第95話 なんと、事件なのだ その五
なんだ、なんだ? 今の声?
どこかで、誰かがケンカでもしてるのかな?
こんな夜更けに、なんて近所迷惑な人たちなんだ。
わたしは抱えていた徳利に栓をすると、そっと棚に戻す。
声の聞こえてきた方へ足を忍ばせれば、そこには勝手口のような木戸があった。
そおっと木戸を開けて、おそるおそる外のようすを伺えば、思ったとおり今は真夜中みたいなんだけど、照らしている月のお陰なのか、思ってたよりも随分と明るい。
思い切って、木戸をからりと開けて、するりと外へ出ようとしたところで、ふと気がつく。
わたしは今、はだしなのだ。
いつも履いていた愛用のスニーカーは、土間には見当たらない。
ここへ運び込まれた時に、玄関辺りで脱がされてしまったのだろう。
このお屋敷は、昔のお婆ちゃん家のように、古式ゆかしい古民家風の和風建築。
玄関口なんかがあるかどうかは分からないけど、濡れ縁からお家に上がる時には履物を脱ぐスタイルなのだ。
わたしは木戸の前に立ち、お庭を右から左へとぐるりと眺めた。
さすがに尖った石ころだらけの、荒れたお庭だったら、はだしで出るのは躊躇われる。
ほんのりとした月明かりに目が慣れると、見えてくるのは、ちょっとインチキ臭いけど日本式の庭園。
池も鹿威しもないけれど、こんもりとした庭木に囲まれた、飛び石の置かれた舗道が小さな門まで続いていた。
これは、裏庭なんだろうか。
一歩、二歩と戸口から、表に出てみたわたしは、振り返るとお屋敷を見上げた。
残念ながら藁葺き屋根ではなかったけれど、その形は古民家と呼ぶにふさわしい。
ここは、やっぱりウル翁の建てたものなのかしら。
この世界に呼ばれて、初めて見る和風な建築物。
こんなものを建てられるのは、わたしの知る中ではウル翁以外には思い当たらない。
むふー。ちょっとテンション上がっちゃった。
なんだってまた、自分がウル翁のお屋敷なんぞにいるのか。なんてことはすっかり忘れて、しばしの間、この異世界にとってはオーパーツ、わたしにとっては懐かしい古民家に思いを馳せる。
しかし、今は古民家を散策している時ではない。
屋内にまで聞こえた声。その正体を突き止めなければ。
わたしは、再びファンタジーに登場する冒険者たちのような心持ちとなって、庭木に身を潜めながら、声のする方へと向かう。
こういうのは、斥候とか盗賊なんかの役目なんだっけ。
先行して、敵地を視察したりするやつ。
ダンジョンの中では、罠を解除したり、宝箱の鍵を開けたり。
ふふっ。危ないと分かっていても、こういうシーンに立ち会えるとなると、異世界っぽくてワクワクしちゃうね。
門に近づくに連れて、声も大きくなってくる。
間違いない。あの門の付近で、誰かが言い争っているのだ。
わたしは舗道の両脇の庭木に身を隠しながら、ジグザグに進み、さらに声のする方へ近づいてゆく。
庭木の影から、半分だけ顔を覗かせて、そっと声の主たちを伺うと、ちょうど門でできた月影の中に彼らはいるようだ。
ふむ。良く見えないな。聞き覚えのある声のような気はするけど。
「お前、ハルマン殿を裏切る気なのか。マチルダ様を、どこに連れ出そうと言うんだ」
「裏切るもなにも、私は最初からハルマン派ではないのです。あなた方の派閥に潜り込んでいたスパイなのですよ」
「くっそう、今まで俺たちを騙していたとでも言うのか」
「まあ、有り体に言えばそうなるのでしょうか。しかし派閥争いも、今や情報戦が主流だ。騙されるあなた方が悪いのです」
「ちっ、お前らのようなヤツらに姫様を奪われてなるものか」
「では、あまり気乗りはしませんが、力尽くでも連れてゆくことにいたしましょう」
なんだ、なんだ、なんだ?!
マチルダ姫様を巡っての争い?!
言い争う二人の男たちの姿が、月の光に照らされて、シルエットとなって浮かぶ。
あっちの、少し背の低いがっちりさんは、黒服1号。
もう一人の、ひょろりと背が高い方は、黒服2号ではないか。
仲間割れ?!
では、ないようだな。
どっちかつーと、黒服2号が敵の間者だったっぽい。
この場合、どっちを応援すれば良いのだ。
どうやら、マチルダ姫、つまりはわたしの争奪戦のようだけど。
今にも掴み合いになりそうな、二人の言い争いを聞きながら、なんだか腹が立ってきた。
勝手に物扱いするなんて、ひどいじゃないか。
わたしは、まだ誰の物でもありませんっ。
ぷんすか、ぷんすか。
わたしの腹立ちをよそに、彼らの争いは激化してゆく。
よく分からない異世界の格闘技。その技の応酬を繰り広げる黒服たち。
「魔法特化のお前が、肉弾戦で俺に敵うとでも思ったか」
ついに、軍配はがっちり体型の黒服1号に上がったようだ。
彼は、ひょろりとした黒服2号を地面に組み伏せていた。
ありゃー、やっぱり体型の差かな。
黒服2号は、大ピンチじゃないか。
ということは、ハルマン派とかいう方の勝利って訳だ。
わたしにとって、それが良いことかどうかは今もって分からないけれど。
やれやれ、勝手に勘違いして、こんなところにまで連れてきた挙げ句、争奪戦を始めるなんて。
わたしは、この辺りで帰らせてもらうよ。古民家を見せてくれたことと、今夜の食事が美味しかったことには感謝するけどね。
でも、その場をそっと離れようとしたわたしの目には、信じられないものが映った。
優勢だったはずの黒服1号が、突然がっくりと頭を垂れると、どさりっと地面に倒れ込んだのだ。
ありゃりゃ。どんな魔法を使ったんだよ、ひょろりな黒服2号。
実際、黒服2号が使ったのは、たぶん至近距離からの何かの攻撃魔法に違いないのだ。
その証拠に、馬乗りになったまま倒れ込んだ黒服1号を、払い除けて立ち上がった黒服2号の手には武器のようなものは何もない。
こりゃ、ヤバいかも。
こんなところに隠れているのが見つかったら、間違いなく、わたしもあの魔法の餌食にされちゃうだろう。
焦ったわたしは、そっと立ち上がったつもりだったんだけど、こういった場面でのお約束。
庭木か何かに身体のどこかを引っ掛けたらしく、ガサッと大きな音を立ててしまうのでした。




