1月1日
1日目。
年が明けたとしても、何か晴れやかな気分にはなれない。一応縁起のいいもの、事をしていつも通りに年を越した。いつも通りがいけないのかもしれない。お守りを買い、嫌いな清酒で口をすすいだ。Twitterには『あけましておめでとう』というツイートがひしめく。たかが年が明けただけで何もめでたくはないのに。
憂鬱さ。でも、生きるってそう言う事だろ?そう言い聞かせてもう20数年。幸せな気持ちってなかなか味わえるものじゃない。ボクの記憶の中では、推しのチームが優勝した時くらい。(その後の記憶はない。)まだ、20数年しか生きてないが、ボクは死ぬ時に幸せだったらいいやと達観している。
今のボクが生きているのだって、「生きて」と言われたからであって、それ以上の理由はない。生きていれば、生き続けていればと、自殺予防のC Mと大人は何かほざいてる。たらればなんて誰も聞いとらん。今生きてるから辛いんだろう?そこがわかってない。相談してください。相談できてるなら、この選択肢なんて頭には浮かんでこない。そんなもんさ。
年明けなのに、なんか気が落ち込む事を日記にしてる。こんなんだからいけないんだろうな。心が前向きになることはあるさ。太っていて不細工だけど最高にかっこいいバンドの曲をきくと心が動かされる。言葉の力は偉大だな。
前向きなことも書いておこうか。未来の自分のためにも。
働き蜂の法則って知ってるか?どんなに働き者の集団でも必ず3割はサボってしまうと言うもの。これは、自然界における必要悪であって、優秀な証拠さ。この3割の中でしか新しいことは生まれることはない。働き者が正しい世の中だけどね、それ以上に怠け者の方が世界を変える不協和音になってくれるんだと。働き者なんて余裕がないだろ?考えもしないで集団に流されてる連中なんて怠け者の気持ちなんてわからないのさ。
そうさ。ボクらは意志をもって考えてこれがおかしいと言うことに気づけるのさ。働き者は自分の価値に気づかないのさ。それがとても勿体無いことに気付かずに死んでいく。なんと酷いことを。ボクらは違うだろ?嫌な部分もできる部分も嫌と言うほど自分を見つめてる。優秀じゃないか。常に達観して自分を見れるなんて。人は忙しさでそれから目を背けるのさ。ボクらは嫌な自分を真っ向から受け止めてる。彼らにはそれができない。他人が決めた幸せっていう価値のないものに縋って、楽して成功しているやつをロクでもないやつと罵るんだ。その楽さの裏に何があるのか考えもしないでさ。
ボクらは怠け者だけど、愚か者じゃないのさ。全力投球だけしてたらイニングは喰えんだろ?
そんなボクの今年の目標は『獅子搏兎』です。