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無気力で幽霊みたいな後輩の世話を焼いたら、なんだか懐かれたらしい

作者: 藤崎珠里

 幽霊みたいな女の子だな、と一目見て思った。黒く真っ直ぐな長い髪、青白い肌、黒目がちな大きな瞳。

 真夏の公園のベンチに、彼女は無表情で座っていた。

 普通なら放っておくところだが、彼女の着ているセーラー服はうちの高校のものだった。放課後とはいえ日差しは強く、これで熱中症になられでもしたら寝覚めが悪い。


「……あの、大丈夫? 体調悪い?」


 おそるおそる声をかけると、彼女はゆっくりと俺を見上げた。無表情。無言。

 ……まさか本当に幽霊じゃないよな。

 ちょっと怯える俺を、彼女はじっと見つめ続ける。


「…………もしかして返事できないくらい意識朦朧?」


 彼女の顔の前で手を振ってみると、ようやく口を開いてくれた。


「すみません、お気になさらず……」

「いや気にしないのはちょっと無理あるかも」

「体調は、悪くなくて……返事がすぐにできなかったのも、人見知りなだけで……緊張して……。急に話しかけられて、びっくり……しちゃって」

「お、おう、それはごめん」


 びっくりしてたのか、さっきの。


「でもこんな日がガンガン当たるとこにいたら、今は大丈夫でも絶対体調悪くなるって。水分とってる?」

「あまり……」

「いやそれ絶対やべーよ。なんかここにいなきゃいけない用でもあんの?」

「いえ、空がすごく青くて……ちょっとゆっくり見ようかと思ったら、見惚れて……動くのがめんどくさくなっちゃって」


 言われてつい、空を見上げる。確かに青い。すっげぇ青い。入道雲とのコントラストがばっちり決まっていた。

 夏は割と白っぽい青空が多いイメージだから、こんなに濃い青は珍しいかもしれない。


「あー……まあ、わかんなくもないけどさ。熱中症なったらもっとめんどくせーよ」

「……はい」


 うなずいて、彼女はおもむろに立ち上がった。意外と背が高くてびっくりする。173センチの俺とそんな変わんねーかも。


「大丈夫? ふらふらとかしない?」

「大丈夫、です……」


 喋り方的に大丈夫じゃなさそうな気もするが、まあ普段からこの喋り方の可能性もある。

 それを気にしてるようだったら初対面の奴に指摘されるのも嫌だろうし、「ならよかった」とだけ返しておく。


「家、この辺?」

「あそこの……ピンクっぽい屋根の家です」


 めちゃくちゃ普通に目視できる家だった。

 いやこの距離動くのをめんどくさがるなよ。近いから帰るのはいつでもいいか、ってなって逆にめんどくさいのかもしんねぇけどさぁ……。


「あー……送る。ってほどの距離でもねーけど、送るよ。途中でまためんどくさくなって、今度こそ熱中症になられてもアレだし」

「……親切、すぎません? 壺は買わないです……」

「売らねぇよ、失礼だな。冗談言う余裕あるようなら大丈夫だろうけど……いや、え、もしかして本気か? 俺壺買わせようとしてる奴に見えんの? 同じ学校の制服着てんのに?」


 人畜無害そうな見た目だという自負があったが、もしかしてむしろそれが怪しいのか。

 ちょっとショックを受けていると、目の前の少女はくすっと笑った。人間味のある表情だった。


「ふ、ふふ、冗談、です……。すみません」

「……よかった、幽霊じゃなかった」

「失礼の、仕返しですか……?」

「いや、今のはつい出ただけ。ごめん。歩けるようならさっさと行こう、暑くて溶けそう」


 促すと、彼女は素直に歩き出した。その足取りに、見ていて不安になるようなところはない。

 特に会話も不要なくらいの距離だったので無言でいたのだが、彼女はおもむろに口を開いた。


「あの……わたし、(くちなし)、です……。一年生です」

「あ、後輩? 俺は星見(ほしみ)、二年だよ」

「星見、せんぱい。……なんでわたしに、声をかけたんですか……?」

「この季節にあんなとこでぼうっとしてる同じ高校の奴いたら、そりゃあ声かけるだろ」

「……すごい、ですね」


 人見知りの人間からしたら確かにすごいと思えることなのかもしれない。

 どうも、とお礼を言えば、彼女は念押しするように「すごいです……」と繰り返した。そんな感銘受けるようなことか?


 会話はそのくらいで終わり、梔の家に程なくして着いた。


「じゃ、入ったら水分と塩分とれよ」

「ありがとう、ございます……」


 家に入るところまでは見届けようと思ったのだが、梔は鞄をごそごそと漁った後、首をかしげた。再びごそごそやり始める。

 そして諦めたように鞄を元どおり持ち直し、俺のほうを向いた。


「えっと……せんぱい、ありがとうございました……。さようなら」

「家の鍵なくした?」

「い、え……そんなことは……」

「ふーん? 早く家入ったら?」


 えっと、あの……と梔はもごもご言っていたが、やがて観念した。


「なくした、かもしれません……」

「親帰ってくんのいつ?」

「……十九時、くらい?」

「俺がこのまま帰っても、どっかファミレスとか避難できる?」

「でき、ます……」


 思いっきり目をそらして言われても信用できるわけがない。出会ったばっかで何が判断できるんだ、という話ではあるけど。

 うーん……まあ用事もないし、ここまで付き合ったならどっか涼しい場所に送り届けるのも同じか。


「じゃ、行こ。あ、親に一応連絡しとけよ」

「……え?」

「腕掴んでもいいなら、引っ張ってくけど。どっちがいい?」

「え……? まだ、付き合ってくださる……んですか?」

「行くとこまでな。夜まで一緒に待ったりはしねーよ」

「それ、されてたら……申し訳なさで、お金払いたくなります……」

「しねぇから安心しろって。人見知りなら、会ったばっかの奴とファミレスとか気まずいだろ」


 俺は別に、初対面の奴ともテキトーに話すタイプだけど。

 梔は目を瞬いて、なにやら口をもごつかせた。


「……すごく世話焼き、ですね?」

「は、なにが? ……俺が?」

「あまりに……親切で」


 だからって『世話焼き』って、なんていうか……あんま日常会話で使わなくね?

