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第158話 これで、いいのだ!

「むーっ! なにがなんだか、さっぱり分からないよ?」


 わたしもまた立ち上がると、おっちゃんを見上げる。

 心なしか、持ち直したと思っていた眉と口元が、またもや下がっている気がした。


「……だから、まあ、そういうことだ」


 下からのわたしの視線から逃れるように、耳まで赤くしたおっちゃんは、そっと顔を逸らす。


「そんなことより、さっきからお前が言ってる『おっちゃん』ってのは、オレのことなのか?」


 ——しまった!


『おっちゃん』のことを、『おっちゃん』と口に出して呼んだのは、実は初めてのことなのだ。

『おっちゃん』呼びは、あくまで心の中でだけ、こっそりとそうしていただけのこと。

 いつもは、ちゃーんと『ミヒャエルさん』と呼んでいるよ。


 親しみを込めているとはいっても、さすがに雇用主のことを『おっちゃん』呼ばわりというのは失礼過ぎるだろうか。

 それにだよ。好きになった相手を『おっちゃん』と呼ぶのは、乙女としてはいかがなものか。と思わないこともない。

 けれども……。


 さてさて、なんと答えたら良いものか?


 背の高いおっちゃん。比べて、ちびっちゃいわたしは、無言でその顔を見上げるばかり。

 けれども下から見ても分かるくらい、おっちゃんの眉と口元は、更にぐぐっと下がった。


「……やっぱり、そうなのか……」


 ああ、傷つけるつもりなんてなかったのに。ごめん、おっちゃん。


 だってミファ……、ミハ……、ミヒャエルさんって言いにくいんだもん。だけど、それだけが理由ってことじゃあないんだよ。

 誰がなんと言おうと、『おっちゃん』とういう呼び方は、確固たる信念に基づいているのだ、わたしの中では。


「まあ、お前から見たら、オレって『おっさん』に違いないよな」


『おっさん』じゃなくて『おっちゃん』なのっ!


 同じように思えて、その二つは全くの別ものなのだ。少なくても、わたしにとっては。

 どこが、どう違うのだと問われれると、あまりうまくは言えないのだけれど。

 なにが違うんだと言われてしまえば、それはそこまでのものなのだけれど。


「ごめんなさいっ! でも、『おっちゃん』は『おっちゃん』なので、『おっちゃん』としか呼びようがなくて、わたしが『おっちゃん』と呼びたいのは『おっちゃん』だけで、そこらのおっさんとは、全く別のものであって、言うなれば、『おっちゃん』の称号は唯一無二のものであって、『おっちゃん』以外に、『おっちゃん』は考えられないというか……」


 しどろもどろになりながら、わたしはおっちゃんを一心に見上げる。

 今や、おっちゃんの眉と口元は、だらりと下がりきっていた。


「うふふふふふっ、ふふふっ、ふふふふふっ」


 もう、誰よ? そんなに笑わないでよ!

 わたしは、こう見えて真剣なんだから。

 本気と書いて、マジと読ませたいくらい。


 笑い声の主は、もちろんマチルダ姫様しかありえない。

 お姫様は、今までわたしが見た中で、おそらくは史上最大の上品な爆笑をしていた。


 恐るべきは、お姫様! ここまで上品な爆笑だなんて!

 というより爆笑って、こんなに上品にできるものだったの?


 ひとしきり笑ったあと、目尻に涙を滲まながらも、ようやくお姫様は口元を引き締める。


「あなたたちって本当に仲がいいのね。私が心配しなくても、二人で上手くやっていけそうじゃない」


 でもね、ミヒャエル——。

 心なしか、ちょっぴり厳しい目つきで、おっちゃんを睨むお姫様。


「あんな調子じゃあ、伝わるものも伝わらないわ。あれほど言ったのに、まだわからないのかしら」


「む、そうなのか」


 お姫様は、おっちゃんにツカツカと歩み寄ると、腕を伸ばし、やにわに両の頬をむにーっと引っ張った。


「当たり前じゃないの。今度は、ちゃんと伝えるのよ。わかった?」


「わはっは。わはっはら、ほのへをはなひてふれ」


 お姫様は、おっちゃんの頬を手放すと、代わりに今度は、その耳を引っ張る。

 そして、そのまま手元へ引き寄せ、自らもつま先立ちとなり、顔を寄せた。


 えええーっ? もしかしてキス? キスしちゃうの?


 焦りのあまり、一瞬でうろたえるわたし。でも、あまりにも突然の出来事に身動きはもちろん、声のひとつも上げることも叶わなかった。

 けれども、お姫様はキスをしようとしたのではなかった。冷静に考えたら、お姫様が人前でそんなことするはずはないのだ。


 お姫様は、おっちゃんの引っ張った耳に向かって、何事かを囁く。

 おっちゃんは、耳を引っ張られたまま、無言で何度も頷いていた。


 それから、くるりとわたしの方を振り向くお姫様。


「ミヒャエルとの“お話し”はつきましたわ」


 そう、(のたま)った。


「それならば、もうこの手を離してくれないか」


「あら、失礼」


 掴んで引き寄せたままだった、その指をそっと離すお姫様。

 耳と頬をさすりながら、屈んでいた身体を起こすおっちゃん。

 その表情には、ほんの少しウレシ毛が生えかけているのが見て取れた。


 なんだかそのやりとりが、やけに親しげに見えて、それがまるでわたしの知らない二人の旧知の間柄を示しているような気がして、意識が瞬時に暗黒面(ダークサイド)に堕ちそうになる。


 けれども、


「今日の今日まで、彼が私には、あんな顔を見せたことはなかったわ」


 お姫様のその一言で、またもや一瞬のうちに暗黒面(ダークサイド)に堕ちかけていたわたしの意識は、こちらへ無事に戻ってきた。


「大丈夫。あなたの気持ち、ちゃんとミヒャエルには届いている」


 もっとも——。

 お姫様は、少し困ったような、心配そうな、憂いを表情に滲ませる。


「あのようすだと、あなたにも理解(わか)るようなお返事ができるのは、当分先になりそうだけれど」


 お姫様って、やっぱりお姫様なのね。敵わないなあ、もう。


 ごめんなさい。

 わたし、お姫様のことを、おっちゃんを連れていっちゃう、自分勝手な女の人みたいに思ってました。

 一方的に、わたしの知らないおっちゃんを知っていることを見せつける、タチのワルい元カノみたいに思って、ヤキモチ焼いちゃいました。

 でも、違っていましたね……。


「ありがとうございます」


 万感の思いを込めて、わたしは丁寧にお辞儀をする。


「改めまして、いらっしゃいませ。コーヒーのお代わりはいかがですか」

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