同じ顔の死体
何もない部屋が、逆に耳を刺した。
机も椅子も整然と並んだまま、争った痕跡は一つもない。
それがかえってセドリックの内側を苛立たせた。
「……くそっ」
怒りの矛先は曖昧だった。
任務を失敗した自分にか。
あの憎たらしいルシオにしてやられたことにか。
あるいは、仲間を危険に晒したことにか。
鼻腔をくすぐるジャスミンの甘さが、挑発のように思考を乱す。
セドリックは短く息を吐き、腰のナイフを抜いた。ためらいなく自分の腿へ突き立てる。
鋭い痛みが、ばらけた思考を一つに束ねる。
すぐに柄を抜き、血が滲む腿を布で巻いた。
左目に指先をあてがう。そこにはもう視界はない。
ほんの数日前に失った。失ったとき誓ったのだ。――二度と任務を落とさない、と。
まだ、失敗したと決まったわけではない。
腿の痛みと左目の疼きが、冷静を呼び戻していく。
◆
電流の合図を受け取ってから、ドアを開けるまで十秒。
その間、大きな物音はなかった。
入ってみれば、部屋は静謐そのもの。
「……ノエルは、まだ無事だ」
独り言に近い声。
机の配置も、床の埃も乱れていない。逃げ出した形跡もない。
十秒で人を連れ出すには、窓しかない。だが窓は施錠されたままだ。
「魔法……か」
ルシオはいつも本気を出さない。成績すら金で買う。
まともに魔法を使うところなど、一度も見たことがない。
奴の得意分野が何なのか、見当すらつかない。
「……油断した。交流して探るべきだった」
奥歯を噛みしめる。
ジャスミンの匂いが強い。アナベルの影がちらつく。
だが得体の知れない魔法の考察に時間を割くのは非効率だ。今は追跡が最優先。
◆
部屋をくまなく見渡す。
床の隅――焦げた匂いがした。
視線を落とせば、ドアの死角に小さな穴。下の階へ続いている。
膝をつき、指で縁をなぞる。煤がついた。
ノエルの魔法。間違いない。
「戦闘じゃない……これは、メッセージか」
穴の真下に移動する。
視線を巡らせれば、小道具の酒樽のひとつに焦げ目がある。
「酒樽……下、か」
確信が胸に刺さる。
酒場の地下に連れ去られた。
ノエルは、私に辿れと言っている。
「次にやることは一つだ」
ルシオの行きつけの酒場を洗う。
それだけだ。
◆
一方そのころ。
アジトを揺らしたのは、暗殺者たちの襲撃だった。
エマ・ド・ラフォレは白い裾を翻し、血を浴びながら跳ねる。
「あはははは♡」
無邪気に笑いながら、喉を突き、骨を砕き、返り血を浴びて舞う。
「代わり映えしないわね」
リリアーヌは退屈そうにシガーへ火をつけ、バーボンを揺らした。
艶やかなヴェール越しの眼差しは、血飛沫を景色としか見ていない。
「まあまあ♡悪いことじゃないわ」
レオナルドは黒い棺桶のような魔法を展開し、死体を丁寧に格納していた。
楽しげに口笛を吹きながら、鑑定の呟きを重ねる。
「ふむふむ……どれも似た筋肉の付き方ね。体格もそっくり」
死体の顔を確かめた瞬間、彼は声を裏返らせた。
「……ぎゃあっ!? ちょっと、なにこれ!? 昨日の執事と同じ顔じゃないの! 気持ち悪っ!」
リリアーヌは不敵に笑みを浮かべた。
シガーの先端が赤く揺れる。
「あら……やっと楽しくなりそうね」
彼女はグラスを置き、立ち上がった。
「レオナルド、行くわよ」
「お出かけですか! おねぇ様についていきます!」
弾む声で駆け寄るエマを、リリアーヌは軽く制した。
「エマ、あなたはここにいなさい」
「えええ!? こんなきしょいオカマ野郎と二人で行くんですか!? 危ないですよ!?」
「あらやだ! 失礼しちゃうわねぇ。元・国家錬金術師を舐めないでよ。三流の暗殺者なんて秒殺よ」
「はぁ!? 暗殺者なんか心配してねえよ! 糞キモカマ野郎がおねぇ様に何かするんじゃねえかって言ってんだよ!」
「こら♡ お口が悪いわよ、エマ。レオナルドは大丈夫。それに、あなたにはここを守ってほしいの。頼りにしてるわ、番犬さん♡」
「た、頼りにしてる!? ……わ、わかりました! アジトは私が守ります! ワンッ♡」
「あら、お利口で可愛いわね♡」
「てめぇに言ってねぇよ、糞カマ野郎!」
「うふふ、主人以外は警戒する番犬さんね♡」
挑発に乗らず笑うレオナルドに、エマは顔を真っ赤にした。
リリアーヌはシガーを指先で弾き、灰を落とした。
「……さて。おもてなしの準備をしましょうか」