静かな衣装庫、誰もいない
昼の鐘が二つ鳴って、廊下はいちだんと騒がしかった。
胸元の留め具が緩い。指でいじっていると、横から手が伸びる。
「止まれ」
セドリックが金具を整え、袖口のほつれを小さな刃で落とした。動きは要点だけで、余計な音がない。
「……ありがとう」
「午前と同じままでいい。落ち着け」
彼は教室の窓の並びを一度見てから、短く言い足した。
「俺は外にいる。緊急時の合図は出入口のノブに触れろ。俺が外側を握る。指先で軽く電気を流せ。痺れたら入る。痺れなければ入らない」
「……わかった」
「怖くなったら、今のやり方で呼べ」
掲示板には白墨の追記が並ぶ。
《三限:術式応用(臨時編成)/欠席多により席替》
聖女が死んで三日。葬儀は終わっても、噂はまだ消えない。
◆
三限、術式応用。
「今日は防護陣の調律だ。席順で二人一組」
教授の声と同時に、机上に淡い光の円が立ち上がる。
隣の椅子が静かに引かれた。
「ご一緒していい?」
ルシオ。柔らかい笑顔だ。私は半歩だけ椅子を引き、距離を作る。
指先を円に置き、呼吸を合わせる。二つの波紋が重なって、外周に薄い輪が浮いた。成功。
「やるじゃない、ノエル。君、音の重ね方がきれい」
「記録、写します」
数値を板に写し、席を立つ。引き上げるつもりだったが――
ルシオが一歩だけ近づいた。声は終始やわらかい。
「人が多いと疲れるよね。少しだけ静かなところ、どう? コツ、ちょっとだけ」
(観察は続けたい。邪険にはしない)
「少しだけなら」
教室の扉を出ると、廊下の向こうに黒い外套の影が見えた。ガラス越しにセドリック。
視線が合う。私がわずかに顎を引くと、彼も同じ角度で頷いた。
◆
演劇部の衣装庫。布の匂い。細い通路の先に机と鏡。
ルシオは引き出しから仮面を取り出し、軽く掲げる。
「ここ、音が吸われて落ち着くんだ。授業の続き、ほんの少しだけ。……あ、肩に埃。取っても?」
「自分でやります」
「そっか。ふふ、几帳面だ」
仮面の縁を指で弾いて笑う。
「黒、似合うと思う。髪の色と相性がいい」
「ありがとうございます。」
「真面目だなぁ。じゃ、これ――一度当ててみて。サイズを見るだけだから」
距離が詰まる。私は半歩だけ下がり、仮面を受け取って伏せた。
「当てません」
笑みがわずかに薄れる。けれど声は柔らかいままだ。
「はは、構えすぎ。……ね、少しだけ本音。僕、昔から英雄になりたくてさ」
仮面の縁を指でなぞりながら続ける。
「物語って単純でいいと思うんだ。悪い奴が出て、女の子を守って、助け出す。みんながほっとして、拍手する。……ああいうの、嫌いじゃない」
「それに――聖女ちゃん、死んじゃったね。悲しいよ、本当に」
一度だけ目を伏せ、すぐ笑顔に戻す。
「彼女は僕を引き立てるヒロインとしても悪くなかったと思うんだ。でも、死んじゃうくらいなら向いてない。代役が要るよね」
「だから――お願い。僕のお姫さまになってくれる? 君なら絵になる」
(偶然じゃない。繰り上げで私を前に出し、人気のない衣装庫を指定し、仮面まで用意している。
名簿に手が入った可能性が高い。言い回しも、観客の拍手から逆算して演出を組む人間のものだ。
目つきが裏の現場だ。ここ数日で覚えた目だ。――私ひとりでは手に余る。嫌だけど、呼ぶ)
「配役はもう済んでいます」
糸の張りを整え、仮面を机に戻す。
「私は袖で段取りを見る側。あなたを舞台に上げる予定はない」
ルシオは一拍おいて、困ったように微笑んだ。
「手厳しいな。でも、その芯は嫌いじゃない」
私は扉の内側のノブ――金属の座金に指を触れ、米粒ほどの雷を一度だけ走らせた。
表から握っている手が、これでわずかに痺れるはずだ。
同時に半歩ずれて肘で机をかすめ、仮面を落とす。銀糸が小さく鳴り、視線をそちらへ流す。
「今の光、なに?」
「空気が乾いてます。静電、すみません」
「ふふ、繊細だ」
◆
廊下側。
ノブを握っていたセドリックの指先に、微かな電気が走った。
彼は刃の腹を袖で拭い、鍵穴に細い針を入れる。角度だけを切る。音は出さない。
カチ。ロックが外れる。押す。入る。
◆
――誰もいない。
机に仮面。床に銀糸。さっきまであった気配が、きれいに抜けている。
私は喉が乾くのを自覚した。(いまの一瞬で、どうやって)
セドリックは机に近づき、仮面を持ち上げた。
紐に薄い紙片が結わえてある。淡いインク、丸い字。
『ノエルちゃんは僕がもらうよ —L』
彼の呼吸がひとつだけ乱れ、紐が千切れた。握り直しの音が机に短く残る。
「……ルシオ」
低い声が棚を震わせる。拳が木口を一度だけ叩き、埃が跳ねた。
紙片を折り、内ポケットにしまう。振り返らない。足音だけが速くなる。
静かな衣装庫。空。
――遅れて、鼻にジャスミンが薄く届いた。甘い香りだけが、最後に残った。