赤樽の仮面たち
街路は夕刻の光で淡く濁り、酒屋の看板が油の膜で鈍く光っていた。
“赤樽”の正面は、いつも通り喧噪で満ちている。セドリックは表を素通りし、裏へ回った。
赤いピッチが飛沫になって煉瓦に固まっている。
配達用の台車の跡が、路地で消えている。通気口から甘さが混じる空気。――下がある。
扉は二重だった。外側の木戸は古いが、手入れは行き届いている。内側にもう一枚、金具の光沢が新しい。
セドリックは耳を当てる。中の空気がわずかに流れる音。人の呼吸の気配はない。手袋の上からノブを握り、工具を取り出す。
「……待たない。」
自分への命令。鍵穴に細い針を入れ、角度を切る。金具は鳴らさない。蝶番のネジは外さず、座金の歪みを逆に利用して圧を抜く。
“カチ”。ロックが退いた手応え。押す。冷たい空気が低く滑り出た。
階段を下りる。甘い香りが鼻に絡む。睡眠香の残り香だ。踏面の埃は薄い。――最近、複数が往来した。
最初の角を曲がったところで、彼は立ち止まった。通路の床が、光を細く跳ね返す。白い繊維――銀糸が一本、履き潰された靴に踏まれてほつれている。拾い上げて、指で弾く。ピン、と冷たい音。
「場所は割れた。赤樽の地下だ。……ノエル」
心の中で名を呼び、彼は奥へ進む。
◆
スラムの奥、石畳の欠けた角。
リリアーヌはレオナルドと並び、情報屋の扉を軽く叩いた。
「閉めてる」
擦れた声。隙間から見える目が、恐怖で狭くなる。
レオナルドがさりげなく棺の“蓋”を少しだけ開ける。中で仄かに光るのは、さっきの死体に刺さっていた銀糸の縫い目。
「ねえ。これ、誰が縫ったか、わかる?」
「……し、知らねえよ。知らねえったら」
「ほんとに? わたし、縫い目の声はよく聞こえるの。ねえ、“仮面師”の手じゃない?」
情報屋は目を逸らした。額に汗。
リリアーヌが微笑む。
「“お帰りください”は言わないほうがいいわ。ね?」
「……っ、やめろ。わかった。しゃべる。……“赤樽”の地下に、仕立て場があんだ。顔も声も、注文通りに“揃う”。金さえ払えば、なんでも、だ」
「金さえ、ね。――じゃあ、支払いは前払いかしら。それとも弱みで?」
リリアーヌの佇まいが、店の埃を一瞬で空気から消した。情報屋は両手を上げるしかない。
「今夜だ。入る。……“L”が、姫サイズの仕込みを運び込む予定だ」
「可愛いこと」
リリアーヌはくすりと笑って、レオナルドに視線だけを送った。
レオナルドが棺を閉じ、肩をすくめて笑う。
「はいはい、ご苦労さま。もうこれ以上は出てこないって顔ね」
リリアーヌは扇をたたみ、目元にかすかな笑みを浮かべた。
「ええ。充分よ。――ご苦労さま」
銃声は短く、乾いた響き。
情報屋の体が崩れ落ち、埃に混じって血の匂いが広がる。
リリアーヌは一度だけ視線を落とし、唇を赤く歪めた。
「物語に“余計な証人”は要らないもの」
赤樽の裏へ向かう途中、路地の角で短く風が揺らぎ、ジャスミンが薄く通った。
彼女はわずかに瞳を細めるが口元は不敵に微笑んだままだった。
◆
地下通路の先は小さなホールになっていた。壁に仮面。奥に“姫用”の小さなソファ。そして――髪飾り。ノエルのものだ。セドリックは拾い上げ、掌に収める。
「無事でいろ」
呟きが消えるより早く、気配が動く。
通路の陰から、二つ、低い呼吸。刃を持った体が、床の低い位置から滑るように寄ってくる。視線の高さは“刺突”の癖。セドリックは一足、斜めに踏み換えた。
「抵抗せずに殺される準備をしろ」
右手を空に切り、左の指先で“何か”を弾く。見えない糸が、光を細く帯びた。
ひゅ、と空気が鳴る。白い線が一瞬だけ形になり、暗殺者の喉元を水平に走り抜けた。遅れて、頭が静かに落ちる。
もう一人が背後から跳ぶ。セドリックは一歩も退かない。糸を“解く”。
見えない刃は、斜めの弧で空を縫い、踏み込んだ足首の腱を優しく断った。短い悲鳴。彼は喉の前で第二の糸を立て、叫びを切り落とした。
「私は信念に従うだけだ。お前たちの台詞はいらない」
床に血が広がる。甘い香りに鉄が混じる。セドリックは一呼吸だけ置き、通路の奥を見た。
「――見つけた」
扉の向こうに、人の息が一つ。ドレスの布の擦れる音はない。もう一つの呼吸は、浅く笑う。
彼は蝶番を外すのではなく、座金の方へ指を滑らせた。壊さず、外す。工具が音を立てない。
◆
同じ頃、赤樽の裏口。
レオナルドは扉に頬を寄せて匂いを嗅ぎ、金具へ耳を当てた。
「二重鍵。上は古い、下は新しい。可愛い子」
「開けて」
リリアーヌの声に、レオナルドが笑う。細い針が鍵穴に潜り、三秒。小気味良い音が二つ続く。
扉が、静かに、内側へ向かって呼吸をした。
◆
地下は、まだ静かだった。
セドリックは扉を押し、体を滑り込ませた。部屋の中央には、やはり“姫用”のソファが置かれていて、その前の床に、誰かが跪いた跡が残っている。ジャスミンが、ここだけ強い。
その時、奥の暗がりで、白い仮面が笑った気がした。
セドリックは瞬きすらしない。糸が、指先で音もなく起こされる。
――幕が、同時に揺れた。