 親切より若干含むとこがある気がする。呆れられてるような……呆れるなら俺のほうだろ、これは。


「とりあえず歩きながら話そ、じっとしてんの暑すぎ」


 じりじりと太陽に頭を焼かれ続けるのもさすがに耐えがたくなってきた。


「腕は? 掴んでいいの?」

「え、えっと、はい……?」


 了承を得たので遠慮なく、手首よりちょっと上の部分を握って歩き出す。

 ひやっとした体温は、とても夏場に外にいた人間のものとは思えない。しかもほっそ……骨みてぇ。

 さわれるからかろうじて幽霊じゃないにしても、だいぶ怪しいところだ。

 引っ張られてよたよた歩く梔は、無表情で「わ……わ、」と声を漏らしている。


「梔ってそんな無気力? って言い方でいーのかな、そんなんで今までよく生きてこれたな」

「い、意外と……なんとか、なってきました。今日も……体調、悪くなったら、ちゃんと帰る……つもりで」

「そ? じゃあ余計なことしたな。空、まだ見てたかっただろ」

「…………いえ」


 何か言いたそうな否定だったが、特には突っ込まずに会話を終える。

 無言で歩き、近くのファミレスに到着。


「ここまで来ればもう平気?」

「……平気、です。せんぱい、ありがとうございました」

「どーいたしまして。ちゃんと面倒くさがらずに帰んだぞ」


 はい、とうなずいた梔がファミレスに入っていく。

 ……帰るか。なんも用事ない日でよかった。



     * * *



 それからというものの、梔とは校内でよく遭遇するようになり、必ず声をかけてくるようになった。

 なんだか懐かれたらしい。


「せ、せんぱい……この前はありがとう、ございました……」

「おー、どういたしまして。無事帰れた?」

「はい……!」


 そんな会話から始まり。


「……せんぱい! えと……あの……す、好きな食べ物はなんですか?」

「ええ……? 特に好き嫌いなくなんでも食べるよ」

「そう、ですか……」


 なにかの調査のように、趣味嗜好を訊かれるようになり。


「……せんぱい。お誕生日はいつ、ですか……?」

「四月四日」

「と、遠い……! しかも、春休み中……?」

「梔はいつなの?」

「……来週、です。あっ、でも、お祝い、していただきたいから話題に出したわけじゃ、なくて……! わたしの誕生日は、どうでもよくて……」

「……そう?」



「あ、せんぱ――」

「あ、誕生日おめでとう」

「ひっ……」

「あんま祝ってほしくなさそうだったけど、コンビニ菓子くらいなら気になんない? 甘いのとしょっぽいの、どっちがいい?」

「……え、あの……じゃあ……こ、こっちで……」

「ん、どーぞ」

「…………ありがとう、ございます……」



 そんな感じで、ほぼ毎日会話をした。

 友人には「大丈夫か? ストーカーされてね?」と心配もされたが、遭遇率以外おかしなところもない。大丈夫だよ、と言えば呆れられた。

 遭遇率がおかしい時点で気にすべきなのかもしれないが……別に迷惑でもないしなぁ。気持ち悪いとか、怖いとかも感じない。


 だから普通に対応していたのだが、ある日梔から直接「気持ち悪く、ないですか……?」と訊かれてしまった。


「こんな、待ち伏せ……みたいなこと、されて」

「特には。俺のいる場所予想できんのはすげーなって思うけど」

「せ、せんぱい……意外と、危機感がない……?」

「梔危ないの?」

「あぶな……くは……ない、と思います」

「じゃあ別に問題ないな」


 あっけらかんと言う俺に、梔はもごもごと口を動かす。何か言いたいことがあったんだろうに、諦めたのか小さくため息をついた。


「怖がったほうがよかった?」

「……そう、ですね。心配に、なります……」

「うーん……じゃあ、俺が怖いからもうやめてって言ったら、梔は俺に会いにくるのやめんの?」


 えっ、と声を漏らして、梔は固まってしまった。意地悪な質問だったかもしれない。

 別にこの質問の答えが何であっても俺の対応は変わらないのだが、一応答えを待つ。

 梔はやがて、泣きそうな顔でうつむいた。


「……やめ、ます。会えなくなっても……せんぱいの、心の平穏のほうが……大事、です」

「そっか、ありがと。なら、もしもやめてほしくなったら言うから、それまでは今までどおりで大丈夫だよ」

「! わ、わかりました、ありがとうございます……!」


 こくこく、どことなく必死な様子で梔はうなずく。


「それで、今日の質問はそんだけでいいの? 他に訊きたいことある?」


 次の授業が始まるまで、もう一つ二つくらいの質問に付き合う時間はあった。

 俺の確認に、梔は緊張した面持ちで息を吸った。


「……せ、せんぱいって……どんな女の子が好きですか」


 ――前言撤回である。この質問に真面目に向き合う時間は残っていない。

 いや、まずは様子を見よう。それ次第では、予定どおりこの休み時間内に終わらせられる。

 今度は俺が、慎重に息を吸った。


「……違ったら悪いんだけど、梔って俺のこと好きだったりする?」

「はい」


 見事なまでの即答だった。

 ……反応を見ようと思っただけで、こんなはっきり返されるとは思ってなかったんだけど。予想外すぎるわ。

 絶句する俺に、梔は慌てて言い募る。


「でも、これは……質問に答えた、だけなので。告白じゃないので、返事は……しないで、ください」


 これも予想外。

 好きかどうかの確認に肯定が返されたのに、告白ではないから返事はしないでほしいという。……そんなの、アリなのか?

