第160話 異世界召喚されたのに『聖女になれなかったわたし』が『魔獣狩りの騎士様』と恋に落ちてしまった物語
——とくん。
お姫様のそのお言葉に、わたしの鼓動は、もう一度大きく鳴り出す。
すっかり忘却の彼方だったけれど、そういえばその問題は未だに解決していなかったのだ。
でも、お姫様は忘れてはいなかった。
おそらくは、今回の里帰りにおいて一番のメインイベントなのであろう、おっちゃんのお持ち帰りの件。
お姫様は、そのために『炎の剣亭』へ赴いたと言っても過言ではないのだ。……たぶん。
なんだか振り出しに戻ったような気分。今朝からあれだけ、あれやこれやとあったのに。
おっちゃんは、その問い掛けに、すぐには答えず、手元のマグカップを見つめている。
迷っているのだ。先ほどの浮かない表情。それは、わたしとお姫様の間で揺れ動いている男心、の現れに違いないのだ。……きっと。
しばらく無言でマグカップに視線を落としていたおっちゃんだったけど、おもむろに視線をわたしに向けた。
その時、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ため息混じりだったように思えたのは気のせいだろうか。
どうするの、おっちゃん? やっぱり、いっちゃうのかな?
「いかないでよ」という想いを視線に込めて、おっちゃんを見つめ返す。
伝わったかな——?
その表情からは、どちらともいえない感じ、としか読み取れなかった。
相変わらずの朴念仁ってやつだな、わたしときたら。恋愛経験値が足りてない、というか。
わたしとしばし視線を交わしたおっちゃん、一度視線をまたマグカップに戻すと、お姫様の方へ顔を向けた。
今度は、あからさまにため息混じりだったのは、決して気のせいではない。それはもう、大いなる事実なのだ。
わたしにも聞こえるような大きなため息を物ともせず、お姫様はおっちゃんの視線を真正面から受け止める。
おっちゃん越しに垣間見たお姫様の表情。
それは、「いらしてくださらないの?」という悲嘆の表情でも、「いらしてください」という哀願の表情でも、ましてや「来なさい」という高飛車な表情でもなかった。
今朝から、もう幾度となく拝見した、もはやお馴染みと言っても過言ではないお姫様の笑顔。
優雅で、気品に溢れ、それでいて大人の女性なのに可愛い笑顔。
わたしなんかでは、何年掛かっても真似のできそうにない笑顔。
そんな極上の笑顔で、ため息を遮るお姫様に、おっちゃんにはなす術もないのか。
「なあ、どうしても行かなきゃならんのか」
なす術、ないどころじゃなかった。
なんと、お姫様相手にタメ口で返事してるよ、おっちゃんときたら。
しかし動ずる素振りも見せず、笑顔のまま無言で頷くお姫様。
しかも、なんだか有無を言わせない圧力までが感じられるぞ。
「だが『炎の剣亭』のこともあるし——」
一旦宙を彷徨うおっちゃんの視線、ちらりとわたしに向けられる。
「それに、ミヅキのことだって——」
おお、おっちゃん! わたしの気持ち、ちゃんと伝わってた!
よしよし——。
一人悦に浸るわたし。
「まあ、要するに面倒臭い」
おおーっと——。
そのいかにもな、おっちゃん的お返事にズコッとイスから転げ落ちそうになりながらも耐える。
分かってる。分かっているよ。おっちゃんってば、どうしてもそういう言い方になっちゃう人なんだよね。
でも、これでハッキリとした。おっちゃんは、お姫様に、お持ち帰りなどされる意思など、これっぽっちもないのだ。
さあ、どうするマチルダ姫様——。
なぜだかドヤ顔のわたし。
「そう……。それは残念ね。お二人には国賓級の、おもてなしを考えていたのですけれど……」
まったくもって残念ではなさそうな表情で、お姫様は、そう宣われた。
「ちょっと待ったーっ!」
思わず叫んでしまうわたし。
どういうこと? どういうこと? 国賓級のおもてなしって、どういうこと?
「あら、ミヒャエルから聞いておりませんの?」
ずっと笑顔を保ち続けてきたお姫様が、僅かばかりに意外そうな表情に変わる。
「今回の帰郷、家族に私の元気な姿を見せる、というのが建前ではありますが、実は我が国で広まっているコーヒーが、ようやくこの国でも飲まれるようになったとの情報を受け、全国カフェ振興委員会名誉会長である私自ら視察に参った次第なのです」
ええっ!? お姫様って、そんなことまで公務としてやっているの!? と、いうことは……、だよ。
「で、では、おっちゃ……、いえミヒャエルさんを、隣国にお連れするっていうのは……」
「ええ、そうです。この国のカフェ創設の第一人者である彼と、その奥方であられる貴女を、我が国にお招きしたい所存なのです。ただ、どうやら私の受け取った情報と一部齟齬が生じて、ご迷惑をお掛けしたことは甚だ遺憾ではありますが」
ありゃー、わたしがおっちゃんの奥さんだなんて情報の出所っていったいドコよ? い、いえ、とっても嬉しいんだけれど……、ちょっぴり恥ずかしいじゃないか!
そ・れ・よ・り・もっ。おっちゃん、この話し、いつから知ってたの? きっと、随分前からだよね! なんで教えてくれなかったのさ。相談の一つもしてくれたら良かったのに。
そう訴えかけるわたしの目を避けるように、おっちゃんはそっぽを向く。盛大に耳を真っ赤にしながら。
小さなため息が、ひとつ。噂の出所……、まあ、だいたいの想像は着くんですけどね。
あと、おっちゃんが、なんでこの話しをしたがらなかったかっていう理由も、なんとなくだけど分かる。
でーもー、ひとこと言ってやらないと気が済まない。
こういうことって、どうやら最初が肝心な気がするのだ。
心の内にわだかまっているものを、そのままズルズルと引きずってちゃいかーん!
と、つい最近、というか、ほんのついさっき考えを改めた次第。
そんな訳で、早速おっちゃんに詰め寄ろうとしたその時、『炎の剣亭』の扉をノックする音が響いた。
なんだか既視感のある光景だけれど、違っているのは、おっちゃんの背中には緊張感の欠片も感じないこと。
言ってしまえば、わたしたちの追求を逃れる口実ができたかのように、いそいそと向かっている、まであるのだ。
今、大切なところなんだよ! ああもうっ、誰なのかな? かなっ?




