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赤樽の仮面たち

 街路は夕刻の光で淡く濁り、酒屋の看板が油の膜で鈍く光っていた。

 “赤樽”の正面は、いつも通り喧噪で満ちている。セドリックは表を素通りし、裏へ回った。

 赤いピッチが飛沫になって煉瓦に固まっている。

 配達用の台車の跡が、路地で消えている。通気口から甘さが混じる空気。――下がある。


 扉は二重だった。外側の木戸は古いが、手入れは行き届いている。内側にもう一枚、金具の光沢が新しい。

 セドリックは耳を当てる。中の空気がわずかに流れる音。人の呼吸の気配はない。手袋の上からノブを握り、工具を取り出す。


「……待たない。」


 自分への命令。鍵穴に細い針を入れ、角度を切る。金具は鳴らさない。蝶番のネジは外さず、座金の歪みを逆に利用して圧を抜く。

 “カチ”。ロックが退いた手応え。押す。冷たい空気が低く滑り出た。


 階段を下りる。甘い香りが鼻に絡む。睡眠香の残り香だ。踏面の埃は薄い。――最近、複数が往来した。


 最初の角を曲がったところで、彼は立ち止まった。通路の床が、光を細く跳ね返す。白い繊維――銀糸が一本、履き潰された靴に踏まれてほつれている。拾い上げて、指で弾く。ピン、と冷たい音。


「場所は割れた。赤樽の地下だ。……ノエル」


 心の中で名を呼び、彼は奥へ進む。



 スラムの奥、石畳の欠けた角。

 リリアーヌはレオナルドと並び、情報屋の扉を軽く叩いた。


「閉めてる」


 擦れた声。隙間から見える目が、恐怖で狭くなる。

 レオナルドがさりげなく棺の“蓋”を少しだけ開ける。中で仄かに光るのは、さっきの死体に刺さっていた銀糸の縫い目。


「ねえ。これ、誰が縫ったか、わかる?」

「……し、知らねえよ。知らねえったら」

「ほんとに? わたし、縫い目の声はよく聞こえるの。ねえ、“仮面師”の手じゃない?」


 情報屋は目を逸らした。額に汗。

 リリアーヌが微笑む。


「“お帰りください”は言わないほうがいいわ。ね?」


「……っ、やめろ。わかった。しゃべる。……“赤樽”の地下に、仕立て場があんだ。顔も声も、注文通りに“揃う”。金さえ払えば、なんでも、だ」


「金さえ、ね。――じゃあ、支払いは前払いかしら。それとも弱みで?」


 リリアーヌの佇まいが、店の埃を一瞬で空気から消した。情報屋は両手を上げるしかない。


「今夜だ。入る。……“L”が、姫サイズの仕込みを運び込む予定だ」


「可愛いこと」


 リリアーヌはくすりと笑って、レオナルドに視線だけを送った。


 レオナルドが棺を閉じ、肩をすくめて笑う。

「はいはい、ご苦労さま。もうこれ以上は出てこないって顔ね」


 リリアーヌは扇をたたみ、目元にかすかな笑みを浮かべた。

「ええ。充分よ。――ご苦労さま」


 銃声は短く、乾いた響き。

 情報屋の体が崩れ落ち、埃に混じって血の匂いが広がる。


 リリアーヌは一度だけ視線を落とし、唇を赤く歪めた。

「物語に“余計な証人”は要らないもの」


 赤樽の裏へ向かう途中、路地の角で短く風が揺らぎ、ジャスミンが薄く通った。

 彼女はわずかに瞳を細めるが口元は不敵に微笑んだままだった。


 地下通路の先は小さなホールになっていた。壁に仮面。奥に“姫用”の小さなソファ。そして――髪飾り。ノエルのものだ。セドリックは拾い上げ、掌に収める。


「無事でいろ」


 呟きが消えるより早く、気配が動く。

 通路の陰から、二つ、低い呼吸。刃を持った体が、床の低い位置から滑るように寄ってくる。視線の高さは“刺突”の癖。セドリックは一足、斜めに踏み換えた。


「抵抗せずに殺される準備をしろ」


 右手を空に切り、左の指先で“何か”を弾く。見えない糸が、光を細く帯びた。

 ひゅ、と空気が鳴る。白い線が一瞬だけ形になり、暗殺者の喉元を水平に走り抜けた。遅れて、頭が静かに落ちる。


 もう一人が背後から跳ぶ。セドリックは一歩も退かない。糸を“解く”。

 見えない刃は、斜めの弧で空を縫い、踏み込んだ足首の腱を優しく断った。短い悲鳴。彼は喉の前で第二の糸を立て、叫びを切り落とした。


「私は信念に従うだけだ。お前たちの台詞はいらない」


 床に血が広がる。甘い香りに鉄が混じる。セドリックは一呼吸だけ置き、通路の奥を見た。


「――見つけた」


 扉の向こうに、人の息が一つ。ドレスの布の擦れる音はない。もう一つの呼吸は、浅く笑う。

 彼は蝶番を外すのではなく、座金の方へ指を滑らせた。壊さず、外す。工具が音を立てない。



 同じ頃、赤樽の裏口。

 レオナルドは扉に頬を寄せて匂いを嗅ぎ、金具へ耳を当てた。


「二重鍵。上は古い、下は新しい。可愛い子」


「開けて」


 リリアーヌの声に、レオナルドが笑う。細い針が鍵穴に潜り、三秒。小気味良い音が二つ続く。

 扉が、静かに、内側へ向かって呼吸をした。



 地下は、まだ静かだった。

 セドリックは扉を押し、体を滑り込ませた。部屋の中央には、やはり“姫用”のソファが置かれていて、その前の床に、誰かが跪いた跡が残っている。ジャスミンが、ここだけ強い。


 その時、奥の暗がりで、白い仮面が笑った気がした。

 セドリックは瞬きすらしない。糸が、指先で音もなく起こされる。


 ――幕が、同時に揺れた。

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