 いやまあ、返事しないでくれっていうなら……できねーけど……。

 しぶしぶながらも「わかった」とうなずいてから、考え込む。


「好きな女の子、ねぇ……」


 時折話題になるやつだ。

 どんな女子が好きか。クラスの奴だったら誰と付き合いたいか。ランキングをつけるとしたら?

 積極的に参加したことはないが、場の空気を壊さないために、訊かれたら適当に答えてきた。


 でも今ここで適当な返事をするのはまずいだろう。

 かといって、思いつく答えもない。


「……一旦保留」

「え……!?」

「ちゃんと話すと授業までに終わらないだろうし、また別ん時に話そ。今日の放課後とか時間ある?」

「あ、あります……けど……!?」

「なら、六時間目終わったら校門待ち合わせな。じゃあまた放課後に」

「えっ、ぁ……? ま、また……」


 困惑しっぱなしの梔を置いて教室に戻る。

 教室の位置としては、一年より二年のほうが昇降口に近い。授業が終わって速攻で向かえば、暑い中待たせることにはならないだろう。


 そして滞りなく残りの授業を終え、急ぎ足で校門に行く。

 やや遅れてやってきた梔は、相当急いだのか息が切れていた。

 ……やっぱ教室まで迎えにいく形式のほうがよかったか? いや、過度な期待は持たせたくないしな……。


「お、お待たせ、しました……!」

「全然待ってないよ。行くか。この前のファミレスでいい?」

「ひゃい……!」


 結構時間が経ったのに、まだ困惑が残っているらしい。

 これ、もしかして授業集中できなかったんじゃないか? 悪いことしたな……。せめてもうちょい説明しとけばよかった。

 そう後悔したところで遅いので、とりあえず梔と一緒にファミレスへ向かう。


「さっきの質問には、もっと時間かけて答えたくて。返事はしない、つもりでいるから安心して」

「……いえ、あの……もし、せんぱいが、今の段階で返事をしたかったら……しても、いいです。返事はしないでくださいなんて、わたしがお願いできることじゃ……なかった、です」


 困惑しているなりに、梔も考えを整理していたらしい。苦しそうに言葉を吐き出す。

 むしろ梔以外の誰がお願いできることなんだ、と思ったが、それを口に出すと茶化しているように聞こえてしまうかもしれない。呑み込むしかなかった。


「……返事、されたくないんだろ。だったらしないよ。これから話すこと、もしかしたら梔には『返事』に聞こえるかもしんないけど、俺にそのつもりはないってことはわかっておいて」

「……はい」


 ほんとにわかったのかな。わかってなくてもまあ、いいけど……。

 それ以上特に会話もなく、ファミレスに到着する。席に案内されてから「奢るから好きなの頼んでいーよ」と言ったら、動揺のあまりかほぼ聞き取れない言語でめちゃくちゃ恐縮された。


