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静かな衣装庫、誰もいない

 昼の鐘が二つ鳴って、廊下はいちだんと騒がしかった。

 胸元の留め具が緩い。指でいじっていると、横から手が伸びる。


「止まれ」


 セドリックが金具を整え、袖口のほつれを小さな刃で落とした。動きは要点だけで、余計な音がない。


「……ありがとう」

「午前と同じままでいい。落ち着け」

 彼は教室の窓の並びを一度見てから、短く言い足した。

「俺は外にいる。緊急時の合図は出入口のノブに触れろ。俺が外側を握る。指先で軽く電気を流せ。痺れたら入る。痺れなければ入らない」

「……わかった」

「怖くなったら、今のやり方で呼べ」


 掲示板には白墨の追記が並ぶ。

《三限:術式応用(臨時編成)/欠席多により席替》

 聖女が死んで三日。葬儀は終わっても、噂はまだ消えない。



 三限、術式応用。

「今日は防護陣の調律だ。席順で二人一組」

 教授の声と同時に、机上に淡い光の円が立ち上がる。


 隣の椅子が静かに引かれた。

「ご一緒していい?」

 ルシオ。柔らかい笑顔だ。私は半歩だけ椅子を引き、距離を作る。


 指先を円に置き、呼吸を合わせる。二つの波紋が重なって、外周に薄い輪が浮いた。成功。

「やるじゃない、ノエル。君、音の重ね方がきれい」

「記録、写します」

 数値を板に写し、席を立つ。引き上げるつもりだったが――


 ルシオが一歩だけ近づいた。声は終始やわらかい。

「人が多いと疲れるよね。少しだけ静かなところ、どう? コツ、ちょっとだけ」


(観察は続けたい。邪険にはしない)

「少しだけなら」


 教室の扉を出ると、廊下の向こうに黒い外套の影が見えた。ガラス越しにセドリック。

 視線が合う。私がわずかに顎を引くと、彼も同じ角度で頷いた。



 演劇部の衣装庫。布の匂い。細い通路の先に机と鏡。

 ルシオは引き出しから仮面を取り出し、軽く掲げる。


「ここ、音が吸われて落ち着くんだ。授業の続き、ほんの少しだけ。……あ、肩に埃。取っても?」

「自分でやります」

「そっか。ふふ、几帳面だ」

 仮面の縁を指で弾いて笑う。

「黒、似合うと思う。髪の色と相性がいい」

「ありがとうございます。」

「真面目だなぁ。じゃ、これ――一度当ててみて。サイズを見るだけだから」


 距離が詰まる。私は半歩だけ下がり、仮面を受け取って伏せた。

「当てません」


 笑みがわずかに薄れる。けれど声は柔らかいままだ。

「はは、構えすぎ。……ね、少しだけ本音。僕、昔から英雄になりたくてさ」

 仮面の縁を指でなぞりながら続ける。

「物語って単純でいいと思うんだ。悪い奴が出て、女の子を守って、助け出す。みんながほっとして、拍手する。……ああいうの、嫌いじゃない」

「それに――聖女ちゃん、死んじゃったね。悲しいよ、本当に」

 一度だけ目を伏せ、すぐ笑顔に戻す。

「彼女は僕を引き立てるヒロインとしても悪くなかったと思うんだ。でも、死んじゃうくらいなら向いてない。代役が要るよね」

「だから――お願い。僕のお姫さまになってくれる? 君なら絵になる」


(偶然じゃない。繰り上げで私を前に出し、人気のない衣装庫を指定し、仮面まで用意している。

 名簿に手が入った可能性が高い。言い回しも、観客の拍手から逆算して演出を組む人間のものだ。

 目つきが裏の現場だ。ここ数日で覚えた目だ。――私ひとりでは手に余る。嫌だけど、呼ぶ)


「配役はもう済んでいます」

 糸の張りを整え、仮面を机に戻す。

「私は袖で段取りを見る側。あなたを舞台に上げる予定はない」


 ルシオは一拍おいて、困ったように微笑んだ。

「手厳しいな。でも、その芯は嫌いじゃない」


 私は扉の内側のノブ――金属の座金に指を触れ、米粒ほどの雷を一度だけ走らせた。

 表から握っている手が、これでわずかに痺れるはずだ。

 同時に半歩ずれて肘で机をかすめ、仮面を落とす。銀糸が小さく鳴り、視線をそちらへ流す。


「今の光、なに?」

「空気が乾いてます。静電、すみません」

「ふふ、繊細だ」



 廊下側。

 ノブを握っていたセドリックの指先に、微かな電気が走った。

 彼は刃の腹を袖で拭い、鍵穴に細い針を入れる。角度だけを切る。音は出さない。

 カチ。ロックが外れる。押す。入る。



 ――誰もいない。


 机に仮面。床に銀糸。さっきまであった気配が、きれいに抜けている。

 私は喉が乾くのを自覚した。(いまの一瞬で、どうやって)


 セドリックは机に近づき、仮面を持ち上げた。

 紐に薄い紙片が結わえてある。淡いインク、丸い字。


『ノエルちゃんは僕がもらうよ —L』


 彼の呼吸がひとつだけ乱れ、紐が千切れた。握り直しの音が机に短く残る。

「……ルシオ」

 低い声が棚を震わせる。拳が木口を一度だけ叩き、埃が跳ねた。


 紙片を折り、内ポケットにしまう。振り返らない。足音だけが速くなる。

 静かな衣装庫。空。

 ――遅れて、鼻にジャスミンが薄く届いた。甘い香りだけが、最後に残った。

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