第90話 みなさん、たいへんなのだ その六
マチルダさん?
マチルダさんって、噂の、あのマチルダ姫?!
まっさかー、そんなことはないよね。
隣国に嫁いだお姫様が、こんなへんぴなところに現われる訳がない。
しかも、誰かと待ち合わせみたいだし、まさか逢い引きではないだろうけど。
おっと、また誰かが来た。待ち合わせの相手かな。
どんな方だろうか。ちょっと気になる。覗いちゃお。
むむっ?! あの見覚えのある姿は……?!
ルドルフさん?!
間違いない、ルドルフさんだよ!!
そして、もうお一方いらっしゃる?!
その姿にも、当然のように見覚えがあるよ?!
マティアスくん?!
あれは、まごうかたなきマティアスくんじゃないか?!
どうして、あのお二方が、こちらに?!
というコトは、あの自称マチルダさんは、本物のマチルダ姫ってこと?
マチルダ姫の待ち合わせのお相手は、ルドルフさんとマティアスくんだったの?
事情が良く飲み込めないわたしは、せめてお初にお目に掛かるマチルダ姫のご尊顔を拝みたいと、そっと箱の影から首を伸ばす。
でも残念なことに夕暮れの薄明かりの上、姫様はあちらを向いていらっしゃるので、彼女のお顔は良く見えないのだね。
お三方とも上品でいらっしゃるので、大きな声を張り上げるでもなく、話している内容も良く分からない。
分からないんだけど、雰囲気から察するに、マチルダ姫はここへは皆さんには内緒で来てしまったっぽいな。
「マチルダ様、こんなところにお一人でいらっしゃるのは危険ですので、おやめください」
「私に指図しないでくださいな。自分の身くらい、自分で守れます。それに、ここ王都は、この国で一番安全な町ではありませんか」
「そうはおっしゃっても、僕たちはマチルダ様をお守りする義務があるのです」
「いつになっても堅苦しいことを言うのね、あなたたちは」
「しかしマチルダ様の身に何かあったらと思うと、我々も心配でたまらないのです」
「そうですよ。ご自身の護衛を撒いてまでお出かけになられるので、彼らも青くなって僕たちのところへ駆け込んで来たのですから」
「……わかりました。今日のところは戻ります。けれど、私はお招きに預かったからこそ、ここまで来たのです」
「マチルダ様を、こっそり呼び出すなど何処の不心得者だ」
「いえ、彼は信用のおける人物です。私になにかを……」
なんちゃって。
これは、わたしが勝手に、途切れ途切れに聞こえてくる会話を、想像力で補ってアフレコしたものなのだ。
正直に言いましょう。
最後の方は、お三方が建物から出てゆきながらの会話だったから、尚更良く聞き取れていませんでした。
でも、だいたい、こんなんで合ってると思う。
八割、七割……、いえ半分くらいは合っているに違いない。
——と思うんだけどな。
お忍びで、この国に里帰りしたマチルダ姫様は、思いのほか奔放な方らしい。
この王都に入ってから、自国の護衛陣を撒いて、単独行動でお出かけになられたみたいだ。
しかも、誰かに呼び出されたって言ってたな。
それが、ここでの待ち合わせのお相手な訳だ。
でもって、それは怪しい人物とかではなくて、ルドルフさんやマティアスくんも良く知っている人物のようだね。
マチルダ様が名前を出しても、お二人とも驚いたり、慌てたりするようすはなかったもの。
はっ? まさか、おっちゃん? おっちゃんなのか?
いやいやいいや、そんなコトはない。ないよね? ないと誰か言って。
やっぱりないよ。
さっき。姫様が呼び掛けてたお名前は、おっちゃんの名前ではなかった。
ミヒャエルとか、そういう噛みやすいお名前ではなく、もうちょっと言いやすい感じ。
なんだっけ?
と、ここまで箱の影に身を潜めて、あれこれと思考を巡らせていたわたしだったんだけど、突然気が付いてしまった。
ルドルフさんも、マティアスくんも知らない仲じゃないんだから、さっき出ていけば良かったんじゃないか?
ここへは、ホントに雨宿りに立ち寄っただけなんだし。あのお二人だったら、わたしが不法侵入なんかしないって証明してくれただろうし。
ああっ、わたしのバカっ!
思わぬマチルダ姫の登場に、すっかり動転してしまったよ。
はあ〜っ。
盛大にため息をつきながら、わたしは立ち上がると、辺りのようすを伺う。
誰の出入りもないことを確かめると、なんでもバッグを肩に掛けた。
ふう〜っ。
ちょっと雨宿りに立ち寄っただけなのに、なんだかスゴい事件に立ち会った気がするよ。
表の方もすっかりと日が暮れてしまったようで、辛うじて、そこが出入り口かと思われる明るい方へふらふらと向かう。
と、ドンッと、突然現れた人影と正面衝突してしまった。
よろよろと、よろけたけど、ぐっと踏みとどまる。
「あーっ、ごめんなさい」
どちら様かは存じ上げませんけれど、タイヘン失礼仕った。
あれ? 返事がないな。
もしかして、この建物の関係者の方?
「いきなり入り込んでしまって申し訳ございません。雨宿りをさせていただいただけで他意はございません。すぐに出てゆきますから見逃してください」
わたしは早口でそう告げて、足早に妙に背の高い人物の脇をすり抜け、外へと出ようとする。
けれども、その時またもや、もう一人のどなたかにドンッとぶつかってしまうわたしなのでした。