「いや、ほんと気にしないでいいから。バイトもしてるし」

「バ、バイト……されてるんですか!?」


 新情報への食いつきがすごい。


「ち、ちなみに……どちらで? いえ、あの、場所を訊いてる、わけじゃなく、カテゴリだけ……教えていただければ……!」

「蕎麦屋」

「ひっ、飲食店と答えていただくだけでも、嬉しかったんですが……! お蕎麦屋、さん……」


 蕎麦屋って答えて「ひっ」って悲鳴上げられんの、ちょっとおもしろいな……。

 俺が笑いそうになっている間に、梔は両手をぎゅうっと口の前で握って、はーーーと息を吐いていた。


「意外でびっくりした?」

「びっくり……です、が、その……噛み締め、て? います」

「噛み締めてるんだ」

「そう、です」

「……なにを?」

「…………わたしの中のせんぱい像、を?」


 首を捻って答える梔。梔にもあまり言語化できないことらしい。

 ふーんと納得すれば、梔は安心したように噛み締めタイムを続けた。


 その間にメニューを開いて、俺の分の注文を決めておく。

 って言っても、別に腹が減っているわけでもないのでポテトを一皿。

 メニューを梔のほうに向けて置くと、梔ははっとしたようにそれに手を伸ばした。


「す、すみません……えっと、ええっと……あんみつ、で……」


 二人分の注文を済ませ、改めて向き直る。


「……梔はさ。俺の好きなタイプ聞いたら、そうなれるように頑張るの?」

「頑張り、ます……!」

「…………うーん」


 正直、好きなタイプとか本当に、マジで、ぜんっぜんわからない。

 けれど俺がそう答えたところで、きっと梔は世間一般的に好かれる女の子を目指して頑張るんだろう。

 梔が今のままだとしても、変わったとしても、俺が彼女のことを好きになれるとは限らない。むしろ好きになれる可能性は限りなく低いだろう。


 だからと言って、答えない選択肢は俺の中には存在しなかった。


 結局何も思いつかず、ただ正直な答えを口にする。


「……俺、好きな奴できたことないし、こういう人好きだなって思ったことも一回もないんだ。だから好きなタイプとかわかんない、っつーかたぶん、そもそもないんだと思う」

「じゃ、じゃあ……嫌いなのはどんな人、ですか!? そうならないように、気をつけます……」

「嫌い……も……わかんねーんだよな……」


 他人に対して、嫌いだと感じたことがない。イラつくこともなかった。大多数の人間にとってはイラつく場面だろうな、と予想することくらいはできるが。

 しかし、違う価値観のもと生きてる人間にイラつく必要性を感じないのだ。この人はそういう人なんだと納得するだけで終わる。


 もしかしたら昔は、なにかを嫌ったりイラついたりすることもあったのかもしれない。イヤイヤ期とか絶対あっただろうし……。

 とはいえ、自我がはっきりしてからの思い出せる範囲にはなかった、と思う。


「す……すごい、ですね。だからわたしにも、こんなに親切にできるんだ……」


 感嘆したように、梔は吐息を漏らす。そして、「うらや……」と言葉を続けようとして。

 ぱっと、その口が、梔自身の手によって塞がれる。


 三音で十分に予測できる言葉だ。残る音のほうが少ないくらいなのだから、塞ぐ意味もない。

 だけどなぜか躊躇いがあるようなので、羨ましい? と俺のほうから尋ねるのはやめた。ただ待つ。

 梔はうろうろと視線を泳がせていたが、やがて手を下ろした。


「……羨ましいって、言われるの……嫌、ですか?」

「嫌ではないよ。っていうか、特にどうとも思わないかな」

「……そう、ですか」


 梔はあからさまにほっとした。


 店員さんがあんみつとポテトを運んでくる。

 真剣な話をしている最中だったが、温かい内につまませてもらう。それにならうように、梔もスプーンを持った。


 物を食べているときに話すつもりはないらしく、梔は黙々とあんみつを食べ切った。

 ごちそうさまでしたと小さく手を合わせてから、彼女はぽつぽつ話し始める。


「わたし、世界に嫌いなものが……多くて。物の悪いところを見つけるのが、得意……なんだと、思います。

 全然、楽しくないんです。……嫌なことばっかり、考えてしまって。そんな自分を、嫌いになるばっかりで……」


 だから、と彼女は俺の目を真っ直ぐに見た。


「だから、嫌いなものがないせんぱいが、羨ましい、です……」


 羨ましいと思った、その理由まで話してくれなくても、別によかったんだけど。そこは彼女の誠意みたいなものなのかもしれない。

 ……羨ましい、と言われたときの正しい反応はいったいなんだろう。

 お礼を言うのも、謝るのもきっと違う。


 数瞬悩んだ末、結局「そっか」というつまらない返事になってしまった。

 けどこれで終わらせるのもあんまりだと思ったので、言葉を続ける。


「じゃあ逆に、梔、好きなものなに?」

「へ? え、えっと……青空と……猫と…………」


 真っ先に挙げられるのが青空なら、真夏に水も飲まず見惚れるのも無理はない。……ないか?

