第96話 なんと、事件なのだ その六
あーっ、やっちゃった!
黒服2号のひょろりさんは、即座にこっちを見たね。
いえ、まあ当たり前ですけど。
でもって、目まで合ってしまったよ。
どうする? どうする!
そりゃもちろん、回れ右して一目散に遁走するのが良いってのは分かってる。
でもね、いざこんな場面に出くわすと、足がすくんじゃって動けないものなのさ。
なんて冷静に語っている場合じゃないんだけど。
黒服2号が軽やかな足取りで近付いてくるのが、腹立たしくもあり、また不気味だ。
「おや、姫様。こんな時間に、こんなところにいらっしゃるなんて、いかがされました」
これまでのことなど、まるでなかったかのような態度で、にこやかな表情でわたしに話しかける黒服2号。
さすがに、こんな夜中じゃ黒眼鏡は掛けていない。
初めて明かされる彼の素顔は、細目の強キャラっぽい。
いつもは、穏やかに笑っているのに、どこかしら胡散臭いやつ。
いざ、有事の時には、細かった目をかっと開いて豹変するタイプ。
味方だったら頼もしいけれど、敵に回すと、とてつもなくやっかいなキャラ。
まあ、要するに、あんまり好みのタイプとは言えない。
一方、今や地に伏している黒服1号は、目を閉じていても分かる直情的な顔立ち。
きりりと太い眉、引き結んだ口元、たぶん体力自慢で素直な方なんだろうな。
素直なのは良いけれど、策略に弱いタイプというか、人を疑うことを知らないというか。
どちらかと言えば、ああいう分かりやすいタイプの方が接しやすいかな。
黒服たちのキャラクターを勝手に決めつけていた、わたしの視線は自然と倒れているがっちり黒服1号の方を辿っていた。
その視線に気がついた黒服2号の表情は、少しだけ焦ったものへと変わる。
でも、それは一瞬のことで、すぐにさっきと同じような笑みを浮かべた。
「これは……、まあ職務上の見解の不一致というか、大したことではないのです」
むー、物は言いようだね。
黒服2号、きさま、あからさまに怪しいぞ。
「さあ、姫様、夜更けにこんなところにいては危ないですよ」
わたしには、あなたの方が危険な存在に思えますが。
「私と一緒に参りましょう」
いったい、どこに参る気だ。
わたしは、『炎の剣亭』に帰るんだ。
意外にも、整った顔立ちに、剣呑な笑みを張り付かせて近づいてくる黒服2号。
わたしは、ようやく自由を取り戻し始めた足で、一歩、また一歩と後ずさる。
「おや、なにを恐れているのでしょう」
決まっているじゃ、ありませんか。
黒服2号、あなたを恐れているのです。
——それでは、ごきげんよう。
わたしは、そう言いうが早いか、くるりと身を翻して、脱兎のごとく駆け出した。
黒服2号の何を考えているのか分からない笑顔の目が、かっと見開かれるのがちらりと見える。
やばいっ! あいつ覚醒しちゃった?
でも、わたしは走る足は止めない。
後ろも見ないで、あの古民家風のお屋敷まで一気に駆け抜ける。
ふっふっふ。実は走るのは大の得意なんだぜ。
短距離は言うに及ばず、意外と持久力もあるから、マラソン大会だっていつも上位入賞さ。
出てきた古民家の裏口まで、あと少しというところで足を止める。
さっきは気づかなかったけど、舗道は二またに別れていたのだ。
どうやら右に曲がれば、古民家へ。左は未知のルートだけれど、たぶん表の方へ抜けられるんだと思う。
一瞬考えたのち、やにわに舗道脇の地面の上へと足を進める。
思った通り、柔らかな砂上の地面の上には足跡が残った。
おそるおそる、そっと後ろを振り返れば、まだ黒服2号の姿は見えない。
おそらく小娘の足とでも侮って、ゆっくりと追い詰める気なのでしょう。
その判断、後悔するがいい。
わたしは真っすぐ続く舗道の脇に、何歩分かの可愛い足跡を敢えて残す。
しかるのち、反対歩きで注意深く、その足跡をなぞるようにバックした。
なんと言いましたか、これ。
野生動物が、逃げるときにやるあれです。
舗道の分岐点まで戻ったところで足の裏の砂を払い、舗道の上、古民家に向かってまっしぐら。
開けっ放しになっていた裏口へ飛び込むと、ぴしゃりと木戸を閉める。
鍵……は、付いていないのかな。
何かつっかえ棒でも……。と思っていたら、戸の真ん中あたりに閂があるのを見つけた。
よしよし、これを閉めておけば、ひとまず安心。
わたしは戸口にもたれかかると、大きくひとつ息を吐き出す。
ふーっ、危ないところだったぜ。
それにしても、あの黒服たちが、どこかの組織の秘密諜報員だったなんて驚いたよ。
派閥とか言ってたっけ。なんの派閥だろう。
なんかハルマンとかいう、偉そうな人の名前を語ってたな。
誰だよ、それは?
ともかく背後から飛び道具なんかで攻撃されたら、きっとエラいことになってたんだけど、それはなくてホッとしたよ。
無防備な背中を、いきなり撃たれたりしたんじゃ、ひとたまりもなかった。
でも黒服2号からは、殺気も感じなかったし、うまくいけば、このまま逃げられるかな。
とりあえず、靴下でも履いておこう。
ジャージのポケットの中を探ったけど、何も出てこない。
あれれ、どこかでなくしちゃったかな。
もったいないけど、あきらめよう。犬じゃあるまいし、黒服2号も匂いでここを嗅ぎ付けたりしないでしょう。
わたしは、もう一度足の裏の汚れを手で払うと古民家の廊下に上がる。
まっすぐに伸びている廊下の先には、うっすらと明かりが見えた。
きっとあそこが表口。つまりは玄関なのかな。
そこまで行けば、きっと愛用のスニーカーが置いてある。と思う。
当面の目標として、あそこを目指しましょう。
この古民家風のお屋敷は、まるで、かつてのお武家様の住んでいたお屋敷のようにだだっ広いのだ。
廊下の脇には、延々と襖戸が続いていた。その一つ一つを開いて、中を見学してみたいのだけど、今は我慢。
もし本当に、ここがウル翁の所有物であったなら、そのうちまた訪れる機会もあるだろうし。
わたしは、足音を忍ばせ、廊下を進む。
黒服2号の仲間が、潜んでいないとも限らない。
まさかとは思うけど、黒服2号本人が先回り……もないかな。
タイミング的に、わたしは完全に彼を振り切ったはずなのだ。
時代劇に出て来る、お城にあるような長い廊下を抜き足差し足と歩めば、どこからか不思議な香りがしてくる。
なんだよ、この匂いは。
わたしが苦手な、トイレの芳香剤みたいな匂いのするハーブティのようじゃないか。
どこからか漂ってくる、その香りに包まれて歩いていた、わたしの膝がカクンと落ちた。
あれ? なんだ、これ? 足に力が入らないや……。




