第80話 カフェ『炎の剣亭』、ただ今絶賛営業中? なのか その二
——てぇへんだ、てぇへんだ!
と親分のところへ駆け込んで来た八っつぁんのように、小雨のぱらつく中、『炎の剣亭』に入ってきたのは、他ならぬマティアスくんでした。
どうしたんだい? そんなに慌てて?
あー、今やってるコレ?
元いた世界にはヨガというものがあってだね。健康に良いのだ。
わたしたちは、それをやっているところさ。
良かったら、マティアスくんも一緒にどうだい。
「良かった。大丈夫なんですね。お二人が床に倒れているのを見て、何事かと思いましたよ」
驚かせて、ごめんなさい。
見ての通り、雨降りのせいで、閑古鳥……、いえ、『炎の剣亭』も開店休業中なのです。
「今度、僕にも、そのヨガを教えてください」
そう言いながらマティアスくんは、羽織っていたフード付きのマントを壁に並んでいるのフックのひとつに掛けた。
おー、横の壁にあったフックは、そうやって使うのか。
ずっと、いったい、なんのためのものかと思ってたぜ。
しかしなんだね。この国の人たちってのは、あんまり傘をささないんだな。わたしは、小振りな傘を入手して使っているけれど。
町往く人々も、みんな雨の日用の外套、つまりはレインコートのようなものを羽織って出掛けるようなのだ。
「まあ、この町で雨の日に仕事してるやつは、騎士か衛兵か、冒険者くらいのものだからな」
いつの間にか、お湯を沸かしていたおっちゃんは、コーヒーを淹れながらそう言った。
「僕たち魔導士も。ですよ、先輩」
「お前らの場合は、研究室に閉じこもりっきりで、天気どころか夜も昼も関係ないだろう」
苦笑混じりにおっちゃんは、淹れたてのコーヒーを三杯用意して言葉を続ける。
「たまには、ここに来て、これでも飲んで休んでいけ。あまり根を詰め過ぎるな」
マティアスくんとわたしは、おっちゃんの淹れてくれたコーヒーを口に運びながら、感動に打ち震えたのは言うまでもない。
どうしたんだ、おっちゃん。すっかり見た目通りの麗しき好青年じゃないか。
この前のウル翁のお説教以来、少しばかりキャラが変わっちゃってないか。
「お前や、ホズミを見ていてな、少しばかり考えが変わったのさ」
——そう、大したことでもない。
そう言い残して、おっちゃんは、お代わりを淹れに席を立った。
以前はルドルフさんたちからの説得にも難色を示していた、頑固者のおっちゃん。
ネーナさんの力添えもあって、それでもようやくなんとかなるような性分だったはずなのに。
「でもミヅキさん。僕の目には先輩が変わったように見えたのは、あなたに出会った時以来ですよ」
隣のマティアスくんは、声を潜めてそう告げる。
「そうなのですか。わたしには、最近になって急に人が変わったように思えて……」
うれしいんだけど、何故だか戸惑いがあるのだ。
釣られて声を潜めたわたしに、マティアスくんはにっこりと微笑んだ。
「僕たち、こう見えて付き合いが長いですからね。先輩のちょっとした変化も分かってしまうのです」
そうなのかな。
そうなのかも。
それは、やっぱり、ちょっとうれしい。
うへへへへへ。
思わず、わたしも笑みがこぼれる。
「ちょっと小腹が減ったな。なにか作るから、ホズミも手伝え」
厨房から、そう呼び掛けられて振り向いたわたしの目に映ったのは、コーヒーではなく、エールを片手にしたおっちゃんの姿だった。
はっはっは、なんだよ、おっちゃん。
ホントは、ぜんっぜん変わってないじゃん。
これには、マティアスくんも思わず苦笑しながら頷くばかり。
昼間っからエールなんて、と心の中でツッコミを入れながら、わたしは立ち上がり、おっちゃんのいる厨房に向かうのでした。
いつもだったら、ジャガイモは茹でるところなんだけど、蒸してみることを提案したのはわたしだ。
『炎の剣亭』に蒸籠なんてないから、大きめのお鍋の底に、小さくて高さのある器を脚代わりに、その上にお大きなお皿を置いてジャガイモを並べてみたのだ。
蒸す、という調理方法は、おっちゃんも知らない訳じゃない。だけど、ことに毎日食べるものには少々面倒に感じるらしくて、あまりやったことはないそうだ。
ちなみに、おっちゃんが一番馴染みの深い蒸し方は、素材を木の葉などで包んで焚き火の下に埋め込む、という遠征先で良くやっていたというワイルドなものだった。
うん、おっちゃんらしい。
今日やったのは、蒸し器がない場合に良くやってる方法だと思うんだけど、おっちゃんも、マティアスくんまで興味深そうに、わたしの手許を見ている。
いや、そんな大したものじゃないですから。
照れながら、取り出したお皿に並んだジャガイモに、十字の切れ込みを入れて、そこに乗せるのはバター。
『炎の剣亭』にあったのは無塩バターばかりなので、それぞれに、その上からぱらりと塩を振るのも忘れない。
はい、じゃがバターの完成です。
じゃがバターにイカの塩辛を乗せると美味しいと聞くけれど、わたしにとっては塩辛自体が大人の味なので試したことはない。
塩辛はご飯に乗せてこそ、とも思うのだけど、どうやら、この世界には塩辛はないらしい。
いえ、探せばあるのかもしれないのだけれど、敢えては探さないというか……。ええい、子ども舌と笑うがいいさ。
それはまあ、さておいて。こんな風に食べると、食べ慣れたジャガイモも美味しいよね。
それとも、この味は、みんなで食べてるからなのかな。本当に、いつもより美味しい気がするよ。
小食だと言っていたマティアスくんも、二つ目に手を伸ばしてる。
もの足りなそうだったおっちゃんなんかは、早くも二周目のジャガイモを蒸しに取りかかってる。
「お隣の国にお嫁さんにいった、マチルダ姫、今お忍びで里帰りしているらしいですよ」
二つ目のジャガイモを、皿に取りながら、なにげなくマティアスくんがそう言った。
——マチルダ姫って言えば。
思わずおっちゃんを目で追ってしまう、わたし。
その名を耳にした途端、おっちゃんの手が一瞬止まるのを、うっかりと見てしまうのでした。




