけが落とされ、血の気のない肌に紅が移った。
「っ……! ちょ、ちょっと何やってるんですか!」
「うふ♡ 冗談よ」
くすくす笑ったかと思えば、手にした短剣が一閃――。
刃は迷いなく、聖女の眼窩に突き立てられた。血が飛び、ヴェールが濡れる。
その惨たらしさに吐き気を覚えながらも、私は目を逸らせなかった。
「あら♡ 手が滑っちゃったわ」
「……わざとですよね」
「うふふ♡」
彼女はうっとりと血に濡れた頬を傾ける。心底愉悦に震える顔――狂気とエロスが同居するその表情に、思わず息を呑んだ。
「それじゃあ、仕上げるわよ」
リリアーヌ様は、聖女の首を静かに刎ね落とした。
美しい顔が床に転がり、濡れた音を立てる。
――これで準備は整った。
聖女の遺体から毒を検出されれば、犯人探しは始まる。だが首をすげ替えてしまえば、真実はどこにも辿りつかない。犯人なんて存在しない――それが私たちの主義だ。
「じゃあ、あなたはそちらをお願いするわ。……怖かったら遠慮なく言ってね♡」
リリアーヌ様の視線が向く。
その先――猿轡をかまされ、椅子に縛られた令嬢エマがいた。
本来なら今日、断罪で晒されるはずだった少女。だが、ここにいるのもまた計画のうち。
「大丈夫です。一人も二人も変わりませんから」
「んんーっ……!」
エマは必死に身をよじる。リリアーヌ様は楽しげに目を細めた。
「あら♡ 何か言いたそうね。少しおしゃべりさせてあげるのも面白いかしら」
彼女が顎で合図し、私は猿轡を外した。
「リリアーヌ様!! ありがとうございます!!」
空気がひび割れたみたいに、その声は安置所に響いた。
感謝。助命を嘆願する声でも、罵倒でもない。まっすぐな、感謝の叫び――。
私は手の中のナイフを握り直した。
柄が汗で滑りそうになる。刃先は静かな光を吸い込み、揺れた。喉が乾く。指が、震える。
(助けてくれてありがとうございます? ――誰が、何を?)
エマの目は涙で濡れていた。恐怖はある。けれど、それだけじゃない。期待と、信仰に似た熱が灯っている。
縄で痣だらけの手首を揺らしながら、彼女はノエルである私ではなく、リリアーヌだけを見上げていた。
「わ、私はわかっておりました。聖女の断罪は“見せ物”……本当の裁きは、こちらで行われるのだと。だから――ありがとうございます。人目のないところで、わたくしの言い分を聞いてくださるのだと……っ」
違う。
違うのに。
口を開けば、砂を噛むような音しか出ない。喉が拒む。
「ノエル」
背後から、絹を裂くみたいな声が降りてくる。
リリアーヌが、愉しげに首を傾けて私を見ていた。ヴェール越しでも分かる。目が笑っている。艶やかな唇の端は、危険な弧を描いていた。
(やめてくれ――その顔は、駄目だ)
心臓が痛い。
さっき、彼女は“聖女の遺体”に口づけし、眼の穴へ刃を滑らせ、首を落とした。あの一連の所作は、罪悪という言葉では足りない美だった。私は引き、そして惹かれた。
だが今――同じ熱が別の形で迫ってくる。目の前の女は生きている。私を真っ直ぐに信じている。助かったと思っている。私の動きひとつで、生から死に落ちる。
「……猿轡、戻しましょうか?」
声が頼りない。自分のものじゃないみたいだ。
「いいえ」
リリアーヌは楽しそうに首を振った。
「聞けば聞くほど、あなたは殺しにくくなるもの。――ねえ、ノエル?」
図星だった。
刃が重い。
さっき私は、祈りの手の形で毒針を押し込み、息の細った聖女の喉元を見送った。
それは“台本を裏返すための仕事”だった。顔は見えなかった。祈りのヴェールが、私の視界から人間を 隠してくれた。
今は違う。
人の体温、人の声、人の言葉が、まっすぐ刺さってくる。
「リリアーヌ様……あの、わたくし、濡れ衣で……その……」
エマの舌はもつれ、でも必死に並べる。
「秘宝の件も、わたくしではございません。噂でしかありませんが、王女殿下が酒席で――いえ、申し上げません。ですが、わたくしは……」
言葉がノコギリの歯のように、私の手首を削いでいく。
それでも、やるべきことは分かっている。分かって、いるのに。
「ノエル。手早くね」
リリアーヌが指先で髪を払う。
