執事の死が示す契約
布を剥いだ瞬間、冷気が胸に刺さった。
血に濡れた顔。刈り上げの生え際、耳の付け根の小さな黒子。常に磨かれた靴を支えていた、真っ直ぐな顎の線。
忘れようもない。学園の夜会で銀盆を揺らさずに歩いていた男。ルシオの執事だった。
彼の口元は半開きのまま固まり、瞳は虚空を映している。几帳面で無表情な顔が、いまはただの冷たい肉塊に変わっていた。
私は喉の奥に鉄が流れ込むような感覚を覚え、思わず短刀の柄を握り直した。
この死は偶然じゃない。仕組まれ、仕掛けられ、演出された死だ。
(ルシオ……。女好きで軽佻浮薄な貴族の息子。学園で悪名高い放蕩者。それでも聖女の攻略対象として用意された男)
脳裏に、前世で遊び尽くした乙女ゲームの場面が蘇る。
聖女とルシオが並んで歩く。笑い合う。そこに暗殺者が現れる。
刹那、ルシオが颯爽と剣を振るい、聖女を庇う――。
誰もが惚れる英雄の登場を飾る“デートイベント”。
(まさか……あの筋書きが、現実に歪んで現れている? 私たちは筋書きに押し潰されるのか?)
私は死体の懐に指を差し込み、固い羊皮紙を引き抜いた。
封蝋が爪に当たってかちりと割れ、甘い香が立ち上る。ジャスミン。だがその奥には、鉄を湿らせたような冷気が潜んでいた。
紙を開くまでの数秒が、異様に長く感じられた。汗が掌を濡らし、羊皮紙がじっとりと柔らかく変わる。
広げた瞬間、太い筆跡が目を刺した。
対象者:エマ・ド・ラフォレ
「わぁ♡ あたしの名前だぁ〜!」
背後から覗き込んだエマが、返り血を頬に貼りつけたまま、子供のように跳ねた。
そこに記されていたのは、処刑令ではなかった。――奴隷契約。
捕らえ、生かし、縛り、所有するための文言。
普通なら震え上がるはずだ。だが彼女は瞳を輝かせ、花束をもらったかのように無邪気に笑っている。
私は寒気を覚えた。血と文字の温度差に、吐き気がこみ上げた。
欄外に走る書き込み。筆圧が強く、払いが刃のように跳ねている。
見覚えがあった。王都の匿名投書。聖女を巡る流言。差出人不明の告発文。
(アナベル……。やはりおまえか)
ジャスミンの香を孕んだ封蝋。あの女が好んで纏っていた香りと同じだ。
リリアーヌが長椅子に腰掛けたまま、シガーを取り出した。
銀のライターを鳴らし、紫煙を吐き出す。白い指先で煙を弄びながら、唇の端を上げる。
「殺す気じゃなかったのね。生かして、縛る。……舞台に上げるために」
「やだぁ〜おねぇさま、こわい〜♡」
エマは羊皮紙をひと目見て、意味もわからないままリリアーヌの腰に抱きつく。血まみれの頬をヴェールにすりすり押しつけて、うっとりと甘えた。
「えさになってくれてありがとう。いい子ね♡」
リリアーヌの声は、紫煙に溶けるほど柔らかく、それでいて残酷だった。
「契約文は教会の標準だな」
セドリックが羊皮紙を受け取り、低く言った。声は無駄なく平坦。
「日付は空白。差し込めばいつでも発動できる。証拠を残す気はなかった……いや、むしろ意図的に残したか」
「やぁねぇ〜♡ 舞台裏を見せびらかすなんて、趣味が悪いわぁ」
レオナルドが死体の顎を持ち上げ、目を細める。
「でも素敵♡ 香りまで仕込むなんて、うふふ、芸術は細部に宿るのよぉ」
赤い舌で唇を湿らせながら、血に濡れた手袋をひらひらと振る。
「さぁ、お掃除の時間よ♡ 床が汚れてちゃ幕が閉まらないでしょ?」
指先から淡い光を散らし、死体の血をじわじわと吸い上げていく。掃除というより舞台装置の調整。狂気に染まった慈しみだった。
(ルシオの執事が暗殺者に紛れていた。契約書にはエマの名。そして筆跡はアナベル。二本の線が繋がった。けれど……なぜ今、この形で?)
私は奥歯を噛みしめた。
ゲームでは聖女のデートイベントで暗殺者が現れる筋書きがあった。英雄を立てるための襲撃。
けれど今は、血と死体が積み上がっている。筋書きが現実に侵入し、私たちを檻に閉じ込めている。
「結論はひとつ」
リリアーヌがシガーを灰皿に押しつけ、立ち上がった。最後の紫煙をゆるやかに吐き、艶やかに笑う。
「坊っちゃんを追う。舞台は学園。アナベルの糸は、そこから引きずり出せる」
「……了解だ」
セドリックが頷いた。声音は変わらない。だが私は知っている。
(ルシオと彼は犬猿だった。セドリックが冷徹を装っても、内心では歯噛みしているはずだ)
「わたし、えさしますっ♡」
エマが楽しげに挙手する。
「そう、最高のえさ。お人形はよく笑って、よく泣くのよ」
リリアーヌが頬を撫でると、エマは嬉しそうに喉を鳴らした。
「はぁい♡ じゃあ残りも片付けちゃうわねぇ〜」
レオナルドがしゃがみ込み、死体の髪を愛おしげに撫でる。
「灰ひとつ残さないわよ。幕間の小道具が散らかってたら、舞台が台無しだもの♡」
「芸術論はいい。作業に徹しろ」
セドリックが吐き捨てる。
「やだぁ♡ お堅いのねぇ。そういうとこ、嫌いじゃないわぁ」
遠くで鐘が二度鳴った。
私は短刀を拭い、鞘に収める。セドリックは外套を正し、エマはリリアーヌに頬ずりを続ける。
リリアーヌは空のグラスを掲げ、底に残った一滴を揺らして見つめていた。
「――照明を借りるわ」
彼女だけが詩人のような言葉を許される。
「観客が多いほど、嘘はよく燃える」
私は息を整え、頷いた。
(戻るのか。学園へ。喝采と噂の箱庭に。今度はもう、モブじゃない――共犯者として)
こうして私は、再び学園へ戻ることになった。