 言葉を途切れさせた梔は、これ言っていいのかな、という顔をしていた。最近表情がなかなかに雄弁になってきた気がする。


「青空と猫と?」


 促すと、諦めたように続けた。


「……あとは、せんぱい、くらいです」


 好きなものが三つだけ。青空と猫と、俺だけ。

 そのラインナップに俺が入るというのは、なんだか不思議だった。いや、好かれてるってことは事前にわかってたんだし、わざわざ促してまで聞くことなかったか。


「あんみつは? 好きじゃないの?」

「……嫌い、ではないですが……特に、好きなわけでは?」

「じゃあ猫カフェとか誘ったほうがよかったか。……いや、そしたらゆっくり話すのとか無理だったな」

「せっ、せんぱいと……一緒にいられるだけで、うれしい、ので。どこだっていいです。どこだって、せんぱいといる間だけは……好きな場所に、なると思うので」

「……そういうもんなんだ?」

「そういうもの、です……」


 神妙にうなずく梔。

 ふむ、と俺は考え込むついでに、氷が溶けてできた水を一口飲んだ。


「んー……なんていうか、上手く言えないけど。好きなものがそんなにはっきり決まってるほうが、俺は羨ましい……かも?」


 かも、と付けなければいけないのが情けない。

 でも、好きなものも嫌いなものもわからないより、好きなものはこれ、と決まっているほうがいい気がした。


「あ、ごめん、嫌だったか?」


 さっきの会話的に、梔はこういうことで羨ましいと言われたくなさそうだ。考えなしに発言してしまった。

 とっさに謝ると、梔はぶんぶんと首を横に振る。


「嫌じゃ、ないです! せんぱいに言われることで……嫌なことなんて、ない、です……」


 いつの間にそこまで好かれていたのか、皆目見当がつかなかった。


「むしろ……そう言ってくださる、せんぱいのこと、もっと……好きになりました」

「そういうもんなのか……」

「そういうもん、です」


 なるほど、と相槌を打つ。なんとなくわかったような、わからないような。

 でも、この子は本当に俺のことが好きなんだな、ということだけは、実感として胸の中に広がっていった。


「……とにかく、好きな人も嫌いな人もよくわかんないから、梔のこともたぶん好きになれないと思う」

「……は、はい」

「それでも俺のこと好きでいたほうが楽しいなら、返事が欲しくなるまでは、俺のこと好きでいて。返事求められたら振っちゃうと思うけど」


 今日一番言いたかったことはこれだ。

 返事が欲しくないというのが本心なのであれば、俺にはこれしか言えない。

 本当は、「ちょっとでも楽しくなくなったら、俺のこと嫌いになって」とも言いたいけど……嫌いなものが多いことに苦しんでいる梔に渡せる言葉ではない。


 梔は、呑み込みに時間がかかっているようだった。

 ぎこちなく首をかしげ、「それは……」と小さくつぶやき、それきり口を閉ざす。

 俺なりによく考えた答えだったが、伝わるだろうか。


 固まっている梔に断って、水を新しくついでくる。もうそろそろお開きになるかもしれないが、そうなったら一気に飲めばいいだけだ。


「……せんぱいは……」

「うん」

「……せんぱい、は」

「ん」


「――やっぱり、素敵な、人です……。わたしにとって、素敵な人です」


 少し言い方を変えたうえで、重ねて言ってくれる。きっとわざとだろう。俺が否定できないように。

 別に否定する気もなかったんだけどな。……心の中では否定しただろうから、梔はそれが嫌だったんだろうか。


「そっかあ」

「……ふふ。あはっ……好きな人がいるって、楽しい、んですね……そっか、楽しかったんだ、わたし……」


 何かがツボにはまったのか、梔は口元を押さえてくすくすと笑う。ほんのりと頬も染まっていて、幽霊にはまるで見えなかった。

 楽しくない、の反対は、楽しい、だと思った。だって、俺と一緒にいるだけで好きなものが増えるのなら、嫌いなものが多くて楽しくない世界は楽しい世界に変わるだろう。

 そう考えただけだったのに、梔にとってはそんな単純な話ではなかったのかもしれない。


「好きです、せんぱい。返事は、しないでくださいね」

「梔がそう言う限り、しないよ」

「……絶対、ですよ。約束です」

「うん、約束な」


 指切りでもしとくか? と小指を差し出したら、滅相もないと断固として拒否された。そんなに嫌か、指切り。



     * * *



 梔はまったく返事を求めてこなかった。

 少しだけしゃべって、俺のことを少し知るたび、楽しそうに笑う。それだけの日々が続いた。

 本当にただそれだけの日々が、約一年半。いつのまにかもう、今日が卒業式である。

 二年生も参加は必須だから、帰り際とかに話しかけられるだろうか。

 それがもしかしたら、梔との最後の会話になるかもしれない。もう結構長い付き合いになるというのに、俺たちは連絡先すら交換していないのだ。


 ……卒業したら、もう関わりもなくなるかもな。

 俺の進学する大学がどこかは一応言ってあるが、さすがにそれで自分の進路を決めるようなことはしないだろうし。



 つつがなく式が終わった後、体育館の中が記念撮影会のようになる。

 あちこちでみんなが写真を撮っていた。俺もクラスメイトと、あとは委員会が同じだった奴らと撮った。部活は入っていなかったから、枚数としては大分少ないが。


 委員会の後輩からネクタイを求められたりもしたが、念のため断った。

 あげるとしたら、梔が一番いいと思ったから。



「…………あの、せんぱい」


 体育館が閑散とし始めたころ、ようやく梔がやってきた。


「おー……おお?」

「あ、あんまり……見ないで、ください……」


 泣きはらした顔にぎょっとしたら、梔は恥ずかしそうに目を伏せた。

 梔とちゃんと関わりのあった三年生は俺だけだ。つまり梔は、俺の卒業というだけで、こんな顔になるほど泣いたのか。

 卒業式が終わってすぐに来なかったのも、なかなか泣きやめなかったからなのかもしれない。


「……ネクタイとか、いる?」


 つい、自分から提案してしまった。梔からは言い出さないだろう。

 梔は目を丸くして、それから嬉しそうに頬を染める。


「いい、んですか? ありがとうございます」

「どーいたしまして」


 さっきの子には申し訳ないが、断っておいてよかった。俺のネクタイなんかで、こんなに喜んでくれるのは梔だけだろう。

 最低なことを考えつつ、ネクタイを手渡す。

 梔はそれを恭しく受け取って、感情の読めないため息をついた。


「……卒業、です、ね」

「うん、卒業だな」

「…………ご卒業、おめでとうございます。お元気で、いてください。一人暮らしになっても、ちゃんと食べてくださいね。せんぱいなら、心配いらないと思いますけど……」


 握られたネクタイに、ぐっと皺が入る。

 俺の大学は、ここから遠い。一人暮らしをするのだということも、梔には伝えてあった。


「ありがと。体調崩さないように、いろいろ気をつけるよ」

「……はい」

「うん」

「……え、っと」

「……うん」


 梔は言葉に詰まって、ただじっと俺のことを見つめてきた。その目に、じわりと涙がにじんでいく。


「あのっ……せ、せんぱい……!」

「うん」


 相槌のバリエーション、増やしておけばよかっただろうか。圧を与えていないだろうか。

 心配になりつつも、梔の言葉を待つ。

 しばらく押し黙った梔は、やがてぼろぼろと涙をこぼした。

 しゃくりあげる彼女にハンカチを渡すと、首を横に振られる。そしてスカートから自分のハンカチを取り出して、目元を乱暴にぬぐった。


 人が少なくなってきたからこそ、こんな泣き方をする梔は目立っていた。

 これから言われるかもしれないことを考えると……いや、そもそも、梔の泣き顔を、彼女のことを知りもしない奴らに晒したくはない。


「ごめん、梔。場所移したほうが話しやすくない?」

「……そう、ですね……」


 うなずいてくれたので、一緒に昇降口まで行って靴を履き替え、学校を出る。

 確かこのままクラスの打ち上げのようなものがあった気がするけど、こっちが優先に決まってる。


 少し歩いて向かったのは、初めて出会った公園。

 あのときは暑かったが、今日は少し肌寒いくらいだ。大きな桜の木から、ひらひらと花びらが舞い落ちている。


「座る?」

「……た、立った、ままでも……ぃいです、か?」


 梔は歩いている間中泣いていた。まだ泣いている。体の中の水分が枯れてしまわないだろうか、と心配になった。


 俺たち以外誰もいない公園で、向かい合って立つ。

 静かなようで、それでも学校からそれほど離れてもいないから、ぼんやりとした喧噪が届いてくる。楽しそうだったり、寂しそうだったり。そんな空気感の。


 梔はすぅはあと息を整えた。

 その息すら、涙混じりで苦しそうだった。


「せっ……せんぱい」


 意を決したように、梔が口を開く。


「好き、です……! へ、へんじ……ほしく、ないのに……っ、伝えられないで、終わるの……もっ、もっと、嫌で……!」


 ところどころ苦しそうにひゅっと息を吸いながら、それでも梔は懸命に言葉を吐き出した。


「こんな、こんなに好きなのに……たぶん、せんぱいは……な、なんで、わたしが……こ、んな泣くのかも、きっと、わかんない、ですよね……。ぃえ、それがっ、悲しい……わけじゃなくって……! そ、いうせんぱいも、っ……すきで、好きなんです、だって、わ、わたし……! 初めて、こんなに、すきになれたから、楽しくて、うれしかったん、です……」