何もかもが舞台装置みたいに整っている。石台の上、冷えた白。床の端に広げた麻布袋。替えのヴェール。私のために用意された“役目”。
私は一歩、エマへ近づく。刃が喉元の上、紙一重の高さで止まる。
「……痛くしない、のでしょうか」
エマが問うた。怯えているのに、礼儀正しい。
「ほんの少しだけ――で、済むなら。わたくし、覚悟は……」
(やめろ、その言い方は。私の逃げ道を潰すな)
「ノエル」
リリアーヌが、ずいっと覗き込む。
至近で見る彼女の顔は、心底楽しそうだった。
頬は上気し、瞳は熱を含み、唇は艶で濡れている。
ゾクリと、背骨に冷たい電気が走る。嫌悪と陶酔の、境界線が崩れる。
「……どうして、そんなに楽しそうなんですか」
吐き出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「だって、あなたが可愛いから」
即答。迷いが一つもない。
「一度手を染めた子が、二度目に震える顔――最高だと思わない? ほら。その指の震え、目の揺れ、呼吸の乱れ。ねえ、ノエル。あなたは今、“人間”よ。――この上なく」
胸が焼ける。恥辱か、昂ぶりか。
私は刃を下げ、床の石に刃先を軽く当てた。かちゃ、と乾いた音が響く。
「……私、やります。やりますから」
言葉にして、自分を押し出す。
エマの瞳が、私を映す。涙の膜が瞳を大きくし、縋るように震えた。
「どうか……お願い、いたします。ここから、出して――」
私たちの計画では、“ここから出す”のは彼女の首。
喉の奥が軋む。筋肉が固くなる。呼吸の音が、鐫で掘った溝みたいに耳に残る。
刃を構える。
肩の力を抜き、角度を測り、脈を外す位置を探す。
近くで蝋燭がちり、と泣いた。
(できる。私にはできる。――さっきやった。あれは“正義”だった。これは“必要”だ)
エマが、静かに目を閉じた。
祈る形に指が組まれる。
まるで自分が聖女になったかのように。
「……っ」
腕の内側で、筋が反発する。
刃が、わずかに下がる。
視界の端で、黒いヴェールが揺れた。見られている。私は演じろ。舞台は続いている――分かっているのに、体が、動かない。
「ノエル?」
甘い呼び声。優しくて、残酷。
目だけで振り返る。
リリアーヌは頬に手を当て、うっとりと私を眺めていた。
その顔は、心底興奮した女の顔だった。
色と熱でできていて、倫理が一滴も混じっていない。
私は引いた。ぞっとするほど引いた。同時に、その美から目が離れなかった。
「……無理、です。今のままでは」
やっと吐き出す。
「せめて――目隠しを。声を、聞きたくない」
「ダメよ」
即答。
「震えるあなたを、ちゃんと見せて。――ねえ、可愛いノエル」
喉が熱い。泣きたいのか、笑いたいのか、分からない。
エマは目を開ける。黒目がちの瞳に、私の顔が歪んで映った。
「大丈夫ですわ。……きっと、こちらのやり方のほうが、正しいのですものね」
――やめろ。
そんなふうに私を赦すな。
赦されると、刃が振れない。罰としてやれるほうが、どれほど楽か。
私は刃を上げ――止めた。
呼吸が乱れ、視界が明滅する。
床の上で、聖女の首が静かに眠っている。冷たい、完成された“死”。
対して、ここにいるのは、温かい“生”。
刃の先は、その境界線を越えるためにある。
「可愛いわね♡」
リリアーヌが笑った。
蕩けるような声。深い淫靡さと、子どもの無邪気が同居している。
「――あなたがやらないなら、私がやるわ」
ヒールが石を鳴らす。
黒い影が、私とエマの間にすべり込む。
リリアーヌは私の手からナイフを奪い、愛おしむみたいに刃を撫でた。
ヴェールの奥で瞳が細まり、口角が上がる。
頬は薔薇色に染まり、呼吸は浅い。
心底、愉しくて仕方がない――その顔。私はまた、引きながら惹かれた。
「待っ――」
反射で腕を伸ばす。
彼女は肩越しに笑い、囁いた。
「大丈夫よ、ノエル。あなたは“見ていて”。綺麗にやるから」
刃が、炎を一筋すくって光った。
エマの喉元に影が落ちる。
石畳の冷気が、音を小さくする。
蝋燭の火が、最後の瞬きをした。
――そして、刃が落ちようとした。




