第59話 ああ、憧れの
しまった。やっちまったぜ。
よりによって土下座しちゃうなんて、わたしのバカっ。
この世界に、土下座の風習はありません。
きっとお二人も、わたしの奇行を訝し気な目で見ているに違いないのです。
「これこれ、若い娘さんが土下座などするものでない」
でもウル翁は、わたしの前にしゃがみ込んで穏やかに語り掛ける。
「コーヒーを淹れるために必要な道具はミヅキちゃんに譲ってしんぜよう」
ええっ、な、なんですってーっ?!
「なに、心配はない。仕組みはとうに理解しておる。儂の分ならばいつでも拵えることができるのじゃ」
もうウル翁ときたら、なんて優しいのかしら。
でも、冷静に考えれば、ネルドリップを自力で発見したのだ。
のみならずブレンドや、焙煎の最適解も見つけているし。
それに伴った道具の開発や改良なんて、この御仁にかかれば朝飯前なのかもしれない。
もう驚かないと心に決めていたはずなのに、でもやっぱりウル翁にはびっくりだよ。
でもそれより、もっと内心驚いていたのは、ウル翁が“土下座”を知っていたこと。
だってウル翁は、なんの迷いもなく「お顔を上げなさい、娘さん」的な態度だったんだよ。
もしや、この世界のどこかにも日本みたいな国があるとか?
そして、ウル翁のことだから、こっそりとその国に出掛けたことがあるとか?
「昔、古い友人が、そんな挨拶をしていたのを覚えとっただけじゃ」
はあ、そうなんですか。
はい、そうなんですね。
いや、もう深くは考えまい。
その友人とやらの正体も尋ねまい。
友人というのは、実は日本からお越しの聖人様のお一人で、だとすれば昔っていつの話だよってことになって、やっぱりウル翁様って耳の長い長寿な種族の方?
なんてことを、ちらりと妄想してしまったのは内緒だよ。
ときにマティアスくんはと言えば、なにやら真剣な表情で一人言を呟いている。
「うーん、あの美しい挨拶は、ミヅキさんの故郷のものなのか。僕も上司に何かお願いをする時にやってみようかな。あるいは、研究室を吹っ飛ばした時に、あの挨拶をすれば謝罪の意も汲み取ってもらいやすいだろうか。そうだ、帰ったら仲間に相談してみよう。我々が横一列に並んで、あの挨拶を決めれば、頭の固い議会の方々にもご理解いただけるかもしれない……」
やーめーてー。そんなに美しいものじゃないのです。
わたしが、土下座したのは、早く忘れてー。
お友達に土下座を広めるのも、やーめーてー。
マティアスくんみたいな立場の人が始めちゃったら、この国の魔導士の方たちが全員やってしまうじゃない。
しかもそれが、この国の魔導士のご挨拶の基本として広まっちゃったらどうするのっ? そんなの取り返しつかないよっ!
だーかーらー、隣で土下座の練習しないで、マティアスくん。
これは「やめてください」のお願いであって、決してお手本の土下座じゃないですから。
畳の国のわたしがやるなら、いざ知らず。
西洋ファンタジーなマティアスくんが、そんなことをやっちゃうなんて。
よくぞ、そこまで。いえいえ、なにも、そこまで。
あ、でも、このまま土下座が、魔導士さんたちの公式な挨拶として広まったら、わたしは、その開祖ということになるのでは?
元祖自己流土下座道開祖わたし。必殺! 飛翔土下座。
などと、またもやバカげた妄想ドライブに入りかけたわたしを、押しとどめてくれたのは他でもないウル翁なのでした。
「これこれ、ミヅキちゃんが困っておるではないか、マティアス」
はっと顔を上げ、ウル翁とわたしに、照れたような表情の笑顔を向ける。
おー、マティアスくんも正気に戻ったようだ。良かった、良かった。