 ぐちゃぐちゃだった。顔も、声も、言葉も。

 だけど一つも聞き漏らしたくなかったから、もう相槌すら打たずに、耳を傾ける。

 やっぱり場所を移していて正解だった。体育館だったらたぶん、周りの音のせいで聞き取れなかった。


「すき、です。せんぱい」


 ずび、と梔が鼻をすする。


「……ず、ずっと、すきでいちゃ、だめっ、ですか……? 振って、いいので……二度と会えなくても、いいのでっ……!」


 縋るような声音で、梔はまっすぐに俺の目を見てくる。

 そういえば、といまさら気づいた。

 ……こんなにちゃんとまっすぐ見られたの、初めてだ。

 梔は大概、俺の鼻や首辺りを見て話をするのだ。目を合わせるのが、きっと苦手なんだろう。


 だけど、今初めて、目を合わせてくれた。


「ずっと……せんぱいを、好きでいさせて、ください……。いいよって、言ってく、くれれば……っ、わたし、それだけで、もういいです! おね、おねがいです……っ! いいよって、い、いいよって、言って……せんぱい……」


 ハンカチはただ手に持っているだけになっていて、ぬぐわれなかった涙が、ぼたぼたと床に斑点を作る。

 梔の目も鼻も、ほっぺたも、もうすべてが赤い。


 ――連絡先を訊かれたのなら、すぐに教えるつもりだった。

 だけど梔は、俺たちの関係性をここで終わらせることに決めたらしい。梔の気持ちだけを終わらせずに。

 そんなの、絶対苦しいのに。


 結局俺は、好きも嫌いもわからない。

 でも気持ちがわからないわけじゃない。このお願いが、どれだけ悲痛なものかはわかる。……わかるよ、それくらいは。

 わかっている、はずなんだ。


 だって、わかりたいと思ってるんだから。


「梔」


 そっと名前を呼ぶ。

 びくりと肩を震わせて、それでも梔は俺から目を逸らさなかった。

 その動作を見て、なんだか……上手く表せないけど。胸とか、喉の奥とか、腹の底とか。よくわからないところに、よくわからない感覚が込み上げてきた。


「伝えてくれて、ありがとう。……嬉しいよ。ありがとう」


 気持ちのままに、感謝の言葉を重ねる。


「けど」


 そう続けた瞬間、梔の顔が絶望に染まった。倒れてしまうんじゃないかと思うほど蒼白になって震えるものだから、「ち、ちがう!」と大慌てで否定してしまった。


「違う、梔のそれをだめって言ったわけじゃなくて、そうじゃなくてな、違うんだよ! ここでっ……」


 ――一瞬、悩む。

 今から口にしようとしているのは、残酷な言葉だ。梔のお願いを了承するだけのほうが、まだマシなくらいに。

 だけど、どうしても口が動くのを止められなかった。……止めたくなかった。




「……ここで、終わらせたくない、とか言ったら……だめ、かな……」



 うつむく。

 俺はこんなに力ない声が出せたのかと、少し驚いた。別に元から、元気がいいタイプの人間でもないが。


「梔さえよければ、連絡先交換してほしい」

「……」

「これから先も、たまに会って……話したい。なんでもいい。ちょっと喋って、あとは無言で空眺めるのでも、なんでもいいから」

「…………」

「俺、誰とだって、もう二度と会えなくなってもいいんだ。話せなくていい。元気でいてくれとは思うけど、別に俺との関わりが一切なくなってもどうとも思わない」


 ……そのはずだったのに。


「でも今……梔とこれで終わるのは、嫌だって……思った」


 卒業式が終わっても、自分から梔を探しにいかなかったくせに。ただ待っていただけのくせに。

 いざこれが最後だと思うと、ざわざわと胸の中が気持ち悪くなって、耐えられなかった。


「それを、俺の『好き』ってことにしていいなら……付き合ってほしい、とはまだ言えないけど、いつか言えるようになる……と思う、から、時間がほしい。いや、もしこの状態でも梔が気にしないなら、付き合ってみてもいいんだけど……! ちゃんと、恋人、やれるかは……まだわかんなくて……」


 梔はすごい。さっきの告白の間も、俺の返事を待つ間も、俺の目をずっと見てくれてて。

 俺はこんな大事なことを伝えている最中に、目を合わせられない奴なのに。


 そういう人間だったのだと、今日初めて知った。


「とりあえず、その……れ、連絡先……教えてもらえると、嬉しい。いやマジで梔がよければなんだけど! 嫌だったら、全然ここで終わりで……梔の好きなときに、俺のこと好きじゃなくなってい――」

