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聖女は死に、幕は裏返る

鐘はまだ遠い。

車輪が石畳を撫で、密室の空気に琥珀の匂いがほどけた。


――私の名はノエル・ラングロワ。転生者だ。

前世で遊び倒した乙女ゲームに、目を開けたら放り込まれていた。


筋書きはこう――平民の娘が聖女に担がれ、悪役令嬢を断罪し、王子たちに選ばれてめでたし。

ご都合主義でできた、退屈な一本道。私はそう思っていた。


でも、リリアーヌ・ド・ヴェルヌイユに会って分かった。

あのシナリオはただの表だ。

現実には、血や煙や金の匂いが絡み合う裏の舞台がある。


私は今、その裏側に立っている。

彼女と――契約で結ばれた共犯者として。

主従でも恋でもない。

彼女が台本を描き、私が血で頁をめくる。

それだけだ。


向かいの席で、黒いヴェールの女がグラスを上げる。

私も掲げ、澄んだ一音を咲かせた。


「――成功よ、ノエル」


「契約に従っただけです」


氷が小さく鳴る。

指先の震えは恐怖じゃない。昂ぶりの残響だ。


台本を裏返すには、まず聖女を消す必要があった。

聖女セラフィーヌは“正義の顔”に過ぎなかった。


王家と教会と商会が作る利権の看板。

断罪は政治装置であり、誰かの醜聞や欲を覆い隠す舞台装置。


だから彼女を公衆の前で、犯人不在のまま落とす必要があった。

舞台そのものを奪うために。


計画は三段構え――毒、狙撃、刃。


だが、どれも潰された。


杯の儀は急きょ中止。

狙撃の死角には衛兵が立ち塞がり、侍女の替え玉は封印の炎に炙られた。


偶然ではない。誰かが仕組みを読んで、潰した。


黒幕――。

その影を、私は群衆のざわめきの中で確かに感じていた。


けれど私は動いた。

奉仕女の芝居をまとい、擦れ違いざまに香を落とし、気を逸らしてヴェールを整えるふりで針を突き立てた。


ほんの一瞬の、アドリブ。

計画にない、衝動と昂ぶりだけで選んだ一手。


セラフィーヌが膝を折った瞬間――群衆は一斉に「神罰」と叫んだ。


悲鳴と鐘と祈り。

それは仕込んでおいた第四の手が火を噴いたのだ。


第四の手――“物語”の支配。


叫び屋を一人だけ紛れ込ませておいた。

「神罰だ」と最初に叫ぶ声があれば、群衆は雪崩のように同じ言葉を選ぶ。


鐘番には銀貨を渡し、二打目を合わせて鳴らさせた。

悲鳴と鐘と祈りが一つに束ねられれば、犯人は“神”になる。


第五の手――死体の行方の支配。


断罪の後、遺体は安置室を経由して搬出される。

封蝋は二重。外は枢機卿、内側は別の手。


導線そのものを押さえれば、証拠は消える前に私たちの手に渡る。


暗殺そのものは必然。

だからこそ死後の取り扱いまで奪って初めて、舞台は完全に私たちのものになる。


――だが、黒幕は違う筋を描いていた。


あの潰し方は偶然じゃない。

「聖女は死なない」という前提で動いていた。


だから、私の一刺しは彼らの想定外だった。

その瞬間、台本が二重に並び、そして食い違ったのだ。


琥珀を傾けながら、リリアーヌがヴェールの奥で笑った。

その笑みは冷ややかで、美しく、けれど――どこか震えていた。


「……素晴らしかったわ、ノエル」


低く囁き、彼女はグラスを置いた。

次の瞬間、ヴェールをずらし、赤い唇を晒す。


頬は紅潮し、瞳は熱に濡れ、吐息は甘く乱れていた。


「計画は潰されていった。杯も、狙撃も、刃も。あれは偶然じゃない。見えない黒幕が糸を引いていた」


彼女は吐息まじりに笑い、指先で自分の首筋を撫でた。


「けれど――その台本を、あなたが壊した」


瞳が射抜く。

昂ぶりと欲望と狂気が混ざった視線。


理性を飲み込み、獲物を愛でるように、同族を確かめるように。


「……本当に、最高にゾクゾクしたわ♡」


唇を噛む仕草。

それは泣き顔でも笑顔でもなく、ただ悦楽に震える女の貌だった。


血の匂いを酒で洗い流すように、彼女は熱に濡れた吐息を零す。


その顔を見た瞬間、私は理解した。

――この女は破滅すら愛している。

そして、その昂ぶりに私まで呑まれている。


「ところで――今どこに向かってるんですか?」


私が問うと、彼女はグラスをひらりと揺らした。


「ふふ♡ おつまみが欲しくなっちゃったの♡」


子どものように無邪気な、でも酷く色っぽい笑み。


「聖女の死体――見にいかない?♡」


ぞくりと背筋が震えた。

死体の処理。それは第五の手に刻まれた“本番”だ。


けれど、私にはもう一つの影がよぎった。


――黒幕は、聖女が死ぬことを想定していなかった。

それなのに、彼女は死んだ。


ならば、死体を巡って必ず動く。


その時、馬車の窓の外で、視線とぶつかった気がした。


夜気の奥。

燭台もないはずの路地の影に、わずかな光が二つ、瞬いた。

眼鏡のレンズに反射するような、冷たく計算された輝き。


狙われている――。


私の呼吸が止まる。

けれど、リリアーヌはヴェールの下で艶やかに歪めた。


「さあ、幕間は終わりよ。次の舞台を始めましょう――共犯者」


鐘はまだ遠い。

けれど、新しい幕の音は、もう耳の奥で鳴っていた。

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