第88話 みなさん、たいへんなのだ その四
うおー、なんだ、このにわか雨。
もう、すっかり雨は上がったと思って、油断していたぜ。
おっちゃんとマチルダ姫様にまつわる、数々のエピソード。
そこに思いを馳せる度、心の奥にもやもやとした想いがわだかまる。
『炎の剣亭』から、何故だか突然立ち去りたくなったわたしを襲ったのは、突然の雨。
あんまり慌てていたものだから、傘なんか『炎の剣亭』に置いてきてしまったよ。
そんなに激しいものではないけれど、このまま歩き続けたら、びしょ濡れになるのは間違いない。
いっそのこと、こんなもやもやは「雨よ流してくれ」とばかりに、濡れてゆこうとも思わなくもなかったんだけれど。
けれど、やっぱり、そんなことはやめにした。
つまらないじゃない。昔の二人を気にするなんて。
だって、おっちゃんとマチルダ姫様のエピソードには、わたしは登場しないんだもん。わたしが気にすることなんて何一つないのだ。
うん、ない。ないはず。ないよね、きっと。
という訳で、大急ぎで駆け込んだ建物の軒先を借りて、ただ今雨やどりの最中。
雨のせいか、いつの間にか暗くなってしまった空を見上げて、しばし考えてみる。
うーん。どうしようかな。
もうこの辺りはウル翁のお店のある、問屋街に差し掛かったところ。
晴れた日の昼間でさえ、関係者以外の方の姿をあまりお見かけしないエリア。
雨の夕暮れ時とくれば、人通りもなくって、ちょっとばかり寂しい場所なのだ。
『炎の剣亭』まで戻って、傘を取りにいくには少しばかり距離がある。
ならばウル翁のお店まで、ひとっ走り。とやるのも、こっちもまた微妙な距離。
うんにゃ、実は走る速さには、ちょっとだけ自信があるのだ。
心配しているは、走ってる時の水跳ねや泥跳ねによる汚れ。
ここ王都の街並は、この国の首都だけあって、それは美しい。
それはお城近辺の貴族街に限ったことではなく、下町の商店街や住宅街も同じ。
なんなら、人里離れた郊外に至るまで美しい。
でも道路ったって元の世界のように、アスファルトで完全舗装されている訳ではない。
平たい石を組み上げて作られた舗道は、それはもう、確かに美しいのだけれどね。
雨降りの最中、その上を走ったりすれば背中に点々と付くであろう跳ね汚れ。
自慢のクラシックなメイド服に着いてしまった、その汚れは美しくないのだ。
そうだ。魔法でなんとかならないかな。
雨の日になると、いつも思っていたんだけれど、この町の方々はあんまり傘をささないみたいなのだ。
そんなに激しい雨になることもなくて、たいていはしとしと小雨なせいなのか、レインコート代わりの外套っぽいものを羽織って、足早に歩いている姿を良くお見かけする。
マティアスくんなんか、あんな便利な魔導器を幾つも開発しているのに、傘に代わるなにかを使っている節はない。
頭の上にでも、ポンと乗せればオーケーな、全自動の使用者追尾型の傘。
雨の吹き込む方向に向けて、自動で展開されて、使っているわたしは濡れることはない。みたいなものなんて、どうかな。
本当に作ってくれたら、売れると思うんだけれど。少なくても、わたしは欲しい。できれば、今この場で。
わたしはイメージする。
頭の上に天使の輪っかみたいに、傘が広がっているところ。
こうシールドを展開する感じで、日本の昔のお侍さんが被っていたようなものを。
うん、いいんじゃない。
試しに歩いてみよう。
一歩踏み出したところで、急な風が吹き、わたしの顔に雨粒が吹きつける。
ややっ?! これはダメだ。
傘じゃなくて笠だ。
横からの攻撃に弱い。
では、虚無僧が被っているようなものならどうだろう。
フルフェイス型っていうのかな。
これだったら、なかなか良いかも。
良し、いってみよう。
一、二歩と進んだところで、わたしは軒下に引き返す。
これでは、顔や頭は無事でも、両肩なんかがびしょ濡れだ。
では、思い切って全身覆ってみよう。
全方向にシールドを展開。
うわっ?! なんだ、なんだ。
全身が重い。それに疲れる。
魔力の無駄遣いってやつ?
こんなに常時全方向型のシールドを身体の周りに張り巡らせていたら、あっと言う間に魔力切れを起こしちゃう。
うーん。難しいなー。
魔法初心者のわたしにとって、広い範囲のシールド魔法の制御は簡単にはいかないのだ。
あー、だから、マティアスくんでさえ、雨避けの魔法なんて使わずにマントを羽織るだけなのか。
わたしは、ルドルフさんやマティアスくんたちが羽織っている、外套やらマントやらを思い浮かべる。
なんの布なんだか毛皮なんだか分からないけど、やたらと防寒性とか撥水性とかに優れていそうな逸品。
ただ、夏場の着心地までは分からない。たぶん、ものすごく蒸れるような気はする。
騎士や魔導士の皆さんにとって、お仕事の最中の魔力切れは致命的だ。
魔力のリソースは限られている。貴重な魔力を雨避けなんかには使えない。
レインコートで代用できるのなら、そっちの方が断然おトクに違いないのだ。
わたしは、なんだか真実に辿り着いたような気がして、ちょっぴり気分が良くなった。
雨の中、なんとか被害を最小限に抑えて、ウル翁のところまで辿り着く。
という問題は、なに一つ解決はしていないのだけれど。てへへ。
あー、でもでも、全身を覆うって発想は間違っていないかも。
防御シールドみたいな、ご大層なものを張る必要はない。
相手は、ただの雨と風。しかも、ごく弱いもの。
矢でも、弾丸でも、攻撃魔法でもない。
水滴さえ弾ければ、それで良いのだ。
そう考えれば、そんなに難しいことではないのかもしれない。
良し、今度は足下から試してみよう。
足下と言えば長靴だ。
わたしは、少ない魔力を薄く引き延ばして、足下を覆うようにイメージする。
おっ、長靴っぽくなってきた。
さらに上は、膝の上まで伸ばす。
おおっ、ニーハイブーツのようだ。
ならば、いっそのこと、釣り人さんが来ているような、長靴とオーバーオールが合体したようなアレはどうかな。
おおおっ、できたよ。
今度はそれに、長袖のジャケットっぽいものをくっ付けたようなものを想像する。
今度は、ちょっと難しい。あ、いやそのカタチがとかいうんじゃなくて、魔力のコントロールが。
下半身のアレを維持しながら、上半身のコレをやるってのは、意外に面倒なものがあるのだ。
わたしは下っ腹に力を込めて、必死に雨避けシールドが全身を覆うイメージする。
すると、程なくできてしまったのだ。
これも、あの腹筋ローラーで鍛えたお陰か。
でも……なんだ、こりゃ?!
これでは、全身タイツというものではないか。
いや、しかしこれは……?! 以外に良いかも!!
魔力で作ったものだから、傍目には、なにも装着していないように見えるだろうし。
スカートの裾の先まで魔力を伸ばしているから、その動きに合わせて雨避けのシールドも動くし。
良し良し、この勢いでフードを付けて、頭まで覆うようにしてみよう。
うん、うまくいった。軒先から先に出てみても、どこも濡れている気配がない。
わたしは、魔法のレインコートならぬ、全身タイツを身にまとい、雨の中、意気揚々と、再びウル翁のお店を目指すのでした。