「嫌なわけないです!!」

「わっ……!?」

「い、嫌なわけ、あの、せんぱいに言われて嫌なことはなくて、されて嫌なこともな、なくて、えっ、え? そういうどころの話じゃない、ですよね!? なんで!?」


 混乱極まる顔で梔が詰め寄ってくる。涙が止まっていることにほっとしながらも、その勢いについ一歩後ずさってしまった。


「な、なんでって訊かれても……なんでだろうな……?」

「わたしに都合がよすぎて……夢なんじゃないかと怖くなります……!」

「俺のことつねってみるか?」

「するわけなっ――い、いえ……し、してみても…………いい、ですか?」

「いいよ」


 そう答えた途端手が伸びてくる。だけどなかなかそれ以上の動きがなかった。

 夢だと思われている限り連絡先も交換できないままだろうから、その手のほうに頬をぐっと押し当ててみる。

 びくん、と指先が逃げる。追いかけるように近づけば、おそるおそるもう一度伸びてきて、俺の頬をふにりと軽くつまんだ。


「い……痛い、ですか?」

「…………全然」

「や、やっぱり夢なんだ!」

「梔はこの感触、夢だって思うの?」

「かん、しょく……せんぱいのほっぺたの感触……?」


 ふにふに、と何度もつままれる。きつくつねってくれたほうが、今の目的からすればありがたいんだが。

 しばらく俺の頬をつまみまくった梔は、ふふっと笑いをこぼした。


「せんぱいのほっぺた、かたい……かわいい……」

「は? なに? かわいい……?」

「…………そ、それで、連絡先……でしたっけ……」


 梔がキリッと表情を引き締める。とりあえず現実だとはわかってくれたらしい。


「そんな贅沢なこと……いいんでしょうか……?」

「いや、俺からお願いしてんだけど……」

「だっ……だって……。いえっ、一ヶ月に一回、くらいは……連絡しても、いいですか?」

「すぐに返信できなくてもいいんなら、毎日でも」

「毎日!? ま、毎日!? 毎日って毎日ですか!?」

「毎日は毎日だな」

「そ、そんな夢みたいな……すごい……」


 両手を口元に当てて、梔は目をきらきらと輝かせた。喜んでくれているのなら嬉しい。

 スマホを取り出すと、梔も慌てて準備をする。QRコードを読み取ってもらって、友達に追加。


「ありがとうございます……!」

「こっちこそありがとう」


 梔はぎゅっと、大切そうにスマホを握った。


「あ……あの、それで、つっ、付き合うとか、そういうお話、なんですけど……わたしも、せんぱいの恋人をやれる自信がなく……というか今まで想像もしていなかったというか……!」

「あー、もしかして……好きなだけで別に付き合いたくはない、とかだったか?」

「決して! そういうわけでは! ないです!!」

「そ、そっか……」


 全力で否定されてたじろいでしまう。

 睨むような眼力で、梔は早口で言い募る。


「付き合いたくないわけじゃないんです、ほんとです、自信はないですけど付き合えるものなら今すぐにでも付き合いたいです、というか自信がつくのを待っていたら一生付き合えないと思うので今すぐ付き合っていただいてもいいですか!?」

「い……いい、よ?」

「やっっったああぁぁ!」


 梔、こんなすらすらスムーズに喋れたんだな……そして元気いいな……。まあ、いいことだ。

 えへ、ふへへと梔が頬をゆるゆるに緩ませる。その頭に、桜の花びらがふわりと載った。


「……最初会ったときは幽霊みたいって思ったけど、今はなんか、妖精っぽく見えるな」


 思わずこぼれた感想に、梔は目をかっぴらいてぎしっと固まった。


「あ、悪い。桜似合ってたから」

「せ……せんぱいは、それが素面で言えてしまうお人なんですね…………」

「……そう言われると恥ずくなってくんな……」


 恥ずかしい台詞である自覚は一応あったが、梔相手なら許されるかと思ったのに。だめだったか。

 強く風が吹いて、梔の頭についていた桜の花びらが飛ばされる。

 しかし今度は花びらが三枚、新たに梔の頭にひっついた。


「ふっ……ふふ、なんかいっぱい花びらついてる、写真撮っていい?」

「えっ!? じゃあわたしも撮ります!」

「え、俺にもついてんの?」

「ついてないですけど、撮ります……!」


 とりあえず俺から撮らせてもらった。梔は恥ずかしいからと目をつぶっていた。

 続いて梔が俺のことを写真に撮る。何もないのに写真を撮られるというのは、どういう顔をしていいかわからなくてちょっと困った。梔的にはその表情もよかったっぽいので、結果としては問題ないのだが。


「ありがとうございました……! 宝物にします」

「そんないい写真撮れたの?」

「わたしにとっては!」


 めちゃくちゃハキハキしてる。さっきまで泣いていたとは思えないくらいだ。


「梔に時間あればだけど、この後どっか寄って帰る?」


 ファミレスやコンビニ程度の場所にすら、俺たちは一緒に行ったことがない。

 付き合う、というのは今までと違うことをするということなのだから、手始めにやることとしてはなかなかいいのではないだろうか。


 俺の提案に、梔はごくりと唾を呑んだ。


「い、いきなりそんなこと、いいんですかね……?」

「じゃあ、どこから始める? 結構ハードル低いことかと思ったんだけど」

「……な、名前で……呼び合う、とか?」


 梔の、名前。

 実は俺は、梔から名字しか名乗られていない。俺も名字しか名乗っていない。

 たぶん梔は俺の名前を知っているのだろうが、俺が彼女の名前を知る機会はなかった。話の流れでもなければわざわざ訊きはしないし。


「梔、俺の名前知ってんの?」

「もちろんです、優翔(ゆうと)せんぱ――いえ。……いえっ、こ、これは偶然、知ってしまっただけで! 決して探ったりしたわけではなくて!」

「あーうん、わかってる、普通に梔いるときに友達に名前呼ばれたりしてたし」


 俺の答えに、梔はあからさまにほっとした。


「梔の名前は? 今さら訊くことになんのも申し訳ないんだけど」

「…………ひめ、です。ひらがなで」


 その渋面を見れば、自身の名前を気に入っていないことは明白だった。

 でも呼ばれたくないんなら、そもそも名前で呼び合おうとか言い出さないはず、だよな……?

 前に梔は、俺といるときはどこだって好きな場所になると言っていた。そういう感じのことだろうか。


「ひめ」


 試しに呼んでみると、梔はぱち、ぱち、とゆっくり瞬きをした。そして、小さく安堵混じりの息を吐く。


「好きになれそう?」

「……はい。やっぱりせんぱいはすごいです。素敵です。大好きです」


 噛み締めるように言って、彼女はきらきらと目を輝かせ、微笑んだ。

 こんなふうに笑ってくれる子を好きだと言えないのは……なんだか少し、悔しい。


「あ、あの、どこか……寄る、とかは、まだちょっと早いかなって、思うんです、けど。ベ……ベンチに座って、おしゃべり、とかなら……いけます……!」

「了解。じゃあ、ゆっくりしゃべろ。無言でも別にいいし」

「いえっ、どうせなら……たくさん、話したいことが、あるんです。訊いてばかりで、わたし、あまり……自分の話を、せんぱいにできていなかったので……」


 ……言われてみれば、そうだ。

 自然な流れで質問をかえす返すことはあっても、自分から何かを知ろうとはしてこなかった。言われて初めて気づくとか……情けなさすぎる。

 謝っても気を遣わせるだけの気がして、「なんでも聞きたい」と言うに留める。

 ベンチに座ると、梔はそわそわと緊張したように話し始めた。


「梔、ひめです。二年四組、得意な教科は……たぶん、英語です。好きな教科は、ありません。苦手な教科は、体育と数学、です」

「……これ、相槌だけがいい? それとも普通に反応していい?」

「お、お好きなように……!」

「わかった。続けてください」


 なんとなく敬語で促すと、梔はやりづらそうに目を泳がせる。いやごめん。


「……えっと……好きな動物、は猫ですが、その中でも、ラグドールが好き、です。好きな風景は、青空……夏の空が一番好きです。入道雲があると嬉しいので、青空というより、空と雲が好き……なのかもしれません」

「最初会ったときも、雲とのコントラスト綺麗だったもんな」

「お、覚えてるんですか!? わたしだけじゃなくてせんぱいも、あの日の空を……!?」

「いや……正直、めちゃくちゃはっきり覚えてるとは言えないんだけどさ。でも、印象くらいはちゃんと覚えてるよ」

「……うれしい、です」


 ふにゃ、と笑う梔。

 あの日の空より、あの日の梔がどれだけ幽霊みたいだったか、という印象のほうが強く残っているのだが、言わぬが花というやつだろう。嘘は言ってないんだし。


「……わたし。おどおどしてて、つまんなくて、何もできないのに、あの日もせんぱいはうんざりした顔もしないで……ずっと、優しくて。全然理解できなくて……。だから、知りたくなったんです。……誰かを知りたいって思うの、初めてだったから。好きなんだなって、思いました」


 そう言って、けれど梔は悔しそうに顔をしかめる。


「こんな……わかりにくい伝え方しかできないのが、嫌です。変わりたいです。変わりたいと思わせてくれるところも……好きなんです」


 揃えた膝の上で、梔の手がきつく握られる。



「――わたしの好きな人は、せんぱいです」



「……うん、知ってるよ。ありがとう」


 ――こう返すだけでこんなに幸せに笑ってくれるんだから、好きだと返せたらいったいどうなるんだろう。

 とりあえず今は、ありがとうの後に「ひめ」と名前を呼ぶことくらいしかできない。

 梔は小さく悲鳴を上げて、それをごまかすかのように手を口元に当てた。


「な、名前呼び……一日一回までにしませんか?」

「いいけど……いつまで?」

「……一年、くらい?」

「一週間じゃだめなの?」

「だめなわけはないですが!? が、そのっ、でも、わ、わたし! こ、こわれるかも、しれません……心臓とか……は、肺? とか……」


 心臓が壊れそう、という表現なら聞き覚えがあるが、肺まで。相当やばいんだな……。

 わたわたしていた梔は、きりりと表情を引き締めた。


「で、でもせんぱいが、お嫌、なら……! 心臓も肺も壊れていい、です!」

「そのほうが嫌かな……。まあ、しばらく一日一回で慣らして、二回、三回って増やしてもよくなったら教えて」

「ありがとうございます!! へへ、えへ……好きです」


 何が琴線に触れたのか、梔は頬を思いっきり緩めた。

 また名前を呼んだほうがいい気がして口を滑らせかけ、いやこんなすぐ約束破っていいわけないだろ、と正気に返る。


 それでも、もしかしたら、と思う。

 ……もしかしたらこういうときに、名前を呼ぶんじゃなくて、俺も好きだって言えばいいんじゃないか? そういうこと、の気はするけど、確信は持てない。

 今はまだ言えないことだけが確実だから、代わりにできることを探す。


 でも……名前呼ばれるだけで限界になってんだよな、この子……。

 他考えたとこで、全部無理だろ。


 結局、今日だけ特別にもう一回だけ呼ばせてくれと頼み込むことにした。

 梔は意気揚々と了承してくれたものの、ついそれを何度も繰り返した結果、最終的に燃え尽きた灰のようになってしまった。


「ごめん。悪い、ほんとに……」

「……いえっ、明日! 明日には復活するので、大丈夫です……!」


 俺があまりにも落ち込んだ顔をしてしまったのか、梔はふるふると震えつつも奮起してみせた。

 そうは言われても、さすがに申し訳ない。

 反省して一週間我慢してみたら、「もう完全復活したので大丈夫です呼んでくださいお願いします!!」と逆に頼み込まれることになったのだった。

 難しいな……。





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